
小鎮文創(Townway Cultural and Creative)を創設した何培鈞は、南投県の竹山鎮に民宿「天空的院子」を開いて以来、ワークエクスチェンジ(労働の対価として宿と食事の提供を受ける)や夜間の廟でのランニング、光点フォーラムなどを催して、若者を竹山での起業へと導いている。政府の補助などは受けずに小さな町の姿を変え、竹山の発展を促し、独特の地方創生を試み、さらには「小鎮(小さな町)創生学」を海外へも輸出している。
緑濃い竹林を、さらさらと音を立てて風が吹き抜ける。まるでアン・リー監督の映画「グリーン・デスティニー」のシーンのようだ。ここは南投県竹山鎮の大鞍林道、台湾最大の竹林エリアである。「小鎮文創」を創設した何培鈞は、しばしばここで散歩をしながら町の将来を考える。
「竹山」という地名の通り、ここには50~60平方キロの竹林が広がっている。1970~80年代、ここは竹材の集散地で、竹製品加工の中心地として少なからぬ外貨を稼いでいた。しかしその後、多くの工場は中国大陸へ移転し、竹製品はプラスチックや金属製品に市場を奪われ、若者は都会へ出て行って人口の高齢化が進んだ。竹山の衰退は、従来型産業に支えられてきた台湾の多くの町村の物語そのものである。

「小鎮文創(Townway Cultural and Creative)」を創設した何培鈞。
社会のために何かできないか?
南投県水里出身の何培鈞は、長栄大学の学生だった時、標高800メートルの竹山大鞍里で、百年余り前から人の住んでいない三合院(台湾伝統のレンガ造りの民家)を見つけた。この文化財を守りたいという思いから、兵役を終えるとあちこちに声をかけ、ついにある銀行のマネージャーに理解してもらい、1000万の融資を受けてその三合院で民宿「天空的院子」を開くことができた。
「1979年生まれの私は、よい時代に育ち、十分な教育も受けさせてもらいました。祖父母や両親からは、世の中が何をしてくれるかではなく、世の中を良くするために自分に何ができるかを考えるよう言われてきました」と、何培鈞はこの古い民家の再利用を考えた理由を語る。
竹山を訪れる観光客は増えたが、人口は8万人から5万人まで減少した。特に1999年の台湾大地震以降に減少し始め、新しいインターチェンジができたことで観光客が竹山を素通りするようになったことも大きい。町の中心にある台西客運のバスターミナルも乗客の減少で取り壊しの運命にあった。そこで古い民家とバスターミナルの再利用が何培鈞の生涯の使命となった。

台西氷菓室の紅茶アイスは、カップもストローも竹で作られている。
異郷を故郷へ変える
竹山に泊まりに来た旅行者に、この町のことをもっと知ってもらおうと、何培鈞は地元の老舗企業と手を組み、民宿を「IKEA化」しようとしている。例えば、民宿で使った真綿の布団が心地良いと言う人がいれば、街で70年の歴史を持つ振益綿被店のハンドメイドの布団を紹介する。また民宿ではポン菓子を提供しており、それを作っている啓明米麩店を紹介している。
こうしたことから2010年、彼は「小鎮文創(小鎮は小さな町という意味)」という会社を設立して「観光客を社会学者に変える」プランを打ち出した。月7000元の家賃で2店舗が使える4階建ての建物を借り、創意ある若者にここで「ワークエクスチェンジ」をしてもらうというものだ。彼はまた「光点小聚」というプラットフォームを立ち上げ、定期的に講座やフォーラムを開いて、竹山の商店や農家のマーケティングと町の発展の道を探っている。
こうした活動のきっかけとなったのは、彼が自薦して雲林科技大学に講演に行ったことだ。そこでデジタルメディアデザイン学科の張文山先生が、企業と地場産業を結び付けるという彼の理念に共感してくれ、学生たちを連れて彼の民宿でワークエクスチェンジをしてくれたのである。この時の学生のアイディアから、それまで大きなビニール袋に入れて売られていたポン菓子が「一口米香」という名のクリエイティブ商品へと生まれ変わった。この商品を地元の生命保険会社や信用金庫などにギフト用として販売し、地元の商店に大きく貢献することができた。
ワークエクスチェンジでは、若者たちが竹山の物語のショートフィルムや旅行地図などを制作し、商店に竹で編んだQRコードを掛けるなどし、テレビが「小鎮文創」を取材に来た時も、町の老舗を宣伝した。

