
将軍の家に生まれた李宗儒は、生まれながらにして義侠心が強かった。30年にわたり五大大陸で在外公館の長を務め、外交史に名を連ねてきた。60歳で退官してからは悠々自適の、玉を愛でる日々である。外交官としての生涯を振り返る時、使命を全うし、何の悔いもないと語る。
職務に当たっては常に完璧を求めてきた。オーストラリアでは、初めて代表処の長を務め、経済関係を大きく前進させた。また、歴史を研究し、筋を通してイギリスから紅毛城を無償で取り戻すことに成功した。さらに、韓国との交渉を大きく前進させて航空便の再就航に成功し、観光産業の発展にも大きく貢献した。

台湾はガンビアの要人警護官訓練に協力した。1997年、当時の同国ジャメ大統領が修了式を執り行い、李宗儒は大使として招かれた。(李宗儒提供)
赤レンガの紅毛城の歴史
赤レンガの建造物は青い空に美しく映える。屋根の高みには青天白日満地紅の国旗がはためき、それは半世紀前のあの朝を思い出させる。
「当時、外交部(外務省)欧州司の科長だった私はある陳情を受けました」と言う。若く、正義感の強い李宗儒は、外交に関わるこの陳情を重く受け止めた。紅毛城の建つ淡水河の河口に面した丘は、戦略的に極めて重要な位置にあり、歴史上常に要衝とされてきた。紅毛城入り口両側にある九つの旗がその歴史の変遷を物語っている。
1628年、まずスペインがここにセント‧ドミニカ城を建て、1644年にはオランダがその近くにアントニー要塞を設けた。1661年には鄭成功がここを治め、1724年に「台湾府淡水捕盗同知」の王汧が改修して城壁と四つの城門が設けられた。1867年からはイギリスがここを租借して領事館とし、傍らに領事公邸を増設した。1941年には太平洋戦争勃発により日本が紅毛城を接収し、戦後にイギリスに返還された。そして1972年にイギリス領事官は撤退し、オーストラリアとアメリカが管理することとなる。当時、深く閉ざされた紅毛城には、歴史的価値のある多数の文物が塵に埋もれていた。歴史研究の立場からも、観光面からも、紅毛城を租借地のまま荒廃させることはできないと李宗儒は考えたのである。
「当時、イギリスは租借地に建てた領事館であるから、我が国が建造物を買い取るべきだと主張しました」そこで李宗儒は清朝の文書を渉猟し、紅毛城の歴史を研究した。そこで発見したのは「イギリスは一度も租借料を支払っていない」ということだった。この証拠を手にし、イギリスとの交渉に臨んだところ、イギリスは自らに理がないことを知り、1980年6月30日、国際的な著名弁護士で東呉大学学長だった端木愷に紅毛城の鍵を託し、外交部欧州司の胡世勲‧司長が科長と担当者を率いてこれを受領したのである。「その時の、国土を回復したという感動は、今も鮮明に覚えています」と李宗儒は言う。

ロサンゼルスの華僑は100万人を超え、中華会館は百年来、常に中華民国を支持してきた。1997年、李宗儒はロサンゼルス駐在弁事処の処長を務め、チャイナタウンでの双十国慶節祝賀イベントに参加した。(李宗儒提供)
南半球でゼロから関係を築き上げる
「私が赴任するまで、我が国とオーストラリアの関係は非常に疎遠でした」1991年、李宗儒は初めて館長としてメルボルンに赴任した。「遠東貿易公司」という名称のオフィスで、職員は彼のほかに秘書が2人いるだけだった。当時はオーストラリアの外務省を訪問することさえかなわない状態だった。「私は、この世の人と人、人と事、人と物の関係はすべて縁だと思っています」と言う李宗儒は、外交官としての鋭い観察力から、オーストラリア政府がアジア重視への方向転換を考えていることを察知した。
「そういう時期に赴任したのは幸運なことでした」と言う。そして誠意と勤勉さをもってオーストラリア連邦議会との関係を一歩ずつ築いていった。翌年には同国外務省を直接訪問できるようになり、また事務所を首都キャンベラの各国大使館が集まるエリアに移し、名称も「台北経済文化代表処」へと改めることができた。
当時の蕭万長‧経済相や呉伯雄‧内政相の訪問も実現し、オーストラリア連邦議会内の台豪交流グループも、ゼロからスタートしてメンバー90名の規模まで成長した。当時、同議会における米豪交流グループのメンバーは102名、英豪交流グループは84人だったが、わずか2年の間に台豪交流グループの規模は英豪グループのそれを超えたのである。「外交関係のない状態で、これは大変なことです」と言う通りで、オーストラリア連邦議会との関係をここまで築いた李宗儒の功労は言うまでもない。
こうした努力の末、当時の劉松藩‧立法院長、王金平‧副院長、潘維剛‧立法委員らもオーストラリア連邦議会を訪問し、同下院議長の歓待を受けた。この成果を我が国外交部も重視し、1993年に李宗儒は1ヶ月にわたりニューヨークに派遣され、我が国初の国連ワーキンググループ参加をサポートした。
オーストラリアとの緊密な関係には台湾企業も関心を注ぎ始めた。オーストラリア政府も我が国の経済的実力を認めて両国の関係を重視し始め、在台外交人員のレベルを上げていった。
3年後に李宗儒がオーストラリアを去る時には、同国連邦議会の議員35名が議会内のレストランで送別会を開いてくれたという。外交において大きな実績を上げただけでなく、真の友情をも築いたのである。
韓国は李宗儒が退官前に最後に赴任した国である。子供の頃、空軍のパイロットになるのが夢だった彼は、航空交渉で大きな業績を上げた。韓国での2年間、李は国会議員177名を頻繁に訪ねて人脈を築き、友好的な協力関係の基礎を築いた。

