長年の経験がソフトパワーに
当時、石茱樺が直面していたのは台湾の紅茶産業全体の衰退である。父親の石朝幸はかつて台湾農林公司「持木紅茶工場」の製茶技師と工場長を務め、台湾紅茶の盛衰を経験していた。
日本統治時代、日本人は魚池郷の緯度がインドのアッサム地方に近く、風土や気候条件が合うと考えて紅茶栽培を開始し、後の1960〜70年代には紅茶の輸出で栄えた。1961年には栽培面積はピークに達し、魚池や埔里、水里を合わせて1700ヘクタールを超えていた。
「父の時代、紅茶は飲むものではなく、輸出して外貨を稼ぐものでした。しかし私が受け継いだ頃は輸出は衰退し、魚池の紅茶畑は100ヘクタールしか残っていませんでした」と言う。石茱樺は、苦労して紅茶の事業を続ける必要はないと考えたが、父親は高齢になり、また公務員家庭に育った夫の陳彦権が田園生活に憧れていたこともあり、茶畑を引き継ぐために帰郷したのである。
1999年の台湾大地震で日月潭も大きな被害に遭い、経済部中小企業処と魚池郷が紅茶を地域の特色ある産業として促進することを決めた。そして茶葉改良場が台茶18号、21号、22号の新品種「台湾味」を開発し、台湾紅茶に新たな風味をもたらしたのである。茶葉改良場はさらに、機械ではなく人手による一心二葉の摘採を推進したことで、台湾紅茶は輸出用から高級なブランド茶へと生まれ変わったのである。
「この追い風に乗って、レベルアップに成功しました」と石茱樺は言う。現在、日月潭は震災を乗り越え、魚池郷の紅茶畑も600〜700ヘクタールまで回復し、日月潭紅茶は華麗なる変身を遂げた。かつて機械で摘採していた茶葉は細かく切るしかなく、600グラム当たり12元にしかならなかったが、現在は人の手で摘むことにより200〜250元になり、都会で働いていた若者たちも茶栽培のために帰省するようになった。
「和菓森林」総経理の石茱樺(左)と夫で茶荘主の陳彦権は、日月潭の「紅茶ブランド化」と「茶工場茶荘化」の推進者でもある。(林旻萱撮影)