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「布袋戯」人形遣いの名人

「布袋戯」人形遣いの名人

人間国宝 陳錫煌

文・鄧慧純  写真・莊坤儒 翻訳・松本 幸子

3月 2019

陳錫煌は89歳になる今も「陳錫煌伝統掌中劇団」を率い、伝統芸能の伝承に努める毎日だ。

楊力州監督のドキュメンタリー映画『紅盒子(赤い箱)』を見た人は、布袋戯(台湾の人形芝居)の人形が判子を押すシーンを印象深く覚えているだろう。たった20秒の動作だが、人形が判子を持ち上げ、首をやや傾けて手元を確かめてから判を押し、その右手の上に左手を重ねて力を入れるように肩をふるわせる。衣装の下に本当に肉体があるかのような細やかな人形の動作に、小さい時から布袋戯を見慣れている台湾人も目を見張った。舞台裏で人形を操っていたのが、世界にも名を馳せる人形遣いの陳錫煌、『紅盒子』の主人公であり、台湾の人間国宝だ。

陳錫煌は89歳になる今も「陳錫煌伝統掌中劇団」を率い、伝統芸能の伝承に努める毎日だ。かつて率いた劇団は「新宛然」といい、やはり国宝級人形遣いの李天禄が創設した「亦宛然」の流れをくむ。李天禄は彼の父であるが、李天禄は大龍峒の陳維英の家に入婿したため、伝統に従って長男には母方の姓を継がせた。陳錫煌にとって布袋戯の道は定められたものであり、父と姓が異なることも抗うべくもなく、淡々とそれらを受け入れてきた。彼が唯一抗おうとしたのは伝統芸能が消滅の危機に瀕した時で、齢80に手が届こうとしていたにも関わらず劇団を再び立ち上げた。起源を中国大陸に持ち、台湾で発展したこの「掌中戯(布袋戯)」の復興を誓ったのである。

「新西園」劇団団長の許政宗(左)は、しばしば世間話をしに陳錫煌を訪ねてくる。二人は掌中戯のかつての隆盛を語り合い、昔話に花を咲かせる。

掌中戯の輝ける時代

13歳以来と言うから、陳錫煌はすでに70数年もの間、人形を操ってきたことになる。

陳錫煌が生まれた1931年は、父の李天祿が「亦宛然」を創設した年だった。布袋戯とともに育った彼は、弟の李伝燦(1945〜2009年)、西螺「新興閣」の鍾任壁(1932〜)、虎尾「五洲園」2代目の黄俊雄(1933〜)、小西園2代目人形遣いの許王(1936〜)など、同世代の同業者とともに台湾布袋戯栄光の時代を支えてきた。

1960〜70年代の台湾には娯楽と言えば観劇ぐらいしかなかった。「昔は人々の暮らしものんびりとして、食事が終わったらすることもないので廟の前でやっている布袋戯を見に集まって来たもんだ」と陳錫煌は言う。当時は、芝居がはねると同時にその廟での来年の予約が入るという具合だった。しかも予約で毎日埋まっており、芝居は1日に2回、昼食後すぐ準備を整えて廟に赴き、午後3時から1回、夕食後もう1回演じるため、帰宅はいつも深夜だった。

忙しさもさることながら、さらに大変なのは演目が現場で決まる点だ。廟の神が何をご覧になりたいか、神にお伺いを立てるのだ。「だから、あらゆる道具を担いで行く必要があるのです」と、陳錫煌に布袋戯を学んで10年以上になる林銘文がそばから説明する。陳錫煌は「歌中心の芝居が好きな神様もいれば、立ち回りの好きな神様もいるんだ。ちゃんと準備しとかないと」と言う。

昔と違うのは、伝統の布袋戯の芸を学ぶのが難しくなっていることだ。それでも陳錫煌は自らのすべてを弟子に伝えようと努力する。教える時は脚本を見せず、物語をざっと説明するだけだ。「話を自分のものにしてしまえば、自ずと生きた芝居になる。(略)そうしないと感情のこもった芝居にならない。脚本通りに読むだけなら教科書を読み上げるのと変わらない」と陳錫煌は言う。

