
軽工業都市である桃園には、長年にわたって多くの外国人が暮らしている。中でも工場で働くタイ出身の移住労働者が多数を占めているため、桃園ではタイ料理の店が軒を連ねている。その一つ「泰式永順小吃店」は桃園駅の後車站(南口)の東南亜一条街にあり、本格的なタイの家庭料理が楽しめるため、タイ人だけでなく、多くの台湾人にも愛されている
「泰式永順小吃店」の店主、趙秀蘭さんは台湾に来て40年近くになり、数々の苦労を乗り越えて強くたくましく生きてきた。「台湾が大好きですし、台湾人も大好きです」と話し、優しく寛容な心を持ち、感謝を忘れない。「唯一の願いは、家族が平穏無事で寄り添って暮らせることです」と言う。台湾に来たばかりの頃は冬の寒さに耐えられなかったが、今は愛する家族の温もりを感じている。

趙秀蘭さんは常に笑顔でお客を迎え、苦難を乗り越えてきた。
19歳で台湾へ
バンコクの大家族に5人目の子として生まれた趙秀蘭さんは、おとなしく従順な娘だった。7人の子を育ててきた母親は、彼女が5歳の時に亡くなり、電気水道工事の仕事をしていた父親が、働きながら男手一つで子供たちを育てた。
「子供の頃、父は空心菜を食べると目がきれいになると言い、毎日空心菜を食べさせられました」と言う。甘く、せつない思い出だ。父親は、どんなに貧しくても育ち盛りの子供たちに栄養を取らせた。「弁当箱には必ず卵が入っていて、いろいろな方法で調理してありました。父の料理は本当においしかったです」
19歳の時、彼女は叔母と一緒に台湾にやってきた。台北近郊の淡水に住み、パン工場で働き始めた。「台湾はお給料が良くて。バンコクでは月に1800元しかもらえませんでしたが、台湾では月給が1万800元にもなりました」と、当時を思い出して顔をほころばせる。「初めて帰国した時にはたくさんのお土産を持ち帰り、父の手に7500元を渡しました」この父親もすでに亡くなったが、その時のほっとしたような、誇らしそうな表情が今も目に浮かぶという。
だが、北台湾の冬の寒さが身にこたえ、半年もたたないうちに彼女は帰国してしまった。が、2カ月後、叔母が病気になり、再び台湾にもどってきた。いずれにしても台湾に来る運命だったのかもしれないと言う。そうして半年後、彼女は20歳以上年上の台湾人と結婚することとなる。

タイの家庭料理が同郷の人々の心を慰める。
すれ違ってしまった幸福
「いい人で、優しくしてくれました」と言うが、年齢差は大きく、言葉も通じず、生活習慣も違い、決して幸せとは言えなかった。半年後、彼女は短い結婚生活に終止符を打った。「行くところがなくなった私を友人が助けてくれました」と、友人への感謝を忘れない。
離婚した趙秀蘭さんは友人の助けを得て桃園県亀山に移り、雑貨店を開いた。タイの日用雑貨などを扱って大勢の同郷の仲間と知り合った。28歳で再婚した。子供が欲しかったのだが、なかなかできず、数十万元を費やして体外受精を3回試みたが成功せず、その副作用で苦しむこととなった。「これも運命ですから、医者を責めるつもりはありません」と、観音菩薩を信仰する彼女は、すべてを慈悲の心で受け入れている。

