
地図を見ると、タイの国境は長く延々と続いている。北は中国大陸、東はラオス、西はミャンマーに接しており、複雑に絡み合う歴史や政治経済情勢の影響を受けることから、国境一帯には多数の難民が支援を待っている。
1950年代には、中華救助総会や慈済基金会、台北海外和平服務団といった、台湾の政府や民間団体が、タイ北部一帯やメーソート郡などの地方に赴き、教育、医療、情報などの面で支援を行ってきた。台湾からはるか数千キロの地、人里離れたタイ・ミャンマー国境地帯には、あちこちに台湾人の奮闘の足跡が残る。
ミャンマーと国境を接するタイのターク県メーソート郡には、政治的迫害や戦火を逃れてきた大勢のミャンマー難民が暮らしている。1984年に最初の難民キャンプが設立されて以来、次々と建設された9ヶ所の難民キャンプの住民のほかに、付近一帯をさまよう難民たちはすでに十数万人以上に及んでいる。タイで身分証を持たない彼らは、どこへ行っても自由が制限され、生活は困窮を極めている。

タイ・ミャンマー国境の難民キャンプでは、小さな商いが生計を立てるための数少ない手段の一つである。
メーソート国境での救援
中華人権協会の下部組織であり、「中タイ難民支援服務団」を前身とする台北海外和平服務団は、1996年、タイ政府の招きを受け、タイ・ミャンマー国境で難民支援を行う最初の非政府組織となった。以来20年近く、台北海外和平服務団は、難民キャンプでの教育支援プロジェクト、移住労働者問題、山村の女性・児童に対する支援などを進めてきた。
タイ・ミャンマー国境地帯の難民問題はかつてはあまり知られていなかったが、次第に注目を集めるようになり、台湾のボランティアや支援団体が相次いで現地に赴くようになった。
メーソート郡にはミャンマーに通じるタイ・ミャンマー友好橋があるが、そこから車で10分ほど行くと、さして目立たない路地に、多くの人が出入りする建物がある。ここは、1989年にミャンマー難民のシンシア・マウン医師によって設立されたメータオ・クリニックだ。「ミャンマーのマザー・テレサ」と呼ばれるマウン医師は、学生運動で弾圧を受けた学生たちとともに、1988年にタイのメーソート郡に避難してきた。そして、同様に避難してきた難民に医療を行なったのである。当初は、ミャンマーの情勢が落ち着けば帰国できると思っていたが、マウン医師は今でも祖国に帰らずに、避難してきた人や、ミャンマーでは食べていけず国境を越えてきた労働者のために働いている。
最初の頃のクリニックは板を組み合わせただけの小屋だったが、今では大きく改善された。だが、医療環境や条件では今も困難が多い。路地の突き当りに、いくつかの棟からなるメータオ・クリニックが建つ。消毒液と少しすえたような臭いが混ざる中、20数名の患者と家族が30坪足らずの病室にひしめきあう。これがクリニックの通常の光景だ。廊下には診療机が置かれ、傍らに視力検査表が掛けられており、眼科の診察室となっている。20数年来、ここには海外からの支援が次々と寄せられ、アメリカ、日本、フランスなど多国からボランティアも訪れる。その中には、台湾人の姿も少なくない。
学生時代に、台湾青年数位服務協会(Youth E-Service, Taiwan)とともにメータオ・クリニックを訪れたボランティアの許明章さんは、台湾科技大学大学院を卒業後、このクリニックに残ることにした。許さんのブログにアップされている動画を見ると、彼が2009年にクリニックのために医療情報システムを設置した際の過程が記録されている。
このデジタル化が実現するまでは、クリニックの患者の記録はすべて人の手に頼り、長い間に紛失するものもあれば、時期によって記録方法も異なるなど、管理が難しかった。許明章さんは5年をかけて、コンピュータの寄付を募り、プログラムを作成し、医療情報システムを完成させた。こうして病院の受付時間は大幅に短縮され、診療記録の検索も容易になった。