インタビューの最中に、小西園の3代目であり、現「新西園」園主の許正宗が偶然やって来た。おしゃべりに加わり、大声で早口にまくしたてながら、父親が残したという『鷹爪王』の古い脚本を取り出した。読み込まれてぼろぼろになった冊子は50年以上前のものだという。びっしりと細かい字が書きこまれており、「昔はこういう1頁が、一晩の芝居になったもんだよ」と言う。脚本に「二人で話す」としか書かれてない場合でも、その役柄に合わせて即興で演じた。「わしらの世代を『流し族(酒場で即興で歌う流しのようだから)』、30〜50歳の世代を『カラオケ族(字幕を見ないと歌えない)』って呼ぶんだ」と許正宗は笑った。

許政宗の『鷹爪王』の脚 本。読み込まれて擦り切れており、少なくとも50年以上前のものだという。

伝統に創造を

「布袋戯ってのは昔から芝居を『聴く』もんで台詞を聴くだけ。誰も人形なんぞ見ていなかった」と陳錫煌は往年の布袋戯を語る。

今日では台湾語の台詞を理解する人口が激減し、布袋戯の人気も衰えた。そこで陳錫煌は60歳を過ぎた頃、布袋戯の人気を取り戻す方法を考え始めた。「要らない部分は削り、良いものを加えて美しく見えるようにしたんだ」

台湾語の台詞がわからない外国人にも布袋戯の美が感じられるよう、劇団の十八番である『巧遇姻縁』を、台詞のない動作だけの内容に改編し、登場人物も男性、女性、道化の三つに絞って、その魅力を最大限に感じられるようにした。

細部に陳錫煌の工夫が見て取れる。彼の操る二枚目役は颯爽と扇を煽ぎながら歩く。伝統的なやり方なら袖口で扇を広げるが、陳錫煌はそれを改良し、人形の指を軽く扇に当てて開かせるので、客席からどよめきが上がる。

娘役の動作はさらに難度が高い。傘を開く動作はまさに絶技だし、胸に垂らした黒髪を指でとかしたり、さっと手で後ろへ払ったりもする。退場する際には体を少し横に向け、首もわずかに0.5度ほど傾げて、未練と恥じらいの混じったような風情だ。

一方、扇をばたばた煽いで跳びはねるように歩いたり、足を組んでキセルを吸い、頭をかいたり叩いたりするのは、道化役の特徴だ。

人形操作で陳錫煌が最も大切にするのは「生きている」ことで、「動かしているのは人形でなく、人だと思わないと」という。例えば、人形の視線は動作の方向に従わなければならない。「私があんたと話している時、私の顔は必ずあんたの方を向いている。あっちを向いてたら失礼だろう」また、人形を「操る」ことを「請」の字で表し、神に対するのと同じ語を使うのも、この芸に対する敬意の表れだという。

元弟子の陳冠霖が公演を開くことになり、陳錫煌が友情出演したことがあった。人形が皿回しのようにどんぶりを回す場面を演じたのだが、陳錫煌はわざと今にも落としそうにどんぶりを揺らし、観客をはらはらさせた。「こうした方がおもしろいだろ」と、舞台経験から陳錫煌は観客の引きつけ方を熟知している。

「仏は金装が要り、人は衣装が要る」というように、人形にもきれいな衣装が必要だ。陳錫煌は人形作りの腕も高く、彫刻、刺繍、絵付け、裁縫などすべてをこなし、人形の着物やかぶり物、扇、女性の長髪など自分で改良してきた。

79歳で陳錫煌は再び舞台に戻り、「陳錫煌伝統掌中劇団」を立ち上げた。「伝統が消えてなくなりそうだったので、劇団を作って工夫を加えることで救えないかと思ったんだ」と彼は言う。

実際には1970年代以降、現代的布袋戯の金光戯や霹靂戯がテレビで人気を博し、伝統的な布袋戯を見る人は少なくなっていた。だが1984年には陳錫煌の弟である李伝燦が父の李天禄の指示を受けて、板橋の莒光小学校で布袋戯を教え、その活動は13年続いた。陳錫煌の弟子たちも、呉栄昌の「弘宛然」、黄武山の「山宛然」、それにフランスから来たルーシーなど、独立して劇団を立ち上げ、その命脈を受け継いでいる。

