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台湾をめぐる

日本統治時代の建築物

日本統治時代の建築物

時空を超える台湾の文化遺産

文・蘇俐穎  写真・林旻萱 翻訳・松本 幸子

4月 2025

1895~1945年の半世紀にわたる日本統治時代は台湾にとって長いとも短いとも言えないが、異なる文化の流れが取り込まれた時代だったことは間違いない。長い年月を経た今も多くの建造物が残され、その時代の歴史を留めている。

大規模建築なら総統府や監察院、台南市美術館、小規模なら台北の青田七六や楽埔薈所、台中の道禾六芸文化館、嘉義の檜意森活村、花蓮の将軍府1936など、これら日本統治時代の建造物の中には、長年放置されていた後に修復され、新たな役割を与えられたものが多い。そしてこれら古き趣のある建物は、国内外からの観光客に人気のスポットにもなりつつある。

近代市民生活の始まり

我々は建築文化資産専門家の黄郁軒さんとともに台中市中区台中公園の日月湖に佇む湖心亭を訪れた。台中市政府のロゴにも使われているこの建物は、台中市民の記憶と深く結びついている。黄さんも子供の頃にここで父親の漕ぐボートに乗ったことがあるという。台北の淡水、高雄の愛河や西子湾のように、都市において市民が水に親しめる場所となってきた。

日本統治時代の建築に詳しい黄さんが時代背景を説明してくれた。早くから発展していた南屯区や西屯区に対し、中区は日本統治時代の近代化の中で形が整えられた地域で、台中公園も日本統治時代初期に誕生している。華人社会にまだ公共スペースという概念のなかった時代、市民のための公園は近代化と進歩の象徴だった。湖心亭は、1908年に台中公園で開催された縦貫鉄道開通記念式典に参列する閑院宮載仁親王のために休憩所として臨時に建てられたものだった。それが皇族の間で評判となり、明治天皇の孫だった裕仁親王(昭和天皇)も訪問を希望されたということで、この建物は永久に残されることになった。

西洋建築の痕跡

やがて時代の変化や政治指導者の交代を経て、近年は台湾全土で相次いで日本統治時代の建造物が修復・公開されている。それら修復の多くに関わった黄さんは、これは文化部(文化省)の進める「再造歴史現場」プロジェクトのおかげだと言う。こうしてリニューアルした建造物は台湾人だけでなく海外からの観光客も魅了している。

「日本人にとって『懐かしい街の風景』が、日本ではなく台湾で生まれている」と言うのは、日本の一級建築士である渡邉義孝さんだ。幾度も台湾を訪れている渡邉さんは、台湾の文化財保護政策が先進的なことや、市民が歴史建造物保存を支持していることに深い感銘を受けている。「台湾の人々は古い建築に価値を見出し、保存・修復して新たな命を与え続けています。若者も、昔を知るお年寄りも、台湾の歴史を残そうとする知識人たちも加わって……、そこには日本にはないエネルギーがあります」

2016年に初めて台湾を訪れ、訪台回数はすでに20回を超えた。建築士である渡邉さんは、台湾全土に多く残る日本統治時代の建造物をスケッチして記録し、それらを台湾で『台湾日式建築紀行』『台南日式建築紀行』の2冊にまとめて出版した。台湾の「日式建築」を最も愛する日本人建築士と言えるだろう。

おもしろいことに、台湾人が日本風と感じるこれらの建物を渡邉さんは「日本建築とは言えない」と言う。神社や仏閣、城、町家などの日本伝統建築と異なり、これら日本統治時代の建造物は、明治維新後に日本が西洋から学び取ったものの痕跡があるからだ。

黄さんも湖心亭がそれを証明していると言う。外壁が明らかにルネサンスの黄金比に則って建てられているのだ。これはまた、この建物が今日でも美しく感じられる理由だろう。同じ中区にあり、湖心亭からもほど近い台中州庁も、天然スレートと銅板を用いたブルーグレーのマンサード屋根を持つなど、ヨーロッパ風だ。昔風の華麗なラインがパリの雰囲気を感じさせる。

渡邉義孝提供、阿哲撮影

古典から近代への過渡期と実験

日本統治時代の建築を研究してきて、黄さんは日本は初の海外植民地であった台湾に大きく力を注いだと考える。公共機関の壮大な建築規模は植民地政権の権威を誇示するものだし、西洋建築には実験的で革新的な材料や工法がよく使われ、国家の威信を示そうという意図が見てとれる。だが政治的目的が何であれ、1895~1945年という半世紀の間に日本人が数多くの優れた建築作品を台湾に残したことは間違いない。

