鍾老は生涯、自分のことだけを考えている人ではなかった。文学仲間をあつめて「文友通訊」を設立し、後進を抜擢し、台湾文学史に大きな影響を与えた。(資料提供:外交部)
ヨーロッパ地中海沿岸を原産地とする魯冰花(ルピナス)は、多くの台湾人に一種の親しみを感じさせる。毎年2月末から3月に咲くこの花を、茶農家では冬に土壌へすきこんで肥料にする。『魯冰花』は鍾肇政(1925-2020)の長編処女作のタイトルでもある。この作品では、絵画に天賦の才能を持つ少年が周囲の理解を得られず、病気により夭逝するストーリーが描かれている。1989年に映画化され、ある世代の人々が共有する思い出となっている。
『魯冰花』の作者・鍾肇政(文学界では尊敬と親しみを込めて「鍾老」と呼ばれる)は、『台湾文学史綱』の著者・葉石濤と共に「南葉北鍾(北に鍾肇政あり、南に葉石涛あり)」と並び称される。葉石濤は台南出身で、台南はよく知られた観光都市である。そのため、行政と民間が協力し、葉石濤に由来する「文学の道」がすでに数多く開設されている。鍾肇政は素朴な客家集落・龍潭の出身であり、2019年に「鍾肇政文学生活園区」がオープンした。鍾肇政に焦点を当ててデザインされた文学的景観は、龍潭を訪れる観光客の人気スポットとなっており、そこでは鍾老の作品の数々を目にすることができる。
能書家であった鍾老の豪快な筆致。後輩を励ますためにしばしば書を贈った。
自分のことだけを考えていられない鍾肇政
「鍾肇政文学生活園区」に足を踏み入れる前に、鍾老についてご紹介しよう。鍾肇政は「台湾文学の母」と称されるが、これは作家・東方白が彼をこう表現したことに端を発している。鍾肇政の次男・鍾延威が父のために執筆した伝記『攀一座山:以生命書写歴史長河的鍾肇政』(山をよじ登る:生命をかけて歴史の河を描いた鍾肇政)の文中にこう書かれている。「鍾老は別段、抗議するでもなく、『男なのに、どうして母になれるんだ?』と時々つぶやくだけだった」それには理由がある。鍾肇政は生涯、生み出し続ける作家だった。その手で書いた文章は2000万文字余りに達し、『濁流三部曲』、『台湾人三部曲』などの大河小説を遺した。さらに後進の育成と、先達の紹介に力を注ぎ、「還我母語運動」(母語を還せ運動)や「客家復興運動」にも参加した。作家・朱宥勳は自身の文学評論集『他們没在写小説的時候』(彼らが小説を書いていない時)の中で、これらの活動について「鍾肇政は自分のことだけを考えていられないから」と表現している。まさに言い得て妙である。
鍾老は生涯を通じて客家語、日本語、台湾語、中国語の4言語を自由に操ることができた。その中でも中国語は最後に習得した言語だった。日本統治時代に生まれ、1945年に政権が変わり、21歳ではじめて中国語の書籍を手に取った。苦学すること6年、ようやく言葉の壁を超え、流暢な中国語で執筆が可能になると、各新聞・雑誌に投稿を開始する。しかし採用されず、原稿が送り返されてくることも少なくなかった。1957年、鍾肇政は龍潭の自宅から最初の一通を投函した。台湾本土の作家による文学同人「文友通訊」を立ち上げ、一致団結し、共に議論し、文学の技術と芸術性を高めあうことを呼びかける招待状であった。
1960年、当時の『聯合報』副編集長であった林海音に見いだされ、鍾老の小説『魯冰花』の連載が始まる。こうしてついに台湾作家が正式に文壇のトップに躍り出た。鍾肇政はこれを機に台湾本土作家の地位を確立しようと、友人たちをさらに鼓舞した。東方白の『浪淘沙』、李喬の『寒夜三部曲』など、多くの作家が彼に励まされ、原稿を求められて、作品を完成させた。
励まされたのは新人作家だけではない。鍾老がどのように注意深く、慎重に台湾人作家の選書を編集し、先輩作家の作品を発掘したのか、桃園出身の作家・朱宥勳は自らの著作で紹介している。「匍匐前進しながら敵地を占領したと思ったら、すぐにその舞台をさらに多くの台湾人作家へ受け渡していくという戦略だ」、「鍾肇政がSNSの時代に生きていたら、シェアすることに喜びを感じる彼は、まるで水を得た魚のように、注目されるオピニオンリーダーになったのでは?」なぜなら、鍾老は自分のことだけを考えている人ではないから。「彼は一人で文学史を変えてしまった」と朱宥勳は総括する。
