
2024年、国際湿地科学者協会(Society of Wetland Scientists、以下「SWS」)の年次大会が、同会設立後44年来初めてアジアで、しかも台湾で開かれる。大会では、ドキュメンタリー作品『野性湿地』が上映され、台湾の湿地保全における成果と、湿地独特の風景や生物が世界に向けて紹介される。
「ほら、美しいスズメダイやルリスズメダイがたくさん泳いでいます。ほかにクマノミやニセアカホシカクレエビなどサンゴ礁に生息する生き物も見えます」と、新北市貢寮の龍洞湾の海中の様子に説明が入る。国立台湾師範大学サステナビリティ管理及び環境教育研究所(大学院)の方偉達所長と学生たちが、台湾北部でサンゴ礁の比較的整った生態系が見られる海域に潜り、それを羅力監督が撮影した映像だ。彼らはこうして珊瑚礁や湿地の生態を調べ、政府による環境管理に役立てている。
もう一つの調査現場は、台北の関渡に広がるマングローブ林だった。2年前、国家公園署の研究プロジェクトが立ち上がり、許可が下りた後、マングローブ林に分け入った。教授も学生もウェーダー(靴部から胸までの防水ズボン)を身に着けて沼地に入る。足を入れるとすぐに太ももまで泥に沈む。再び足を上げると、その足跡の中でトビハゼが少なくとも50匹は跳ねており、ほかにもおびただしいシオマネキが見られる。これはこの湿地に豊かな栄養塩が含まれ、多くのプランクトンや植物がはぐくまれていることを表す。

台湾師範大学の方偉達教授は、海岸や山脈に足を運んで湿地を研究している。(方偉達教授提供)
台湾独特の「垂直湿地」
これら湿地でのシーンは、ドキュメンタリー『野性湿地』に納められている。それは方偉達所長と馮振隆監督が10年を費やし、台湾の山や海の湿地に広がる美しい風景と貴重な生物の姿を記録したもので、「高山の湖」「田畑の湿地」「河川の湿地」「海岸の湿地」の計4集からなる。国家科学及び技術委員会の援助を受けたこのプロジェクトの責任者でもある方偉達教授は、台湾の湿地の特色を海外にも紹介し、やがて『台湾湿地誌』の出版につなげたいと考える。
『野性湿地』は、ラムサール条約東アジア地域センターとSWSアジア委員会による「Best of Best Award」を受賞し、SWSのスーザン・ガラトウィッチ会長が同賞授与のため、2024年4月にわざわざ台湾を訪れた。そしてアメリカ、韓国、タイでも上映されている。
1980年設立のSWSは、湿地への理解、保護育成、修復などを推進し、科学に基づいた管理によって湿地のサステナビリティを促進するために世界中で活動している。
湿地に関する条約「ラムサール条約」は1971年にイランのラムサールで採択され、締約国は170に及ぶ。そしてラムサール条約事務局が管理する「国際的に重要な湿地に係る登録簿」には2337ヵ所の湿地が登録され、総面積は2億5205万1186ヘクタールに達する。
SWSアジア委員会の主席でもある方偉達教授はこう説明する。台湾の湿地は面積で言えば、湿地大国であるイギリスやアルゼンチンほど広くはないものの、その形態は多種多様だ。ラムサール条約の湿地の定義「干潮時における水深が6メートルを超えない海域を含む」に基づけば、台湾のダム、山地の内陸湖、海岸の潟湖、岩礁などはすべて湿地であり、ほかにも塩田や水田などの人工湿地も含まれる。
SWSのベン・ルペイジ元会長は、2年間台湾師範大学で客員教授を務め、玉山国家公園や陽明山国家公園の招きで湿地調査をしたこともあるが、台湾特有の湿地として「垂直湿地」を挙げ、台湾が誇るべきものだと太鼓判を押す。「垂直湿地」について方教授が説明してくれた。一般に湿地と言えば、沼地や潟湖、マングローブ林のような水平的なものを指し、学術界の定義でも「垂直湿地」が含まれたことはないという。だがもし垂直湿地を定義するなら、「傾斜が30度以上の山壁や岩の割れ目で地表水に依存する植生があるところ、または山林の滝、水の滲出のある岩壁、台湾の海岸で見られる『藻礁』なども含まれ、それは高山から海岸にまで至る」という。
ルペイジ氏の考えでは、新北市の老梅緑石槽や桃園市の藻礁も垂直湿地と見なすことができ、しかも高い研究価値があるという。なぜならこれらの海岸で見られる藍藻は、地球上で最初に酸素を生成した生物を祖先に持つ可能性があるため、それにより生物の起源が説明できるからだ。

