伝統に創造を
「布袋戯ってのは昔から芝居を『聴く』もんで台詞を聴くだけ。誰も人形なんぞ見ていなかった」と陳錫煌は往年の布袋戯を語る。
今日では台湾語の台詞を理解する人口が激減し、布袋戯の人気も衰えた。そこで陳錫煌は60歳を過ぎた頃、布袋戯の人気を取り戻す方法を考え始めた。「要らない部分は削り、良いものを加えて美しく見えるようにしたんだ」
台湾語の台詞がわからない外国人にも布袋戯の美が感じられるよう、劇団の十八番である『巧遇姻縁』を、台詞のない動作だけの内容に改編し、登場人物も男性、女性、道化の三つに絞って、その魅力を最大限に感じられるようにした。
細部に陳錫煌の工夫が見て取れる。彼の操る二枚目役は颯爽と扇を煽ぎながら歩く。伝統的なやり方なら袖口で扇を広げるが、陳錫煌はそれを改良し、人形の指を軽く扇に当てて開かせるので、客席からどよめきが上がる。
娘役の動作はさらに難度が高い。傘を開く動作はまさに絶技だし、胸に垂らした黒髪を指でとかしたり、さっと手で後ろへ払ったりもする。退場する際には体を少し横に向け、首もわずかに0.5度ほど傾げて、未練と恥じらいの混じったような風情だ。
一方、扇をばたばた煽いで跳びはねるように歩いたり、足を組んでキセルを吸い、頭をかいたり叩いたりするのは、道化役の特徴だ。
人形操作で陳錫煌が最も大切にするのは「生きている」ことで、「動かしているのは人形でなく、人だと思わないと」という。例えば、人形の視線は動作の方向に従わなければならない。「私があんたと話している時、私の顔は必ずあんたの方を向いている。あっちを向いてたら失礼だろう」また、人形を「操る」ことを「請」の字で表し、神に対するのと同じ語を使うのも、この芸に対する敬意の表れだという。
元弟子の陳冠霖が公演を開くことになり、陳錫煌が友情出演したことがあった。人形が皿回しのようにどんぶりを回す場面を演じたのだが、陳錫煌はわざと今にも落としそうにどんぶりを揺らし、観客をはらはらさせた。「こうした方がおもしろいだろ」と、舞台経験から陳錫煌は観客の引きつけ方を熟知している。
「仏は金装が要り、人は衣装が要る」というように、人形にもきれいな衣装が必要だ。陳錫煌は人形作りの腕も高く、彫刻、刺繍、絵付け、裁縫などすべてをこなし、人形の着物やかぶり物、扇、女性の長髪など自分で改良してきた。
79歳で陳錫煌は再び舞台に戻り、「陳錫煌伝統掌中劇団」を立ち上げた。「伝統が消えてなくなりそうだったので、劇団を作って工夫を加えることで救えないかと思ったんだ」と彼は言う。
実際には1970年代以降、現代的布袋戯の金光戯や霹靂戯がテレビで人気を博し、伝統的な布袋戯を見る人は少なくなっていた。だが1984年には陳錫煌の弟である李伝燦が父の李天禄の指示を受けて、板橋の莒光小学校で布袋戯を教え、その活動は13年続いた。陳錫煌の弟子たちも、呉栄昌の「弘宛然」、黄武山の「山宛然」、それにフランスから来たルーシーなど、独立して劇団を立ち上げ、その命脈を受け継いでいる。
学びたいという者がいれば、陳錫煌は自分の持つ芸のすべてを惜しみなく伝授する。幾度となく講座も行なってきたが、その話からも彼の焦りや不安が感じられる。彼は企業からの賛助を願っている。布袋戯は生きた芸能であり、人材が育つには、実際の場数を踏んで、その中から学びとっていくしかないからだ。
許政宗の『鷹爪王』の脚 本。読み込まれて擦り切れており、少なくとも50年以上前のものだという。