「小鎮文創」ではワークエクスチェンジを通して、竹山の特色ある商店に竹で編んだQRコードを取り付け、竹山観光の人気アイテムとなっている。
小鎮創生学:文化、旅、農業
竹山の夜は静かで、どの家もテレビの連続ドラマを見ている。通りを自転車で走りながら家々の窓をのぞいていくと、ドラマの内容がつながるほどだ。そこで何培鈞は、家業を継ぐために戻ってきた林家宏をさそって夜のジョギングを始めた。二人は走りながら、いろいろ話し合い、SNSで呼びかけて廟の門前に集合し、みんなで走ることにした。一度は数百人が一緒に走り、熱心な住民は物資を提供してくれたり、お茶を出してくれたりした。地元以外からの参加者もあったが、警察から治安維持が大変すぎると言われて停止せざるを得なかった。
何培鈞と林家宏は、いかにして竹山の竹芸産業を復興させるかも話し合っていた。
林家宏は元泰竹芸社の三代目で、その家業は竹産業の栄枯盛衰の縮図でもある。初代は耳かきを製造し、二代目は編み棒を作って商売は繁盛していたが、2005年に編み機が出現して編み棒は売れなくなった。2010年に家業を継いだ林家宏は業態転換を試み、2015年に環境にやさしい天然素材をアピールして竹製の歯ブラシを打ち出した。さらにDIYコースを開くなどして、現在は年間5~6万本を売り上げている。工場のほかに店舗も開き、そこでは竹のストローや元気凹豆杯などがよく売れている。竹細工の日用品の開発を続けていくことで斜陽産業を盛り立てようとしている。
一方、何培鈞は2013年に竹生活文化協会を立ち上げ、竹芸講師に依頼して竹工芸家を育成し、竹籠や花器などを作成して企業に売り込んでいる。
2015年、彼は使われなくなった台西客運の社宅を借り、5500本の竹ひごを編んで天井板と柱を覆った「竹青庭人文空間」とした。2018年には鶏肉や豚肉とタケノコの料理やスイートポテトなど、地元食材を用いた料理を出し始めて、小鎮文創の新しい活動の場となった。
今年(2019)、路線バスが再び台西客運ステーションまで来るようになり、一階の待合室には新たにオープンした台西氷菓店が入っている。そこで売られるのは竹製の器に盛られ、持ち帰り用にも竹の器が使われている。
現在、小鎮文創では「小鎮農春」と名付けたファーマーズマーケットを開いて竹製品や小規模農家の作物の販売に力を入れている。高校卒業とともに竹山を離れた林承陽は、3年前にがんで亡くなった父親を看取った後、機械関係の仕事を辞めて竹山へ戻り、84歳の母親の近くで暮らすことにした。彼はまず農業委員会農民学院で農業を学び、それから実家の農地を「艾合美農場」として耕し始めた。2018年からは安定的に収穫できるようになり、中でもヤングコーンは自然農法で育てており、甘みがあって歯ごたえがよく、毎月安定的に収穫できる。
「小鎮農春」マーケットでは地元の農産物をいろいろ扱っている。例えば十年以上前に有機認証を取得した茶農家の陳儀龍が夜明け前に収穫したばかりの竹山春筍と、甘くておいしいサツマイモが並んでいる。濁水渓社有機栽培範の蘇鏈琪はこう話す。「小鎮文創は私たちの商品デザインに協力してくれます。特にeコマースのルートは大きな助けになります。以前はあちこちで露店を出しても売れ残るのが心配でしたが、今は消費者から注文が入るので、朝採れのものを新鮮な状態で産地直送できます」
何培鈞はさらに起業を目指す若者を集めようとしている。ある日、彼が隣りの雲林県林内郷を通った時、道端でマントウ(饅頭)を売っている渠珈朵を見かけ、その場で竹山へ移住してこないかと声をかけた。渠珈朵は本当に竹山に移ってきて店を開き、光点小聚に参加し始め、小鎮文創の理念にしたがってサツマイモなど竹山の農産物を使ったマントウを作るようになった。このほかにも、手作り石鹸を売る陳思帆、竹材店二代目の邱炳昌、画家の顧孟菁らも、小鎮文創を基地として青年起業家グループを作っている。