龍元路にある元春蔘薬行。年季の入った切断機の使い方を店主が熱心に教えてくれた。
台湾戦後文学発祥の地
龍潭小学校の傍に位置する「鍾肇政文学生活園区」は、鍾肇政が教鞭を執っていた時代の日本式教員宿舎である。大学院を卒業してすぐに「鍾肇政文学生活園区」のキュレーションと運営に携わってきた蔡済民が案内と解説をしてくれる。「鍾老は1956年から1967年までの11年間をここで過ごしました」現在、残っている日本式宿舎は3棟あり、1棟目は、よく知られた作品『魯冰花』が展示のテーマとなっている。2棟目は、鍾肇政の常設展であり「朱宥勳氏をメインキュレーターとしてお迎えしました。鍾老の人生を振り返り、さらに川が流れるイメージからデザインの発想を得て、彼の小説を大河に例えています」
鍾老は能書家という一面を持っていた。展示会場にはデジタルス技術で複製した彼の書が飾られている。多くの人が鍾老に書を求め、鍾老は惜しみなく書いた。彼の書は台湾各地の建築物に今も遺されていて、台南にある国立博物館「台湾文学館」の文字を揮毫したのも鍾老だと蔡済民が教えてくれた。
3棟目が鍾老の実際の旧居である。当時の住所は「南龍路5号」となっていた。『魯冰花』、『濁流三部曲』などの有名作品が生まれた場所であり、まさに「台湾戦後文学発祥の地」といえるだろう。室内には鍾老が生涯愛用したヒノキの書机が復元されている。これは、妻の張九妹が豚と鳥を飼って貯めたお金で買ったものだという。さらに興味深いのは、宿舎の入口の壁一面に鳥かごを復元している点だ。当時、張九妹は家計を助けるためにジュウシマツを繁殖させていた。その上、わずか12坪の宿舎に9人が生活していたという。鍾老は冗談めかして、「当時は、妻の飼っている動物を合わせると、70以上の口を食べさせてなくてはならなかった」と話したことがあるそうだ。
その傍らにはキュレーターグループが探し出してきた謄写版の印刷機が展示されている。当時、鍾肇政が立ち上げた「文友通訊」は、作品に対する人々の意見を集め、それをガリ版で印刷して会員に配布していた。紙の上の学習会はこうして進められていたのだ。
「鍾肇政文学生活園区」に設置された常設展は、鍾老の人生を物語る。
街と生活の息吹
宿舎を見終わると、蔡済民は私たちを外へ連れ出してくれた。まず向かったのはそう遠くない位置にある武徳殿だ。この龍潭武徳殿は1930年に建てられ、日本式教員宿舎とほぼ同時期に修復された。鉄筋コンクリート壁で補強され、外壁は白と黄色の漆喰に緑色の洗い出し仕上げという素朴で落ち着いた配色が、この街によく馴染んでいる。
東龍路に沿って歩くと、最初に龍潭基督長老教会が見える。鍾家は代々キリスト教徒で、鍾老も幼い頃からこの教会の礼拝に参加していた。彼の長編小説『八角塔下』には「長いヤギひげの老伝道師は、私たちがよく知っている物語を永遠に語り続ける」という記述がある。この老宣教師こそ龍潭で最初に伝道を行った鍾亜妹である。そのまま通りを進むと、地元の信仰の中心である龍元宮が見えてくる。ここは五穀神農大帝をお祀りしていて、鍾肇政の作品にも龍元宮の年越し、元宵、中元のお祭りがしばしば登場する。「鍾家の人々は代々キリスト教徒でしたが、鍾肇政が生後1か月の時には、龍元宮前の広場で伝統的な路上宴席を設けて、近所の人々とお祝いをしたそうです」と蔡済民が教えてくれた。2022年には桃園市の客家文化基金会が、この場所で鍾老の作品と妻・張九妹のレシピをテーマにした音楽パーティを開催し、街の遠い記憶をよみがえらせた。
龍潭の街はそれほど大きくない。細長い形をしていて、その真ん中を龍元路が貫いている。これが地元の人々にとっての「老街」、つまり伝統的な古い町並みだ。「古い写真を見ると、この道が拡張される前は軽便鉄道の線路が敷かれていて、茶葉や物資を運び出していたことがわかります」と蔡済民は解説する。地元の人々は龍源路周辺のエリアを「上街」と「下街」に分けている。第一市場を境に、北の龍元宮方面が上街、龍潭大街方面が下街と呼ばれる。上街と下街の様子は『台湾三部作』や『濁流』などの作品に描かれている。
