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芸術文化

シンプルながら創意に満ちた

シンプルながら創意に満ちた

台湾の初代モダニズム建築

文・蘇俐穎  写真・林旻萱 翻訳・山口 雪菜

4月 2019

陽明山の米軍住宅群。(林旻萱撮影)

歴史的建築物は古いほど価値があるのだろうか。いや、そうとは限らない。

中国伝統の宮廟建築や庭園、あるいは日本統治時代の役所の建築物や木造の官舎などは良く知られているが、これらの他に、台湾には第二次世界大戦後にアメリカによる援助を受けて建てられた歴史的建築物も少なくないのである。

1951~1965年の間、アメリカから台湾に毎年1億米ドルに達する資金が提供された。経済援助、技術支援、教育などの目的で投じられたこの資金は、台湾の運命を変えることとなる。時がたつにつれ、この時期のことを覚えている人は少なくなったが、今も残る建築物の中に往時をしのぶことができる。

アメリカからの援助で建てられたモダニズム建築は極めてシンプルだが、建築家は細部に創意ある装飾を施し、幾何学ラインの美を表現した。

身近にありながら気づかない

米国から援助を受けていた時期の建物は決して少なくない。2016年に政府文化部が提出した「米国援助関連の建築文化資産評価計画」によると、援助を受けていた時期に借款や基金などによって建てられた建築物は500件余りに上る。内容は軍事施設や工場、オフィスビル、学校など、形態はさまざまだ。

例えば台湾大学。ヤシの木が並ぶメインストリートの両側は日本時代に建てられたものだが、その後ろの建築物の多くはアメリカからの援助を受けたものが多い。

援助は米国の政府だけでなく、教会などの民間からも届き、東海大学はアジアキリスト教主義高等教育合同理事会によって設立された。

台北市の民生地域も、米国からの借款をもとにアメリカの住宅地を参考に区画された地域である。

これほど多いのに、あまり注目されないのは、日本統治時代のような権威的政府による統一したスタイルがなく、また経済効果や機能性が重視されたため、特に一致した美学は強調されなかったからだ。

しかし、台湾の建築史において米国からの援助は意義深い。この豊富な資金は、当時の台湾の建築家に活躍の場をもたらした。彼らはモダニズムの影響を強く受けたほか、プレストレスト‧コンクリートや中空ブロックなど、技術や建材の面でもアメリカの影響を受けた。

当時を想像してみよう。戦争が終わったばかりで物資は乏しく、日本人が残した大型建築物の他は木造の官舎や伝統のレンガ造りの家が並んでいた。そうした中、シンプルながら幾何学的造形美を持つ現代建築が出現し、台湾の建築史に新たなページが開かれたのである。

アメリカからの援助で建てられたモダニズム建築は極めてシンプルだが、建築家は細部に創意ある装飾を施し、幾何学ラインの美を表現した。

アナログレコード復興の基地

台北市文化局による古い建築物の修復計画において、リノベーションを担当した黄巣設計工務店の黄建華は「設計は人のためであって、思想のためではない」と考える。この考えから、荒廃していた古い建物に新たな生命が宿ることとなる。

草山の中腹、900坪という広大な敷地を擁する米軍倶楽部は、天井の高いコの字型のレンガ造りで、かつては屋外に公式規格のプールもあった。ここが今はレストランや展覧会場、ホール、アナログレコード‧コレクションなどを持つ多機能空間へと生まれ変わった。

黄建華は古い英語の歌を聴きながら、当時のアメリカ人が歌やダンスを楽しむ様子を想像した。今回のリノベーションを請け負ったRitek社は、実は台湾で最初にレコードを生産したメーカーであり、この偶然もあって、彼は空間企画に音楽の要素を取り入れることにした。

この建物は、米軍顧問団の技術者Haigo T.H. Shenが建てたものだが、時期を異にして増改築が行なわれたため、構造は木造、レンガ、鉄骨、鉄筋コンクリートの4種類が融合している。複雑な設計だがリノベーションチームは手を抜くことなく、ほぞ接ぎなどの伝統工法をベテラン職人に依頼し、傷んでいた屋根をふき直した。黄建華は、アメリカ南部のカントリースタイルを取り入れ、床までのアルミの格子窓を設計した。最も特徴的なのは屋根瓦だ。同じ瓦を生産するメーカーは廃業していたが、その倉庫に当時のレンガが数千枚も保管されていたのである。当時の瓦とは色が違うのだが、オレンジ色やだいだい色などのグラデーションがかえって美しく、重ねてきた歴史を象徴しているかのようだ。

交通大学竹銘館の外壁には、アメリカからの援助を表す「美援」のプレートが貼られている。

現代建築に東洋のエッセンス

戦後間もない頃の著名建築家‧王大閎は、国父記念館や外交部ビルなどの公共建築を手がけ、台湾大学のキャンパスにも少なからぬ作品が残っている。その建物の特色は、西洋のモダニズムに中国伝統建築の要素を融合させた点にある。台湾大学の第一学生活動センターを見ると、空間は3×3の9コマの格子を基礎とし、屋根のラインや階段にモダニズムの特色を具えている。それと同時に、親しみのある中国式の建築手法も取り入れた。例えば、細長く赤いドア、伝統的な木枠の窓を模した格子窓、建物周囲の回廊などであり、東洋と西洋がうまく融合し、当時の建築家が考えた台湾建築の理想形が見て取れる。

緑豊かな台湾大学のキャンパスで、建築専門家・謝明達の説明を聞きながら、米国からの援助で建てられた建築物を訪ねる。

幾何学ラインの美

前世紀の中頃、アメリカ中西部では透かし彫りのコンクリートブロックを用いた建築設計が流行した。台湾伝統の閩南式建築でも昔から透かし彫りの装飾がよく用いられてきたため、アメリカの手法が台湾に伝わると、台湾の建築家もそれを馴染みのあるものとして取り入れた。透かし彫りコンクリートブロックの壁が、この時期の建築の特色となったのである。