テーブルの各種調味料が、濃いめの味を好むお客の舌を満足させる。
苦難は前世の因果
「食堂を始めたのも観音様のお導きです」と言う。もともと食堂を経営していた友人が交通事故に遭ってしまい、彼女に助けを求めてきたのだ。その後、店が繁盛しているのを見た家主が家賃を値上げしたので、その友人は店を移転するほかなくなった。だが、それから8カ月も店舗の借り手はつかず、その家主は彼女を訪ねてきて、家賃は値上げしないので、店を続けてほしいと言ってきた。そこで彼女は店を借りることにしたのだが、思いもしないことに、それが新たな苦労の始まりだった。「店を開いたばかりの頃、借金を返済するために借金を繰り返すことになり、追い込まれて、もう生きていけないと思ったほどです」と、20年前を思い出して涙ぐむ。「借金まみれな上、食事に来た同郷がツケにしてくれと言って代金を払わないことも多く、ツケをためたまま強制送還されてしまう人までいました」。不運はこれだけでなかった。「販売していた電話カードを6万元分も盗まれ、扱っていた酒やタバコも持っていかれ、カラオケ機の中の硬貨まで盗まれてしまったのです」と言う。それでも店を開ければ、食材は現金で仕入れなければならないし、家賃も払わなければならず、一度は夜逃げまで考えた。さらに、ストッキングを履き替えたいというお客に部屋を使わせてあげたら、その人に食材仕入れ用の現金8000元まで盗まれてしまった。
肉体の疲労以上に、心も疲れ果ててしまった。当時、店の貯蔵庫に寝泊まりしていた彼女は、店じまいした後、そのまま床に倒れこんだ。暗闇の中、涙があふれ出てきた。「きっと前世でたくさんの借りを作ったから、今生でそれを返さなければならないのでしょう」。数十年分の思いがこみ上げてくる。
「その後、弟や妹が手伝いに来てくれて、すべてがようやく好転し始めました」。苦難と挫折の日々を乗り越え、趙秀蘭さんの暮らしにようやく陽が差し込み始めた。「数年前、ようやく何とか借金を返し終えました。観音様のご加護に感謝しています」と言う。店内には基隆からいただいてきた観音菩薩像が祀られている。
「私は台湾料理が好きで、特に牛肉麺が大好きなんですが、観音様へのお礼のため、牛肉は食べていません」と言う。台湾に来たばかりの頃、20歳だった彼女は滑って転び、そのままベッドから起き上がれなくなった。「その時、観音様にお願いしたんです。何とか歩けるようになりますように、身体が元通りになったら、一生牛肉は食べません、と誓いました」。その気持ちが通じて身体は回復し、以来30年余り、趙秀蘭さんは一度も牛肉を口にしていない。

タイ料理の魂とも言えるスパイス。趙秀蘭さんは自らタイへ帰って仕入れてくる。
お客様は家族
「料理がおいしいかどうかは別としても、新鮮なことが一番大切です」と考える趙秀蘭さんの食堂の評判は口コミで広がり、毎日常連客や新しいお客が次々とやってくる。今年2月に新たな店を出す準備をしている彼女は、食材の良さに気を遣う。「自分が安心して食べられるものしかお客様に出しません」と言う。安くて良いものを出す、というのが彼女のこだわりだ。
故郷を離れて働くタイ人のための家庭料理だが、タイ伝統の美しい盛り付けにも気を遣う。「評判のいい店があったら、そこの料理をテイクアウトしてきて、どんなふうに作っているのか研究します」と、常に徳を積む気持ちで、精進を重ねている。
「小さな食堂ですから、何事も自分でやらなければ」と、味にこだわる彼女は今も毎月故郷へ帰り、タイの食材を仕入れてくる。だが、台湾に暮らして30年になる彼女は、すでに台湾人の味覚を熟知しており、味の調節も抜かりない。「常に改善しています。お客さんには『もし、おいしくなかったら教えてください』とお願いします」と、厨房に立って数十年になるが、決して自己満足することなく、謙虚にお客の声に耳を傾ける。

店内にはかつてのシャム、ラタナコーシン朝第5代の王、ラーマ五世(1853-1910)の肖像画が祀られている。タイの近代化を推し進めた名君で、商売繁盛にもご利益があるという。
感謝の心で傷をいやす
「もしあなたが私のことを嫌っていても構いません。私があなたを好きなら、毎日微笑みかけます。そうすれば、いつかあなたも私に笑顔を見せてくれるでしょう」と、彼女は微笑みと沈黙をもって次々と襲う困難を乗り越えてきた。首にかけた観音像のペンダントを握りしめる趙秀蘭さんは、しなやかな強さを見せる。それは数々の困難を経てきた後の知恵と言えるだろう。
家族の大黒柱である趙秀蘭さんは、愛情を込めて家の年長者や兄弟の世話をし、下の世代を自分の子供のように可愛がり、育てている。「今、食材の仕入れは弟が担当していて、彼らももう一人立ちできます」と言う。彼らが店内で忙しく働く姿を見て、彼女もようやく穏やかな表情を見せた。「台湾は私の故郷です。今の願いは一つだけ。家族が何事もなく、穏やかに寄り添って暮らすことだけです」と、彼女の店の名前「永順」のように、永遠に平穏無事に暮らしていけることを願っているのである。

新鮮な食材で作った本格的な家庭料理は、タイ人だけでなく台湾人にも愛されている。