台湾の藺草編みを守る
植物を編む工芸は世界中にあるが、台湾の藺草編みは唯一無二である。大安渓の北から苑裡以南までの一帯に原生する三角藺(Schoenoplectus triqueter (l.) Palla)で、苑裡では「蓆草」と呼ばれる種類を使う。火炎山と沖積してできた扇状地平野、台湾島の南北の気候の境目に位置する独特の風土が、苑裡の藺草を独特のものにした。日本統治時代に植物学者・島田彌市が調査を行い、ここに生育する藺草は特に強靭で吸湿性が高く、香りが強いことを発見している。中国の福建省や広東省に移植すると、生長はするが、苑裡の藺草の特性は出せなかった。苑裡の藺草は、加工の前作業で折ったり、槌で叩いたり、捩ったりするのにも耐えるため、工芸職人が自由に構想を発揮できる。
強靭で、日射にも耐え、通気性も良く、藺草特有の香りがあり、日に焼けると光沢に濃淡や色味の変化が生じる。工芸職人の丁寧な仕事と相まって、台湾の藺草製品は大人気になった。日本統治時代には台湾で輸出3位の農産品にもなり、当時の総督府が「台湾帽子興業株式会社」を設立して藺草帽の輸出を管理したほどである。
台湾藺草学会秘書長の黄増楨さんによると、全盛期の1936年には、苑裡鎮の人口2万人強のうち、1万人が藺草編みに従事していたという。「その内、経常的に藺草編みに従事していた人口は二、三千人で、現代の工場の規模でも決して小さくありません」しかし、1970年代に台湾が工業に力を入れ、加工業が発達してくると、藺草編み職人は工場で働くようになった。また、プラスチック製品が普及して植物加工品の需要が減少し、藺草工芸産業は大打撃をこうむる。町の藺草編みの店は一軒また一軒と閉まっていった。
藺草編みの黄金時代は去ったが、振発・謙昌・見成・美田・錦泰などの老舗販売店は本業を守り続け、苑裡の藺草文化を絶やさずにきた。苑裡で生まれ育った美田帽蓆行の現経営者・羅麗芬さんは、藺草編みが廃れていった日々を振り返る。市場が瞬く間に縮小し、職人がいなくなり、輸出の注文が来ても受けられなかった。大人の横で藺草編みとアイロンを学んで育った羅さんは、舅から店を引き継ぐと、卸と小売りに加え、帽子の整形加工も始めた。種まきや日干しもした子供のころから、藺草工芸の苦労は知り尽くしていたから、工芸職人に敬意を込めて、帽子一つでも引き受け、形を整えて製品の完成を手伝った。
2002年、苑裡農会が、藺草文化館を設立して藺草工芸の歴史と製品を展示したいと羅さんに協力を求めてきた。奔走して藺草と職人を探し出し、年配者に再び藺草編みをするよう説得した。皆、藺草編みには思い入れがあり、チャンスがあるならと前向きだった。道具を手にすると、藺草編みの記憶も戻ってきたと羅さんは笑った。
床に直接座って藺草を編む姿は、苑裡の人々の共通の記憶だ。