農業陳列館は、コンクリートの壁に空いた丸い穴に筒状の瑠璃瓦がはめ込まれていることから「洞洞館」とも呼ばれる。台湾大学の広大なキャンパスの中でも人目を引き、すでに「有形文化資産」に指定されているのもうなづける。細部からは、建築家がモダニズムのシンプルさを失わないようにしつつ、限られた空間で最大限に創意を発揮しようとしたことがうかがえる。一階外壁のタイルは台湾伝統の赤レンガを思わせ、その上下の端はタイルが縦に組まれている。回廊の外側の切石のラインは柱の分割線と一致している。屋内の二つの階段は、一つは螺旋階段、一つはかね折れ階段で、細部まで繊細なデザインが幾何学ラインの変化を楽しませてくれる。

陽明山・米軍倶楽部 沈祖海/1968年(林旻萱撮影)

中空ブロック建材の多用

素朴な外観の台湾大学旧体育館にも、アメリカから援助を受けていた時期の特色が見られる。

細長い箱のような外観はこの時期の建築物によく見られるものだ。壁面を飾る透かし彫りのコンクリートブロックに加え、建材として大量の中空ブロックが用いられている。淡江大学建築学科兼任講師の謝明達によると、中空ブロックは従来の赤レンガよりも製造が容易なのだという。製造にかかる時間が短く、不良率が低く、完成から7日後には使用でき、28日で設計で求められる強度に達する。また、中空ブロックは体積が比較的大きいため、整然と並べやすく、施工も容易になるのである。この当時、台湾は建設ラッシュで、レンガの供給が間に合わなかったため、アメリカの提案で、多くの建物に中空ブロックが採用されることとなったのである。

アナログレコード産業と関わりの深いRitek社は、古い空間のリノベーションに資金を出し、会社のレコードコレクションもここに収めた。

かつての米軍礼拝堂

この時期、同じく台湾大学内に建てられた建築遺跡は、管理学院と第二学生活動センターの間にある。かつて台湾に駐留していたアメリカ空軍基地の台北通信ステーション(Taipei Air Station)であり、取り壊された塀の跡が今も残っている。

現在の台湾大学幼稚園は、かつて自動車整備工場だった。そこから遠からぬところにある、文化芸術活動を行なう雅頌坊は米軍が建てた教会だった。正面から見るとケーキの箱のような不規則な五角形で、かつての祈りの場が今では小規模なホールとなっている。

かつてはプールだった場所も、整備し直してペンキを塗り替え、ゆっくり過ごせる落ち着いた休憩エリアとなった。

漢代の建築装飾を融合

交通大学が最初に台湾での授業を再開した博愛キャンパスにも、この時期の建物が数々残っている。門をくぐって最初に目に入る生物科技学科館を手掛けたのは、南海学園科学館を設計した盧毓駿である。白くシンプルな外観のこの建物には、中国伝統のモチーフが多用されている。正門上の手すりには三叉槍の形の枡形が施され、これは漢代に「人の字の間を補う」とされたものだ。屋上の手すりの透かし彫り装飾は「華」の字の一部で、当時の建築界で非常に好まれた造形である。台湾建築学会や成功大学建築学科もこれをロゴとして採用しており、この造形も枡形から来ている。また正門左にはアメリカからの援助で建てられたことを記念して「美援」と刻まれている。

アメリカは台湾人の科学的知識のレベルを高めることに力を注ぐと同時に、教育の需要を満たすため、学校内に少なからぬ科学教室を設けた。中でも清華大学キャンパスに、教育と研究の目的を兼ねて設けられた原子科学技術発展センターには数少ない原子炉も設置されている。この建物は清華大学土木学科出身の張昌華が手掛けたもので、60年以上の歳月を経た今も、どっしりとして非常に堅固である。こうした研究‧教育施設の他に、当時、年々増え続けていた学生の需要に応えて、学生寮も建てられた。原子科学技術発展センターの近くにある明斎も張昌華の設計である。

リノベーションによる再利用に成功した米軍倶楽部。改修を手掛けた黄建華は、これはさまざまな要因が重なり合った結果で、このように意義深い場はなかなかないと言う。

王大閎の建築の特色は、西洋のモダニズムに中国伝統建築の要素を融合させた点にある。台湾大学第一学生活動センターの場合、格子状の構造を基礎とし、屋根のラインや入口の階段にモダニズムの特色を具えている。

王大閎の建築の特色は、西洋のモダニズムに中国伝統建築の要素を融合させた点にある。台湾大学第一学生活動センターの場合、格子状の構造を基礎とし、屋根のラインや入口の階段にモダニズムの特色を具えている。

「洞洞館」とも呼ばれる台湾大学農業陳列館は、コンクリートの壁面に瑠璃瓦がはめ込まれている。(林旻萱撮影)

台湾大学・旧体育館。細長い箱のような外観はこの時期の建築物によく見られるものだ。壁面を飾る透かし彫りのコンクリートブロックに加え、建材として大量の中空ブロックが用いられている。

台湾大学・芸文センター(雅頌坊)1963年。

台湾大学・芸文センター(雅頌坊)1963年。

交通大学・竹銘館。白くシンプルな外観のこの建物には、中国伝統のモチーフが多用されている。正門上の手すりに施された三叉槍形の枡形は漢代に「人の字を補う」とされたものだ。

清華大学のキャンパス、原子炉も備えた原子科学技術発展センターは、教育と研究の目的を兼ねた施設であり、やはりアメリカから援助を受けていた時期に建てられた。