紅毛城の建築物と文物には歴史的価値があり、定時に解説員が案内してくれる。
韓国との航空便再就航
韓国と正式な外交関係はないものの、両国の貿易関係の促進は外交官の重要な使命である。1992年の国交断絶以来、両国航空会社の直行便もなくなり、2001年の時点で韓国との貿易赤字は34億米ドルに達していた。状況の悪化を食い止めるため、韓国に赴任する前に李宗儒は経済部などの関係機関と話し合った。そして2001年に対外貿易協会が正式に「ソウル台湾貿易センター」を設立した。これを機に韓国との貿易赤字は大幅に減少し、2015年には5億米ドルまで下がった。
2001年5月に李が韓国に着任した時、大韓航空は中国大陸の20都市に就航していたが、台湾と韓国との直行便はキャセイパシフィック航空やタイ航空など外国の航空会社しかなかった。こうした状況が長期に渡れば、両国の関係は疎遠になっていく。2002年12月、さまざまな条件が整って相互に直行チャーター便が乗り入れ、2004年9月には航空協定が結ばれ、直行便が再就航した。
これにより、紅毛城を訪れる韓国人観光客も増えた。2003年、台湾を訪れる韓国人観光客は10万人に満たなかったが、2018年には102万人を超え、15年で10倍に成長したのである。現在では、台湾は韓国の海外旅行先の第3位になっている。

(左)紅毛城の前に立ち、来し方を思う。李宗儒がイギリスからの無償返還を勝ち取った文化財には、今では世界中の観光客が訪れる。
退官後は古玉を愛でる
「ロサンゼルスで処長を務めていた頃は、一日に16もスケジュールが入っていました」という当時、過労で倒れたことがある。肝臓の数値が悪化していて医師も慌て、李は田舎で隠居暮らしをしようかと考えた。「このマグカップは大切な思い出です」と取り出すのは、ロサンゼルスの同僚たちが送ってくれたもので、「The best leader in the world」と書かれている。自分のチームをいかに大切にしていたかがうかがえる。
李宗儒は趣味も手を抜かない。外交部でスポーツクラブの部長を務めていた時は、さまざまな制度を整えて、自らも思い切り楽しんだ。「運転手や用務員とも仲良くなりました」と言う通り、分け隔てなく付き合う李は人気者だった。
「歴史的意義を持つ文物には、どうしようもなく惹かれます」と言う。ある封筒の消印から、外蒙古中国郵政に興味を持ち、その研究に没頭して『外蒙古中国郵政史』を著した。我が国の郵政史研究における貴重な一冊である。
常に身につけている「和田玉」は繊細な結晶を見せる。「古い玉の中に込められた先人の魂に惹かれます」と言う。長年にわたる玉の研究成果は『扳指乾坤』『玉皮至美』の二冊にまとめ、同好の士の参考に供している。濁った古玉が、李宗儒が語り掛けるうちに原始の輝きを取り戻す。そして輝きを放った後の静けさのように、李宗儒は悠々として穏やかに微笑むのであった。

李宗儒が愛する美しい古玉。

明の時代の玉帯板。

内外から観光客が訪れる美しい紅毛城。