青年起業家の陳思帆(左)と竹工芸家の邱炳昌は、タケノコの形の手作り石鹸や竹ひごで作った文化クリエイティブ商品などで竹山の特色ある工芸品を打ち出している。
遊学を受け入れて台湾の経験を輸出
Uターンして家業を継いだ林家宏にしろ、退職後に農業を始めた林承陽にしろ、移住してきた渠珈朵にしろ、小鎮文創に導かれて小さな町にビジネスチャンスをもたらし、雇用も増やしている。またマラソンなどのイベントに多くの町民が参加し、小さな町は活力にあふれている。これこそ「地方創生」の意義と価値と言えるのではないだろうか。小さな町の人口が高齢化し減少していくのに対応し、住民と地元企業が自発的に地域経済を盛り上げ、雇用や起業を促進し、退職者のUターンを呼び込むという「創意+革新+起業=創生」の目標を達成しているのである。
行政院は2019年を「創生元年」としたが、何培鈞は「創生」をこう定義する。「地方に持続可能なエコシステムを確立し、地方に核心として運営できる能力を持たせる」ことだと。
何かのイベントを一回やって何も残らないというのでは「創生」にはならない。これまで数十年にわたり中央も地方も「町づくり」を推進し、古い町並みの振興や商店街の活性化などを進めてきたが、いずれもヒトとカネが重要な指標となっている。「しかし今は、どれだけの補助金を出して何回イベントをやったか、政治家が何回テープカットをしたか、を問うのではなく、地域の文化をどれだけ守れ、都会へ出ていた若者がどれだけ故郷に戻り、文化クリエイティブ産業が市場を得ているかどうかを問うべきです」
何培鈞の「創生学」は台湾で光を放っているだけではない。毎年100回を越える講演をしている彼は、マレーシアやシンガポール、香港などへ招かれることも多く、台湾の小さな町がこれほど深く考えて発展していることが人々を驚かせている。またトップダウンで「郷村振興」が推進されている中国大陸の各地へも講演に招かれるだけでなく、大陸の多くの企業や地方の指導者が台湾を視察に訪れ、中には竹山で「食、宿、学」の一日体験をしていく人もいる。

世界中の人を竹山人に
ここ数年、竹山鎮の人口は「急激な減少」から「穏やかな減少」へと改善されたが、他の地域から竹山への移住者を呼び込むために、何培鈞は「デジタル創生」を打ち出した。竹山を訪れて、地域に何らかの貢献をした人がQRコードを読み取ると、竹山の「デジタル住民」になれるというものだ。さらに現金をモバイル決済の「光幣」に交換すれば、ブロックチェーン技術を用いて消費の履歴が記録され、地元の農家や竹細工、文化クリエイティブ産業などをサポートする意義を持つ。これらのデータは将来的には地方行政の参考にもなる。
映画を見て泣いてしまうほど情にもろいという何培鈞だが、古民家や古いバスターミナル、そして竹山全体の活性化まで、14年にわたって勇敢に、かつ着実に夢を実現してきた。「どんな困難もすべて養分になり、一つ一つのチャレンジや経験はすべて逆転のチャンスになります」と言う。それは竹山の竹に譬えることができるだろう。竹は最初の3年は3センチしか伸びないが、4年目以降は毎年30センチも伸びるのである。

雲林県から南投県に移住してきた渠珈朵は、竹山特産のサツマイモを使って紫色のマントウ(饅頭)を作っている。

民宿「天空的院子」に宿泊した多くの観光客が、そこで使われている布団を気に入り、振益棉被店に出向いて手作りの布団を注文する。

帰省して家業を継いだ林家宏は、竹製の歯ブラシやストロー、元気凹豆杯などの生活用品を開発し、竹産業の復興に力を注いでいる。

五代目が経営する老舗の鍛冶屋「来発打鉄店」では父と子が伝統の鍛冶技術を守り、注文を受けて鉄と鋼を使った包丁や農具を作っている。

林承陽が自然農法を用いて育てたヤングコーンは甘くて歯ごたえがいい。彼は農業で収入を得つつ高齢の母親に寄り添って生活するという願いをかなえた。

夜明けとともに収穫する竹山春筍は「孝筍」とも呼ばれる。

イラストレーターの阿猛は、竹山は人々が助け合って暮らす町だと感じている。竹山の通りのいたるところで彼女の作品を見ることができる。

竹山は台湾の他の衰退する町村と同様、起業や雇用拡大、退職者の移住などによる再生を願っている。