SWSアジア委員会の主席を務める方偉達教授は、台湾には多様な湿地があると言う。
多様な生物をはぐくむ湿地
世界と比べても台湾の湿地における生物の多様性は大きな特色だ。例えば、渓流にいるサンショウウオやタイワンマスは氷河期の遺存種で、厳しい気候変動や険しい地形の中で進化し繁殖してきた。また新竹県の鴛鴦湖湿地や宜蘭県の神秘湖にはヤマトミクリなど希少な水生植物が生えている。国の重要な保護種のタイワンミズニラは陽明山の夢幻湖だけで見つかっている湿地植物だ。
渓流の湿地に生息するカニクイマングースは保護種だが、新北市貢寮の棚田でよく足跡が見つかる。もし水田や茶畑に多く農薬が使われていれば、彼らの餌となるカエルやカタツムリもいないはずなので、こうした人工的な湿地でも豊かな生態系が保たれていることがわかる。
方教授は、夏に台湾にやってくる渡り鳥のレンカクを例に挙げる。1989年に希少種として保護の対象となったが、2000年には個体数の記録が50羽に満たなかったレンカクの重要な生息地に、高速鉄道が通る計画が発表された。幸い、高速鉄道開発部門や地方自治体、自然保護活動家たちの努力により、台南市官田にあった台湾糖業公司のサトウキビ畑を湿地に変えてレンカクの保護区とし、レンカクには引越してもらうことになった。効果は上々で、高雄市の左営や旗山などでもレンカクの数が順調に増えているという。
「アジアでは鳥が次々と姿を消したり絶滅したりしている国もありますが、台湾では保護種の鳥類は数を増やしています」と方教授は言う。例えば映画監督の梁皆得氏は、すでに絶滅したと思われていたヒガシシナアジサシを馬祖で見つけたし、毎年冬になるとやって来るクロツラヘラサギも2024年には台湾で4135羽に増えていることが確認され、台湾は世界最大のクロツラヘラサギ越冬地となっている。また水草を食べるタイワンジカも馬祖の大坵島や墾丁の社頂自然公園で野性順化が成功している。

卵を抱くオスのレンカク。台湾の生態系保全の成果を表している。(方偉達教授提供)
炭素隔離と治水
地球温暖化の影響で台風や洪水、干ばつが増えているが、大自然は炭素隔離で重要な働きをしており、森林が蓄積するのはグリーンカーボン、海藻や海草床、マングローブ林のそれはブルーカーボン、淡水の湿地のそれはティール(青緑)カーボンと呼ばれる。湿地植物も光合成によって二酸化炭素を吸収するので地球温暖化を緩和する。例えばマングローブ林は炭素隔離量が非常に多い生態系の一つとされているが、その面積は世界で減少しているのに、台湾では増加を続けている。
台湾北部淡水河のマングローブ林は台湾で初めて自然保護区に指定された湿地だが、方教授が学生たちとここで調査をした際の話をしてくれた。初めに足を踏み入れた人が泥に深くはまってしまい、それを助けようとした2人目も動けなくなるという状況で、ついには洗面器が各自に二つずつ配られ、洗面器の上に手足をつき、まるでトビハゼのように匍匐前進した。
「ずっとマングローブの研究をしてきて、ここで自分が炭素吸収源になってしまっては意味がない」と笑い合ったというが、このわかりにくい冗談についても、方教授が説明してくれた。マングローブ林では、枯れて落ちた枝なども泥の中に沈んで二酸化炭素を貯留する。人間はもとより水と炭素が主体となってできており、「炭素吸収源になる」とは死んでしまうという意味だった。
泥沼の湿地にはまだ利点がある。今年(2024年)の台風3号(ケーミー)による記録的な豪雨は高雄に大規模な洪水をもたらした。これは、英語で「ハングリー・ウォーター」と呼ばれる、泥など堆積物の少ない水が引き起こしたもので、大雨でこのような水が上流からどっと流れてくると災害を引き起こすのだ。
したがって、水を蓄えて洪水を防ぐ湿地の面積をさらに増やし、その機能を強化すべきだと、方教授は訴える。2001年の台風16号(ナーリー)では台北MRTが浸水し、板南線は巨大な遊水池と化してしまった。こうした水害をなくそうと、豪雨の際に基隆河の水をトンネルに分岐させて海に流す「員山子洪道」が建設された。ところが員山子洪道の入り口が作られた場所は、もともと都市開発のために埋め立てられた湿地で、台風の際には浸水しやすいエリアだったという。
2050年の台湾を想像すると、海面上昇と地盤沈下で、台風が来た際には、1階に置いた船で避難する高床式住宅が必要になるかもしれない。
2024年のSWS年次大会のテーマは「湿地と地球規模の変化:緩和と適応」だ。湿地を正しく利用して保全し、湿地と共生する。そうしてこそ「高床式住宅」の予言実現を回避できるだろう。

映画監督の馮振隆氏は、ミカドキジを撮影するために山中で23日間粘り強く待ったことがある。(ドキュメンタリー『野性湿地』から。馮振隆氏撮影)

新北市貢寮の棚田は人工の湿地だ。(ドキュメンタリー『野性湿地』から。馮振隆氏撮影)

方偉達教授の研究チームは、旧暦7月15日に大潮時のボラの回遊状況を理解するため、新北市龍洞湾で水中調査を行った。(方承舜氏撮影)

台江国家公園の湿地に広がるマングローブ林。二酸化炭素を吸収し、洪水や干ばつを防ぐ機能がある。

台湾で保護・回復に成功したタイワンマスは、氷河期の遺存種だ。

馬祖の大坵島のタイワンジカ。保全の成果の表れと言えよう。(林格立撮影)

淡水河のマングローブ林で見られるトビハゼ。(ドキュメンタリー『野性湿地』から。馮振隆氏撮影)

七股潟湖など、台湾の沿岸湿地は、湿地研究者にとって生態と風景の豊かさを楽しめる場所だ。(方偉達教授撮影)

国の重要な保護種であるタイワンミズニラは、陽明山の夢幻湖だけで見つかっている湿地植物だ。(外交部資料)

福山植物園のカニクイマングース。人工の湿地が豊かな生態系を保つことの証明だ。

七股塩田湿地に飛来したクロツラヘラサギ。台湾は世界最大のクロツラヘラサギの越冬地となっている。