西暦元年、最初のミレニアムの時代で最も注目すべき女性は誰だろうか。中国史上の四大美人に数えられる趙飛燕と王昭君が、まず挙げられるだろう。趙飛燕は紀元前1年に亡くなり、王昭君は紀元前33年に匈奴に嫁いだとされるため、西暦元年の頃にはすでに年老いていたと思われる。
二千年前の中国の女性は、どのようなものを美しいと感じていたのだろうか。また家庭や社会において、女性はどのような権利と義務を持ち、どのようなライフプランを立てていたのだろう。この時代の女性は、後の世の女性たちにどのような影響をおよぼしたのだろうか。
西暦元年前後の女性像を漢代全体の歴史の中から読み取るのは容易なことではない。そこで、まず湖南省長沙市近郊の馬王堆から出土した漢代長沙国宰相の墳墓から発見された利蒼夫人の遺体を見てみよう。馬王堆の文物は、現在台湾の故宮博物院に展示されている。
利蒼夫人の遺体が人々を驚かせたのは、二千年余りの時を経ていながら、出土した時にはまるで生きているかのように完全な姿を残していた点だろう。その皮膚は潤いがあって張りがあり、顔もきれいに整ったたいへんな美女だったのである。また利蒼夫人の足は纏足(てんそく)ではなかったことから、多くの人が中国古代の女性が皆足を小さくしていたわけではなかったことを知ったのである。
では利蒼夫人の足は、どれくらいの大きさだったのだろう。彼女の柩には3足の靴が納められていた。靴の長さは26センチを超え、並べてみるとまるで小さな船のように見える。今日のサイズにすると、足の大きさは少なくとも23センチはある。
では中国の女性は、いつごろから纏足によって足を小さくするようになったのだろう。これについては諸説があるが、纏足は「弱い女性は美しい」という価値観の産物であることは間違いなさそうだ。漢代の女性の足が自然の大きさのままだったということは、この時代、必ずしも弱く従順であることが女性の美とされたわけではなかったと言えるのではないだろうか。
中央研究院歴史語言研究所の副研究員である劉増貴さんは、漢代において女性に何が期待されていたかを理解するために、570名余りの漢代の女性の名前を研究したことがある。その結果、3分の2の名前が男でも女でも通用するものであることがわかった。漢代の女性の名前には実に力強いものも少なくない。王莽の娘の名は「倢」、後漢の桓帝の娘の名は「堅」といい、桓帝の時の皇后の名は、より直接的な「猛女」というものだったのである。
「この現象は、男性と女性の道徳行為に対する社会の要求が、あまり違わなかったことを示しています」と劉増貴さんは言う。当時、いわゆる女性的な名前もしだいに増えており、女性を低く見るという観念も確かにあったが、それでも女性が強くたくましくあることも肯定されていたのである。「女性は弱くておとなしい方が良いとする考えは、後の時代のように絶対的なものではなかったようです」と劉増貴さんは言う。
「陰と陽が相補うという考えがあるため、中国では絶対的な男尊女卑という関係は存在しません」と話すのは、中央研究院歴史語言研究所で秦漢の歴史を研究している邢義田研究員だ。中国の上層社会では殷や周の時代に男性を中心とする社会体制が形成されていったが、下層社会には母系社会の痕跡がまだ色濃く残っていた。
漢王朝を建てた高祖劉邦と皇后の呂后は二人とも下層の出身だったため、漢代初期の王室にはまだ母系社会の風習が多く残っており、それが漢代の政治に大きな困難をもたらすこともあった。外戚(皇帝の母方の親戚)が積極的に権力を拡大し、特に皇太后の権限は非常に大きいものだった。中国では皇太后が政治に干渉するという問題は清の時代にも発生しているが、漢代にはそれがより顕著だった。漢の建国の初め、天下統一で劉邦を助けて功労のあった呂后は、その後、多くの功臣を処刑したため、高祖の跡を継いで即位した恵帝は恐れおののき、実質的には呂后が政務を執るようになったのである。
