南半球でゼロから関係を築き上げる
「私が赴任するまで、我が国とオーストラリアの関係は非常に疎遠でした」1991年、李宗儒は初めて館長としてメルボルンに赴任した。「遠東貿易公司」という名称のオフィスで、職員は彼のほかに秘書が2人いるだけだった。当時はオーストラリアの外務省を訪問することさえかなわない状態だった。「私は、この世の人と人、人と事、人と物の関係はすべて縁だと思っています」と言う李宗儒は、外交官としての鋭い観察力から、オーストラリア政府がアジア重視への方向転換を考えていることを察知した。
「そういう時期に赴任したのは幸運なことでした」と言う。そして誠意と勤勉さをもってオーストラリア連邦議会との関係を一歩ずつ築いていった。翌年には同国外務省を直接訪問できるようになり、また事務所を首都キャンベラの各国大使館が集まるエリアに移し、名称も「台北経済文化代表処」へと改めることができた。
当時の蕭万長‧経済相や呉伯雄‧内政相の訪問も実現し、オーストラリア連邦議会内の台豪交流グループも、ゼロからスタートしてメンバー90名の規模まで成長した。当時、同議会における米豪交流グループのメンバーは102名、英豪交流グループは84人だったが、わずか2年の間に台豪交流グループの規模は英豪グループのそれを超えたのである。「外交関係のない状態で、これは大変なことです」と言う通りで、オーストラリア連邦議会との関係をここまで築いた李宗儒の功労は言うまでもない。
こうした努力の末、当時の劉松藩‧立法院長、王金平‧副院長、潘維剛‧立法委員らもオーストラリア連邦議会を訪問し、同下院議長の歓待を受けた。この成果を我が国外交部も重視し、1993年に李宗儒は1ヶ月にわたりニューヨークに派遣され、我が国初の国連ワーキンググループ参加をサポートした。
オーストラリアとの緊密な関係には台湾企業も関心を注ぎ始めた。オーストラリア政府も我が国の経済的実力を認めて両国の関係を重視し始め、在台外交人員のレベルを上げていった。
3年後に李宗儒がオーストラリアを去る時には、同国連邦議会の議員35名が議会内のレストランで送別会を開いてくれたという。外交において大きな実績を上げただけでなく、真の友情をも築いたのである。
韓国は李宗儒が退官前に最後に赴任した国である。子供の頃、空軍のパイロットになるのが夢だった彼は、航空交渉で大きな業績を上げた。韓国での2年間、李は国会議員177名を頻繁に訪ねて人脈を築き、友好的な協力関係の基礎を築いた。
紅毛城の建築物と文物には歴史的価値があり、定時に解説員が案内してくれる。