戦後初期の対立と和解
あまりにも長い間、台湾美術の知名度は低く、ゴッホやモネの名は言えても、台湾の芸術家の名は知らないという人が多かった。「我々は自分の故郷に居ながら何も知らない外国人のようです」と国立台湾美術館の副研究員で、キュレーターでもある林振茎は残念そうに言う。
台湾美術が長い間日の目を見ることがなかったのは、歴史や政権交代が関係している。日本統治時代に芽生えた近代美術がまだ育ち始めたばかりのころ、国民政府が台湾に来たことで双方の文化が衝突し、記憶の断裂が起こった。
例えば、日本統治時代に「日本画」と呼ばれたジャンルは、戦後には水墨画の「国画」に改められた。エスニックが違えば、言語、文化、美意識も全く異なる。統治者からの圧力と、北京の故宮から来た重厚な国宝の数々に押される形で、多くの芸術家(主に日本統治時代に生まれた人)は、「言葉を失った世代」として活躍の舞台を失ってしまった。
昔の状況を知るために、我々は画家の謝里法を訪ねた。大稲埕生まれで、台湾省立師範学院芸術科(現在の台湾師範大学美術科)を卒業、パリとニューヨークで24年間暮らし、1988年に台湾に帰国という経歴を持つ。
謝里法の大学時代は戦後初期と重なる。当時は中国大陸から来た外省人の画家が公式の場で優勢を占めていた。「でも中国は革命や軍閥割拠、八年抗戦(日中戦争)を経たばかりで、戦火から逃げ惑う中で、絵を描く時間などなかったのです。デッサンを基本とする西洋画は上達に時間がかかります。台湾でも戦争があったとはいえ、美術教育を重視する日本人は、石川欽一郎や塩月桃甫といった画家を招いて中学で教えさせていました。だから当時の本省人の画家の多くは『外省人画家は基礎ができていない』と思っていました」と謝里法は語る。
「ただし私の先生である孫多慈は例外でした。彼女はフランス在住の徐悲鴻の教え子で、デッサンの腕は確かなものでした。当時、本省人と外省人の画家はあまり付き合いもありませんでしたが、彼女はよく両者の仲介をして、『分ける必要がある?』とまで言っていました」
「戦後、本省人の画家によって、日本統治時代の『台展』(台湾美術展覧会)の延長として『省展』(台湾省全省美術展覧会)が開かれました。私が大学3年の時(1957年)には政府主催の『全国美展』(中華民国全国美術展覧会)が開かれ、これは外省人を主とした展覧会で、孫多慈が委員の招集を担当しました。現状を打破したい彼女は、外省人画家たちの『東方画会』から人を招くと同時に、本省人芸術家である楊英風も審査員に招くことで、変革を試みました」
こうした謝里法の話から、戦後のエスニック間の対立と和解のプロセスを知ることができる。
謝里法は郭雪湖や鄭世璠と文通して資料を集め、台湾初の近代美術史を完成させた。