歴史はこの強い性格の呂后をマイナス評価しているが、唐代の武則天に比べると、一般に呂后のイメージはそれほど強いものではない。漢代の女性のと言えば、大部分の人は前漢末期の趙飛燕と王昭君を思い浮かべることだろう。趙飛燕は皇帝を魅惑してとりこにした美女であり、王昭君は帝国のために耐え忍んで匈奴に嫁ぎ犠牲になった美女である。この二人のイメージからすると、漢代の女性は美しさで権力を手に入れるか、そうでなければ「物」のように扱われて国の外交政策の犠牲になるかのどちらかである。
今日伝えられている趙飛燕と王昭君の物語には、後の人々の女性観が数多く盛り込まれている。しかし、はつらつとしていた漢の時代、武帝は儒学を官学としたため、儒者の重んじる倫理が漢代には拡大解釈されていた。そして西暦元年前後に、礼法によって女性の生活の基準を論じる書が二つ登場した。一つは前漢の劉向が著した『列女伝』、もう一つは後漢初期の班昭が著した『女誡』だ。これ以来、二千年に渡って書かれた女性の生活に関する書籍は『列女伝』か『女誡』の体裁を模倣したものばかりである。
劉向が『列女伝』を書いた大きな目的は趙飛燕・趙合徳姉妹の男性に媚びて政治を乱す行為を「矯正する」ことにあり、そのため同書は教化の目的を色濃く感じさせる。第一巻の「母儀伝」では、虞氏以来の歴代の良妻賢母が高く評価されており、賢明伝、仁智伝、節義伝、弁通伝など百篇余りの文章を通して女性としての理想的な役割を述べている。
「注意しなければならないのは、これは列女伝であって『烈女』ではないということです」と話す台湾大学中文学科の柯慶明教授は、『列女伝』は女性のさまざまな生き方を肯定していると言う。その中には知性や才知、あるいは弁が立つので知られる女性の伝記も少なくなく、劉向は女性の貞節、従順、母性という特質だけを評価していたのではないことがわかる。
続いて書かれた『女誡』は、早くに未亡人となって貞節を守った班昭が自分の娘のために残した「家訓」とも言える書だ。全体の七章で、班昭は女性は「卑弱下人」であるべきだとしている。夫婦の間では妻は夫に仕え、夫は妻を御すことができなければならなず、嫁は姑舅に従わなければならない。その後千年以上に渡って『女誡』は、弱さが女性の美しさであり、妻は夫に従うものといった考えを具体的に規範したものと見られてきた。しかし班昭が述べる「卑弱下人」の解釈をじっくり読むと、それは謙って人を敬い、先を人に譲り、善を為しても名を求めず、悪を為したら素直に認めるというものだ。これは確かに人の個性を制限するものではあるが、謙虚さを重んじる人の道を説いたものに過ぎないのである。
実際に最も早く三綱五常(三綱は君臣、父子、夫婦の道、五常は仁・義・礼・知・信)を唱えたのは、後漢の時代に儒者の議論を記録した『白虎通』である。だが、中央研究院の邢義田さんによると、後の人々が読む当時の言論の多くは、上層の少数の人物の論述であり、一つの新しい思想が生まれてからそれが社会全体に普及するまでには長い時間がかかるという。したがって、漢代の女性は、これらの思想の影響を深く受けていたとは言えないのである。
『女誡』を著して後の世の女性たちに「害」をもたらしたと言われる班昭自身は、早くに未亡人となったため、夫婦の感情という面では満ち足りていなかったかも知れないが、彼女には「事業」という大きな活躍の場があった。彼女は父と兄(班彪と班固)を継いで未完成だった『漢書』の「八表」と「天文志」を完成させ、また皇帝に招かれて皇后や貴人の教師を務めていたため、人々から「曹大家」と呼ばれていたのである。その「曹大家授書」はその後、重要な教育の手本とされたほどだ。