学びたいという者がいれば、陳錫煌は自分の持つ芸のすべてを惜しみなく伝授する。幾度となく講座も行なってきたが、その話からも彼の焦りや不安が感じられる。彼は企業からの賛助を願っている。布袋戯は生きた芸能であり、人材が育つには、実際の場数を踏んで、その中から学びとっていくしかないからだ。

許政宗の『鷹爪王』の脚 本。読み込まれて擦り切れており、少なくとも50年以上前のものだという。

『紅盒子』が話題に

李天禄の息子だとはいえ、自分の芸について彼は「親父は教えてくれなかった」といつも言う。「親父はね、昼近くまで寝ていて、起きると昼飯を食べてすぐ仕事に出かけちまう。芝居が引けて帰宅はいつも遅く、次の日もまた同じ。教えてくれる時間なんてなかったのさ」

あらゆる芸を陳錫煌は、そばから注意深く見たり聞いたりして学んだ。マスコミなどでよく耳にするのが、陳錫煌に間違った人形を渡された李天禄が怒って人形で陳錫煌の頭を叩き、びっくりした陳錫煌がどこかへ行ってしまったという話だ。だが昔の親はそういうものだったし、「親父は李で、私は陳、名字が違うのでつらくあたるのかもしれないとも思ったよ。でも何もない時はやさしかった。いずれにせよ親父は癇癪持ちで、怒り出すと相手が誰かなんて関係なかった」と陳錫煌は説明する。

『紅盒子』の上映後、父子の関係がよく取り上げられるが、陳錫煌は悠然とこう言う。「恨んでなんかないよ。年長者のすることに文句は言えないからね」

だが、父との間に会話がなかったのは事実らしい。陳錫煌は布袋戯の神である田都元帥を赤い箱に入れて祀る。彼はむしろ、その神と語らってきた。「毎朝、祖師爺(田都元帥)と話をするんだ。客が入りますように。弟子が皆がんばって練習に励みますようにと」それを知った監督の楊力州は、田都元帥こそが陳錫煌の哲学的父親だと考えた。そこで映画のタイトルを『紅盒子(赤い箱)』(英語名『Father』)としたのだ。

長い人生で最も印象深いことは何かと問うと、陳錫煌はしばらく考えてから「数年前に上海に行った時のことかな」(2012年に上海でのTEDカンファレンスに招かれた)と答えた。

人形操作で陳錫煌が最も大切にするのは「生きている」ことで、「動かしているのは人形でなく、人だと思わないと」という。

「その時どんなことがあったのですか」

「何もなかったさ。ただ人形を3体操っただけだ。演じ終って一番嬉しかったのは何だと思う?観客が皆立ち上がって拍手してくれたのさ」インタビューでは始終淡々としていた陳錫煌の声が、この時だけは興奮気味だった。

昨年の『紅盒子』上映時に陳錫煌が予告なしに映画館に表れた際にも、多くの観客が立ち上がって拍手を送った。映画に感動して泣いた観客の多くが陳錫煌の出現に再び目を潤ませた。

2009年に文建会(現文化部)から「重要伝統芸術布袋戯類保存者」、2011年には「古典布袋戯人形衣装道具制作技術保存者」の認定を受けた。だがこの人間国宝が最も感動するのは受賞ではなく、現場で観客から拍手を受けることなのだ。

『紅盒子』の撮影中、陳錫煌は一度、田都元帥の入った赤い箱をフランスから来たルーシーに譲ろうと考えた。楊力州は「それを聞いた瞬間、私は国粋主義者に変身しました。なんで外国人なんぞにくれてしまうのかって」と上映後の座談会で語った。だが陳錫煌にとって布袋戯は、全人類の文化資産なのだ。台湾で育まれたこの芸能を、まして我々は大切にしなければならない。

娘役は恥じらいがあり、二枚目役は颯爽として、道化役は笑いを誘う。陳錫煌が操る人形はまさに生きている。(後場音像記録工作室提供)

陳錫煌は人形遣いの名人であるだけでなく、自ら人形も作る。(林格立撮影)

芸を伝えきるまでは引退しない。ルーシー・カニングハムは初の外国人女性の弟子である。(後場音像記録工作室提供)

人形を手にすると陳錫煌の表情は生き生きとし、長年の友であるかのように人形とやりとりする。

陳錫煌は公演の前、舞台の成功を祈って赤い箱に収めた「田都元帥」を恭しく拝む。(後場音像記録工作室提供)