客家の移転地図
客家は分散しつつつながる民族とされる。客家研究において、世代に渡る移転は民族の重要な軌跡となる。客家人は鳥のように食料を求める民族というが、生存基盤が揺るがされると移転を始める。新しい環境に果敢にチャレンジする精神が、今日の広範な人口分布を形成した。「世界の客家人口は6000万人余りとされ、東南アジアからパプアニューギニアまで客家の足跡が確認されると、世界の客家研究に力を尽くす張維安は話す。各地を回り、フィールドワークを行い、民族文化の主体を研究している。
「居住地と生活習慣が客家文化に反映します」と、徐正光は言う。先に到着した者は肥沃で平坦な地域を選べる。後から来た者は、痩せた傾斜地に追いやられる。生きるために客家民族は厳しい環境の中で、強靭な性格を養った。
「客家の生活習慣を見ると、祖先の苦労が見て取れます」と言うが、客家人は漬物をよく作る。作物の採れる時期に漬物など保存食を作り、食べられる期間を延ばすためである。天地を敬い、生きるための場所を大切にする。また客家の女性には纏足の習慣はなく、これも山野を歩き、茶葉を摘み、家畜を飼うには、動き回れる足が必要だったからである。
流転の生活は楽ではないが、客家人は子女の教育を重視し、教育の力で貧困を抜け出そうと考えた。「一流の人は忠臣で親孝行であり、農耕と読書で家を守っていく」というのが、客家人が子孫に教える訓戒であった。
また見直すべき観念として、「一定以上の経済力がなければ、家族を連れて遠路を移転することはできません」と徐正光は別の論点を指摘する。交通大学人文社会学科の研究員徐雨村は、マレーシアのサラワク州での客家研究について、1900年代初期に現地政府が土地を農民に分配したため、農業を行う客家人が大量に集まり、集団移民としてサラワク州を開墾したと述べている。
視野の広さが研究の深さと広さを決める。世界に散らばる客家の多様性と地域性に対し、客家研究は学際的な比較研究の手法、視点と理論を必要とする。ジャンルを越えた対話により客家研究の幅とレベルを引き上げられる。2003年の中央大学を皮切りに、わが国の学術機関に客家学部が設立されるようになった。学部を単位とした学術機関が制度化され、専門の理論と科学的手法で、客家の言語、文学、歴史、社会、文化、政治、経済、法律と政策などのテーマを全方位的に研究している。近年ではさらに文学、宗教、マスメディア、地理、言語、演劇など学際的な比較研究が行われるようになってきた。
新竹県北埔郷にある国定古跡の北埔金広福公館。清朝の支持を受け、福建出身者と広東出身者が資金を出し合って結成した開墾組織で、台湾における両省出身者の協力の手本とされた。