漢代の墓から出土した、西暦5年の漢平帝の時に書かれた資料には、次のような記載がある。未亡人である母親が田畑を子に分ける際、地方官吏を証人として招き、すでに二人の娘に分け与えた水田と桑畑を取り戻し、それを土地を持たない幼子に与え、さらに土地を他人に売ってはならないという条件を付ける。このように母親が家の財産を管理していた例は漢代には数多く見られるのである。
漢代の道徳では孝行が重視されたが、父と母との間に差別はなく、ましてや「夫に死なれたら子に従う」という考えもなかった。子女がすでに成人していても、父親が亡くなると母親が家長となるのが普通だったのである。楽府詩の「孔雀東南に飛ぶ」には、母親が相思相愛の息子夫婦を無理矢理引き裂く話が歌われているが、これも母親の権威を示す例の一つと言えるだろう。
また漢代には貞節を称えて官位を与えることはあったが、『中国婦女史』には「社会においては貞節はそれほど厳しく求められてはいなかった。再婚する女性を止める人はなく、そういう女性を娶ろうとする人もいた」とある。
漢代の詩「山に上りて蘼蕉を採る」には、採集を終えて山を下りる時に偶然以前の夫に出会った女性が「新しいお嫁さんはいかがですか」と尋ねる話が歌われている。
余所の奥さんの方が良く見えるというのは、すべての男性に共通の問題なのだろうか。前の夫は「よしてくれ、織物ではおまえに及ばないよ」と言って嘆くのである。
この詩は「離縁」されたこの女性に同情して歌われたものとされているが、よく読むと男性の方が「新しい妻より前の妻の方が良かった」と後悔しているように感じられる。しかし一方の女性は、実にあっさりしていて、別れても友人のように声をかけているのである。このように屈託がなくさっぱりした女性は、漢代以降、離婚率の高くなった今日まで現われなかったのではないだろうか。
漢代の女性の強さは、より激しい行為からも見て取れる。『後漢書』の「申屠蟠伝」には次のような話が出てくる。申屠蟠が15歳の時、候玉という女性が父の仇を殺したため官吏は彼女を死罪に処するとしたが、申屠蟠は彼女の行為は義理を重んじる行為だと諫言し、彼女は死罪を免れた。「漢の時代には、仇討ちは男性だけの行為ではありませんでした。その対象は、孝を尽くすということで父の仇だけに限られていましたが、これは漢代の女性の開放性と強さを物語っています」と語るのは淡江大学中文学科の傅錫壬教授だ。
趙飛燕や王昭君も、明や清以降の人々が好む林黛玉のような弱々しい女性ではなかった。趙飛燕は孤独な後宮の犠牲者ではなく、生命力にあふれる舞踏家だった。王昭君は音楽家でもあったし、また緑の柳が美しい国内から、黄沙の舞う、知る人もいない土地へ嫁いでいったからには健康で体力もあったと思われる。
しかし趙飛燕と王昭君の物語は、後にあまりに多くの枝葉が付け加えられたため、漢代女性にとっての代表的な理想像として扱うことは難しい。台湾大学中文学科の柯慶明教授は、後漢の楽府詩「陌上桑」に出てくる羅敷という女性の中に漢代女性の理想が読み取れると指摘する。
この詩の中には、羅敷は「蚕を飼うのが上手で、城南の隅で桑を摘む」とあり、彼女が有能かつ健康で、外へ出て働くのを好んでいることがわかる。また「髪を粋な髷(まげ)に結い、耳には大きな真珠の飾りをつけている」とあることから、生まれつき美しい上に、おしゃれにも気を使っていることが感じられる。そして南方から来た太守が彼女を見て、馬車に乗るように誘うが、彼女はそれを「愚かなこと」と言い、笑って堂々と断ってみせるのである。「何という愚かなことを。あなた様には奥方様がおいでになりますし、わたくしにもれっきとした夫がございます」と、頭の回転も速く、弁も立つ女性なのである。
歴史を振り返り、今日と比較してみよう。二千年前の漢代には「陌上桑」の羅敷のように自信にあふれ、健康的ではつらつとした女性像があった。21世紀台湾の新しい女性たちは、それを超えることができるだろうか。