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台湾をめぐる

農業を通した人のつながり ——

農業を通した人のつながり ——

宮崎県の「台湾塾」

文・鄧慧純  写真・莊坤儒 翻訳・山口 雪菜

1月 2020

いつも妻の日高亜矢さんが作った茶葉の帽子をかぶって登場する森本健太郎さんは、茶農家の三代目だ。(荘坤儒撮影)

一風変わった交流プロジェクトである。九州の宮崎県が支援し、宮崎県産業振興機構顧問の高峰由美さんが考案した「台湾塾」だ。台湾をよく知らない宮崎県と、宮崎をよく知らない台湾が、貿易や数字を論ずるのではなく、まずは友人になることから始めるというものだ。

宮崎県の人口は約1000万人、気候は温暖で、主な産業は農業である。日本では数少ないマンゴーやライチの産地でもある。自然景観に恵まれたこの土地は、環境も物産も台湾とよく似ていて、多くの人は台東に似ていると言う。

田中伸佳さんは従来の農家の枠を抜け出し、消費者と交流して環境にやさしい活動を実践したいと考えている。

まずは友人になる

2016年10月、宮崎「台湾塾」塾長の高峰由美さんはフェイスブックに「親愛なる台湾の友人たちへ」という文章をアップした。「台湾塾の目的は台湾への輸出を増やすことではなく、台湾を深く理解し、台湾と日本が互いに信頼できるパートナー関係を築いた後、何ができるかを考えるというものです」と。

高峰由美さんの専門は国際マーケティングで、毎年物産展の機に台湾を訪れていた。台湾が大好きな彼女はバックパッカーとして台湾一周旅行もした。旅の途中で先住民の農家の若者と話す機会があり、日本から安く入ってくる商品で台湾の産業が脅かされているという話を聞いた。「これが台湾塾を始めようと思った最大のきっかけです」と言う。

台湾と日本の交流は盛んだが、物産展のような一方通行の取引関係ではなく、双方にメリットのある形はないかと彼女は考えた。

当初、宮崎県は高峰さんが何をしようとしているのか理解していなかったが、それでも全力で支援することを決めた。彼女は2014年に、100人の友人を作ることを目標に集中的に台湾を訪れ、同年末に台湾塾を立ち上げた。

それからの一年で7回の交流を行ない、日本の塾生が台湾の農家を訪問し、台湾人も宮崎へ招かれて双方の農業や制度を理解した。

宮崎県産業振興機構でプロジェクトの企画と連絡に協力している藤藪志保さんはこう話す。2015年4月に宮崎から台湾を訪れた訪問団は、宜蘭と桃園を訪ねた後、台北で発表会を行ない、塾生の一人ひとりが自分の物語を紹介して台湾との交流を深めた。その時、宮崎の仲間たちは、最初の挨拶は中国語でやろうと決め、つたない中国語で「皆さんこんにちは、私は〇〇と申します」と話し、大きな喝采を浴びた。宮崎の人々は台湾人が親しみやすくオープンなことに感動した。

虫に喰われた茶葉を使った「森のかほり茶」は、台湾の東方美人茶からアイディアを得た商品である。

交流の中で違いを見出す

台湾塾における交流は、互いの知らない部分も発見させることとなった。

日向市のミカン農家の田中伸佳さんは、台湾での発表会をあまり流暢とは言えない英語で行なうことにし、懸命に練習して会場を盛り上げた。しかし、彼が語ったのは農家としての苦しみだったのである。

田中さんの家は広大なミカン畑を持ち、大自然の中で働いているが、自分がまるで生産機械のように感じ、楽しくないと思えていた。彼はもっと消費者と交流し、環境にやさしい農業を行ないたいと思っていたが、現実的にそれが難しいと感じていたのである。

日本の農業協同組合(JA)には分業制度があり、農家は生産だけに専念し、作物の販売はJAが担っている。厳格なルールがあり、農家が何かを変えたいと考えてもなかなか難しい。

そんな中、台湾塾への参加は一つの契機になった。田中さんは英語を勉強し、さまざまな本を読み、多くの友人を得た。台湾へ来て感じたのは、台湾の農家はより自由で、自分の土地で夢や理想を実現できるということだ。特に宜蘭の若い農家‧頼青松さんの「私はこの農村風景を子孫に残すために農業をしています」という言葉に感動した。自身も環境にやさしい農業をしたいと考えていたのである。

「社会や未来のために何が残せ、何ができるのか考える。これが台湾人から学んだことです」と田中さんは語る。

今年、田中さんは家の事業を正式に受け継いだ。ここから少しずつ、コミュニケーションを通して同じ理念を持つ仲間を作り、穏やかかつ力強く世界を変えていきたいと考えている。

いつも妻の日高亜矢さんが作った茶葉の帽子をかぶって登場する森本健太郎さんは、茶農家の三代目だ。東京で働いていたがUターンし、有機栽培への転換に加わることとなった。

彼の茶畑では農薬や化学肥料を使わない自然農法を行なっており、草花や虫や鳥と共生している。夏にはホタルの姿も見られる。

台湾では桃園の茶農家‧林和春さんとの交流がきっかけで世界的に有名な台湾の「東方美人」茶と出会った。この茶はウンカという虫が葉を喰うことで化学変化を起こし、甘い蜜のような香りを持つようになる。有機栽培の茶葉はどうしても虫に喰われるためランクを下げられてしまうことに腹を立てていた彼は、東方美人の話を聞いて、虫食いの茶葉を「森のかほり茶」として売り出すことにした。妻がデザインした茶箱のコンセプトは、良い茶を虫と共有するというもので、多くの消費者を惹きつけている。