上街は商店が多く賑やかで、通りには創業60年を超える雑貨店「隆興商店」がある。1935年開業の「松屋冰果店」も鍾老が若い頃、涼みに行った店だ。昔ながらのかき氷と手で絞ったレモンジュースは、龍潭の思い出の味である。龍元宮の薬籤文化を今も受け継ぐ「元春参薬行」は、漢方薬の香りに満ちている。店主が古い切断機の使い方を教えてくれた。龍元宮の向かいにある老舗「牛肉雄」は鍾老の愛した店で、訪ねて来た友人たちをよく案内したという。
蔡済民がひとつひとつ解説しながら、生活感に満ち溢れたこの街を紹介してくれた。すべて鍾老が生前にそぞろ歩いた風景だ。再び上街と下街を分ける第一市場に戻ろう。ここはかつて火災で荒廃した伝統市場だったが、2016年に地元のイノベーション計画が立ち上がり、クリエイティブブランドを集めた「菱潭街興創基地」に生まれ変わった。これが地元のイノベーションの先駆けとなる。菱潭街のイノベーションにたずさわったメンバーは、かつて鍾老の応援と励ましを受けた人々だ。
旧居内に復元された鐘老の書机。創作に打ち込む作家の姿が思い浮かぶ。
故郷の景観
再び龍潭小学校に戻る。蔡済民によると、龍潭小学校の正門はかつて南龍路にあったという。旧正門の向かいにある細い路地を指さして、「ここが昔の通学路で、鍾老が毎日の通勤で歩いた道です」という。
鍾老は執筆と小説を読む時間以外は、劇場で映画を観ていたという。今は廃業してしまったが、近所に映画館があった。友人が訪ねてくると、劇場のスクリーンに「鍾肇政に来客」と映し出してくれるよう頼んだそうだ。あまりにもその回数が多いので、劇場はその文言を書いたガラス板を残しておいて、来客があるたび使ったという。陳映真や李喬はこうして映画館で鍾老を探し出すことができた。
さらに歩くと龍潭大池が目の前に開けてくる。龍潭という地名はここにある貯水池から名づけられ、昔は野生の菱が池を覆っていたことから「菱潭陂」または「霊潭陂」と呼ばれていた。鍾肇政の小説『霊潭恨』は、この龍潭大池を舞台にしている。今でも地元の人々にとって大切な憩いの場である。
龍潭大池から西を望むと、鍾肇政の作品にしばしば登場する「乳姑山」が見える。龍潭の人々にとって「母なる山」だ。故郷を離れて暮らす龍潭の人は、乳姑山の優しく美しい姿を見て、ようやく自分が家に帰ったと実感すると蔡済民が教えてくれた。
旅の終わりに、私たちは北龍路にある新竹客運の龍潭バスターミナルへ案内された。龍潭には鉄道の駅がないため、外との交通にはこのバスを利用する。当時、鐘老が出かける際にも、バスで中壢駅へ移動して、そこから列車に乗り換えた。龍潭のバスターミナルはすっかり古くなっているが、日本統治時代のたたずまいを今に残している。かつて呉濁流ら文学を志す友人たちが鍾老を訪ねてここに降り立ち、牛肉麺で腹を満たし、宿舎で文学について語り合った。そんな過去の日常を想像することができる。
鍾肇政にとっての龍潭は、まるで台湾文学における彼自身のようだ。なぜなら「龍潭は鍾肇政作品によって、台湾文学史における永遠の文学的景観になったからです」キュレーターの一言が、今回の探訪に最も的確な脚注を与えてくれた。
多くの作品を残した鍾老は、台湾における「大河小説」の始祖でもあった。後ろに並んでいるのは桃園市政府出版の『鍾肇政全集』。
鍾老は生涯、龍潭と心をひとつにしていた。彼のインスピレーションの源泉であった。(写真提供:蔡済民)
龍潭大池の碑には鐘老の詩『龍潭故郷』が刻まれている。右側遠方に見えているのが龍潭の人々の母なる山・乳姑山。
龍潭はかつて重要な茶葉産地であった。鍾肇政の作品『魯冰花』は茶農家を物語の舞台としている。
北龍路の新竹客運の龍潭バスターミナル。日本統治時代のたたずまいを今に残す、交通の要所。
龍潭の信仰の中心である龍元宮。五穀神農大帝を祀り、ここでの年越し、元宵、中元の祭事の様子は、鍾老の作品中にも多く登場する。
「鍾肇政文学生活園区」内の龍潭武徳殿。門前には羅漢松がそびえ、静謐を湛える街の一角。
鍾老の旧居「南龍路5号」は、かつて龍潭小学校の日本式宿舎であった。現在は「鍾肇政文学生活園区」として保存されている。