これらの建築は明治、大正、昭和の三つの時代に大きく分類でき、それらが古典から近代へと変化した様子が窺える。

「西洋化」に邁進した明治時代には、積極的に西洋の古典主義建築の要素が取り入れられた。レンガ造りの建物や、草花を彫刻した装飾など、華麗で細部にこだわった建築だ。前述の湖心亭や台中州庁のほかにも、「辰野式」(建築家・辰野金吾が得意とした技法)と呼ばれるスタイルを明確に持つ総統府や西門紅楼、監察院などがある。

大正時代には、ドイツのバウハウスの影響を受けたモダニズム建築が台湾にも根付き始め、機能や効率を重視した四角い建物が生まれた。

大正末期になると、日本人は台湾の廟建築の技術の高さに気づき、台湾の左官職人を雇って、日本より早く台湾でタイル張りの新たな技法を試み始める。四角い形で貼り易いタイルを用いた建築が、こうして昭和にかけて多く出現する。「十三溝タイル(筋面タイル)」を用いた台湾大学校史館(台湾大学旧総図書館)、同文学院(台北帝大文政学部)、台南市美術館一館(台南警察署)は、いずれもこの時代の作品だ。

歴史的建造物を愛する黄郁軒さんは、台中地方法院旧宿舎群や台中市西屯一号穀倉などの修復プロジェクトに参加してきた。

南国の風土に適応

数が特に多い建物では、台湾各地で見かける日本式宿舎がある。黄さんによれば、画一的な外見をしたこれらの木造官舎は、住宅をすぐにも確保する必要から「規則化されたモジュール工法で建てられ、どこでも同じような高さで、また広さは職場での階級に応じた甲乙丙丁のランク分けで畳数が決まっていました」という。

ますます高さを増す都会のビル群の中でこれらは、建物の低さや天然木材の心地良さ、緑の茂る庭などによって、ほっと息のつける懐かしい空間になっている。坪数の有効利用を重視する現代の不動産とは異なり、黄さんにとって、これらの建築には当時の人々の居住環境への理解やこだわり、そして生活の美学が感じられるという。

また、建築を細部まで記録・考察してきた渡邉さんは、これら「日式」建築が台湾の環境や気候に合わせて変化していることに気づいた。

例えば、台湾の高温多湿に対応し、白アリを防ぐため、土台の床束(1階の床を支える短い柱)はレンガ造りで、床の高さも日本よりかなり高くしてある。出窓の下にさらに通気窓が設けられていることも多いし、軒下には雨の侵入を防ぐための横板が取り付けられている。また、木材の断面から雨水がしみ込まないように外壁の下見板の角を銅板で覆っている例もある。

こうした細部から、これらの建築は単純に日本からの移植ではなく、独自の個性を展開していることがわかる。日本の建築構造、工法、技術などが台湾という異郷に根付き、しかも独自の方法で開花している、と渡邉さんは語っている。

明治時代に建てられた台中公園の湖心亭は、外壁の縦横が完璧な黄金比であるうえに、側面の控え壁のラインが安定感をもたらしており、飽きない美しさをかもし出している。

明治時代建設の台中州庁は、交差点に面して聳え立つ、壮麗で威厳のある建物だ。パリ建築を思わせるマンサード屋根は、辰野金吾の弟子である森山松之助の設計による。

日本の一級建築士である渡邉義孝さんは、台湾訪問が20回を超えており、専門的な視点と建築への深い思いから、日本統治時代の 建造物を記録に留めている。(渡邉義孝さん提供)

日本人が町の設計をした台中市中区は、今でも当時の建造物を多く残す。写真は台中州庁と向かい合うように建つ台中市役所。

 

台湾では日本統治時代にタイル張りの技術が導入された。壁の凹部に合わせて作られたタイルから、当時の技術の精緻さが感じられる。

日本統治時代、ヨーロッパ風の建造物を建てたのは日本人だけではなく、台湾人もそうした建物の建設に出資した。写真は台中市中区にある彰化銀行本店で、台湾中部の名士たちが共同で1938年に建てたものだ。現在も使用されている。

高くされた土台、軒下の雨除け、足元の通気窓などから、日本建築が現地化した様子が見てとれる。

日本統治時代から残る建築物は、台湾人が文化資産や歴史を大切にしていることの表れだ。こうした建物は華山1914文創園区や松山文創園区のように商業スペースとして改装され、観光スポットになっている。