高峰由美さんが始めた「台湾塾」では、まず互いに友人になることからスタートして台湾と日本の友好を深めてきた。

互いの「関係人口」になる

こうした交流が、双方にどれだけのメリットをもたらすのか、疑問を持つ人もいるだろう。

日本では、6次産業(第一次産業が食品加工や流通販売にも業務展開する経営形態)を推進して自治体が産業に新たな道を探り、農産物の輸出に力を注いでいる。

だが、ビジネスより、友好関係の方がより多くの可能性をもたらすのではないだろうか。

林事務所のCEOで台湾塾の活動に協力したこともある林承毅さんによると、高峰由美さんは双方向の交流を目指しているが、背後にはより深い意義があると語る。「台湾にとって宮崎は日本を意味し、宮崎にとって台湾は外国です。宮崎は国内の東京ではなく、世界への出ていこうとしているのです」と言う。一地方が海外へ出ていく時、中央の政策に頼らないことで、より多くの可能性が広がる。台湾塾は宮崎と台湾を互いの「関係人口」にするものなのである。

草花や虫や鳥と共生し、夏はホタルが舞う茶畑。森本健太郎さんが誇りとする農園である。

継続する物語

台湾塾は2015年10月に終了したが、人と人とのつながりは終わっていない。

高峰由美さんの計算によると、彼女が交流した人や台湾塾で台湾に来た人、そして台湾から訪ねてきた人を合わせると5627人になるという。これは冷たい数字ではなく、台湾塾を通してできた「関係人口」であり、将来的に無限に広がっていく人のつながりである。

穀東倶楽部を創設した頼青松さんは、宜蘭県の環境にやさしい農業の代表と言える存在だ。日本に留学し、帰国して農業を始めた。食と住の安全を追求するその理念は都会の人々の共感を呼び、海南島や香港、マレーシアなどからの訪問も受け、最後は日本人もやってきた。

「日本の農業技術や制度は台湾より進んでいると考えられていて、私も日本に学びに行きましたが、その日本人が私のところへ訪ねてくるということが大きな励みになります。日本人が台湾に学びに来るなら、私たちはアジアへ出ていけるのではないでしょうか」と言う。

そうして2015年、彼は「東アジアスローアイランド生活圏フォーラム」を開催し、宮崎、京都、香港、海南島、マレーシアなどの専門家を招き、農業での試みをシェアした。「首都同士の都市外交は私たちにとっては遠い存在ですが、地方と地方、農家と農家のつながりは築けます」と言う。こうしたつながりを通して、農業の可能性を考えていこうとしている。

政府も動き出した。2019年4月、台湾の花蓮、高雄、台中、台東、台南の農業改良場と農業試験所が「農業付加価値サンプルセンター」を立ち上げた。宮崎県のフード‧オープンラボに倣ったもので、政府が加工設備や技術を提供し、衛生や安全面の規範を指導して、農家が農産物加工品を試作できる場である。

財団法人農業科技研究院産業発展センターの林恒生副主任は、宮崎の方法を参考に、台湾にふさわしい形にしたと言う。日本と台湾では加工サービスの目的が異なる。「日本の目標は地方創生で、人口を地方にとどめることですが、台湾の出発点は製品に販売ルートを開き、そこから産業集落を形成して地域の特色にしていくことです」

従来、食品加工は経済部、食の安全は衛生福利部の管轄だったが、今は省庁を越えた法改正により、乾燥や粉砕、ローストなどの初級加工が農家の小規模工場でも行なえるようになった。こうすることで、過剰に採れた作物の問題を解決でき、多様な商品が作られることで、地方発展の新たな契機にもなる。

取材当日、南投県の農家の湯英華さんが胚芽米の糠をローストしに来ていた。加工室に入る前に、まず食品安全のための基本ルールを学ぶ。全身に作業着を着て、頭に衛生用ヘアネットをかぶり、マスクをつけ、手を30秒間洗う。農業改良場の研究助手‧蘇致柔さんが一つひとつ手順を説明する。湯英華さんは、家で採れた米を使って煎餅を作り、農村旅行に来た人に手土産として販売できればと考えている。蘇致柔さんは、このニーズを聞き取って開発に協力し、農家の試作を重ねて改善していく。

その日のローストの過程でも機械の操作を学ぶほか、時間や温度などのデータも記録し、後の参考にする。農家の人々は、こうした実践を通して食品加工について学べ、食の安全性も確保できるようになる。

偶然のおしゃべりがきっかけとなり、多くの人が集まって台湾塾の旅が始まった。台湾と宮崎という海を隔てた二つの土地に交流が生まれ、互いが関係人口となり、台湾と日本の友好関係が深まっていく。

日本一の和牛、宮崎牛。

農業県である宮崎県では、県が主体となって海外との交流を推進している。台湾塾もその一環だ。

台湾も宮崎県の方法に倣い、農家による食品加工に政府が加工設備や技術を提供している。農家がサンプルを試作し、それからマーケットを評価する。

頼青松さんは東アジア各島嶼の農家と専門家をつなぎ、ともに地方農業の可能性について考えている。

2019年、藤藪志保さん(奥に座っている女性)は台湾で料理教室を開いた。これも2015年の台湾塾がきっかけで広がった交流である。