11月の乾季になると、難民キャンプの少女たちは木をすりつぶして作った「タナカ」という粉を顔に塗り、日傘を差す。
ケシでなく樹木を
そうしたメーソート一帯と、タイ北部の状況は大きく異なる。第二次世界大戦終結後、国共内戦や中国各地の陥落にともなって、多くの中華民国国軍が雲南地方からミャンマー北部やタイ北部へと撤退した。
映画『異域』に、当時の状況が描かれている。この孤立した軍隊と彼らの子女たちは、タイでの居住が許され、市民権も得たものの、居住地は制限され、暮らしも貧しかった。多くは茅葺き小屋のような所に住み、水道や電気もなく、衛生状況も悪かった。
1950年代からは中華救助総会による支援が始まり、タイ北部に大量の義援物資が届けられるようになった。1982年には、中華救助総会がタイ北部で現地住民を支援する初めての非営利組織となり、建華高校や光華中学などの華語学校を建設したり、国軍の子弟たちが台湾で学校に入る支援も行なった。また、夏休みや冬休みには、台湾の文藻や静宜といった大学で海外へのボランティア・チームが組織された。
慈済基金会は、11年前に中華救助総会の招きでタイ北部のチエンラーイを訪れ、学校を設立した。慈済基金会タイ分会の林純鈴CEOによれば、タイ北部一帯は辺境であることから交通も不便で、教師の招聘も容易ではない。そこで、良い待遇で教師を招聘するなどの教育支援を行うほか、自力で生活改善が行えるよう、住民に茶や果樹の栽培を指導している。
1970年代に台湾とタイ両国の政府が協力して進めたタイ王室プロジェクトでは、台湾の農業技術をタイ北部に導入し、現地住民の自立支援を目指した。
プロジェクトの始まりは1968年のことだった。タイ、ミャンマー、ラオス三国の国境一帯は山脈が連なり、カレン、ヤオ、ミャオ、アカ、リスなどの少数民族が伝統農業を続けてきた地域だった。木を切り開き、山を焼く彼らの農耕が環境には悪循環となり、タイ北部の耕地面積は次第に減少、貧しくなった農民はケシ栽培に活路を見出した。1960年代末にはタイ北部のアヘン生産高は年150トンにも達していた。
莫大なアヘン生産高は、住民に富をもたらさなかっただけでなく、山岳地帯の環境を深刻に破壊した。麻薬氾濫の状況を阻止し、農民の生活を改善するため、タイのプミポン国王は、各国の使節をタイ北部に招いて解決策をさぐり、1969年にタイ王室プロジェクトを立ち上げた。それに対してイギリス、アメリカ、韓国、日本などが次々と応じ、台湾からも国軍退除役官兵輔導委員会が、1971年に温帯果樹の苗2000株を空輸した。また、当時の福寿山農場長であった宋慶雲氏がタイ北部を視察し、その後、アンカーンとドイプイに模範農場を設立、やがて栽培種も果樹から野菜、花へと徐々に広げていった。
1983年に王室プロジェクトは基金会設立へと発展し、台湾側の農業指導組織も、国軍退除役官兵輔導委員会から国際合作発展基金会へと移った。とはいえ両国の協力は今でも継続している。40年の間に、タイ北部におけるケシ栽培拡大の問題を解決できただけでなく、住民の暮らしも大きく改善された。バンコク市街の専門スーパーやレストラン・チェーンに行けば、「王室プロジェクト」と表示された野菜や果物が売られているのを見かけるはずだ。
場所を首都バンコクに移そう。2015年から慈済基金会も、米国務省と国連難民高等弁務官事務所の委託を受けて、バンコクで医療支援プロジェクトを展開している。国連の統計によれば、バンコクには年7000~9000名の難民が在留する。政治的迫害や宗教的理由で故郷を離れざるを得なかった人々が、ここで第三国の受け入れを待っているのだ。

自身も難民であるミャンマーのマウン医師によって設立されたメータオ・クリニックは、ミャンマーから逃れてきた難民や労働者のために医療を提供している。
医療ボランティアで難民支援
例えば、カンボジアから逃れてきたBoranさんは、祖国では政治家であったが、政治的迫害を受けたため、家族とともにバンコクへと逃れてきて、第三国への亡命を申請中だ。だが、一家のあるじの彼がタイに到着後まもなく病に臥してしまったため、一家の生計は現在、17歳の長男が近くの工場で汗を流して働いて得る月7000バーツに頼る毎日だ。労働許可がないため、一般より低い賃金に甘んじるしかなく、しかも違法就労が発覚したり、警察の取り締まりに遭うのではというリスクに怯えながら働いている。
こうした状況は、ほかの多くの難民も同様だ。もし運が良ければ、数年内に申請が認められ、アメリカやカナダなど、新天地で新たな生活を始めることができる。しかし多くの難民にとって、未来はもうろうとして見通せず、どこに行きつくとも知れない状況だ。
慈済は、2015年初頭に国際難民医療支援プロジェクトを引き受けた後、タイ各地の病院から医師20名や医療スタッフ10名を集め、月に500~700名の難民に対して一般的な家庭医療やカウンセリングなどを行っている。またそれ以外にも、状況に応じ、難民に労働の場を提供することで、経済的な援助も行っている。
慈済の林純鈴CEOはこう説明する。世界各地からやってくる難民は、まず言葉が通じないという問題に直面するため、彼らの母語と英語ができる人材が必要になる。難民の中には、祖国で高学歴のエリートだった人も多いので、慈済でも彼らに翻訳や通訳をしてもらっている。そうすることで、収入の足しになるだけでなく、外に出て働くことのできない彼らにとっては、心の支えとなるという。
タイ北部から、西部のターク県メーソート郡、そして南下してバンコクと、あちこちの村、あちこちの学校に点々と、台湾から温かい善意が送られている。台湾とタイとの交流は、辺境に愛を伝えることから始まったのである。

台湾とタイによる「タイ王室プロジェクト」は40年にわたって続けられてきた。写真は、中心となって推進してきたラジャーニ親王が各国の使節を招いて有機栽培のレタスを紹介する様子。(外交部提供)

慈済のタイ支部は国連の委託を受け、バンコクで難民のための医療奉仕を行なっている。(慈済提供)

山間にあるメラ難民キャンプは、東南アジアで最大規模の難民キャンプである。

台北国際和平服務団による訓練を受けた難民教師とスタッフ。難民キャンプの幼稚園で。