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茶の木に芽生えた小さな若葉が、やがて摘み取られて加工され、世界中で愛される飲み物に変身する。
19世紀末から20世紀初頭にかけて台湾の茶は世界五大陸へと売られていった。「フォルモサ・ウーロン・ティー」は最も早くに名を挙げた国際ブランドとなり、その中の一つは独特の風味で英国女王から「オリエンタル・ビューティー・ティー(東方美人茶)」の名を与えられる。新竹関西の紅茶も、かつて日本の皇室御用達品として献上されていた。
その昔、台湾の茶業は外貨を稼ぐ重要な産業であり、台湾の産業の中心が北部に移り、台北が発展を遂げるきっかけをも作った。台北の大稲رL地区には、全盛期には200を超える茶の問屋があり、台湾茶の大航海時代を支えていた。
大稲埕で女性たちが茶葉の茎を取る様子。(有記名茶提供)
百年の茶の香り
民生西路にある、3軒連なった店構えの「新芳春行」は、今はもう営業していないが、当時は台北で最大規模の製茶業者だった。創業者の王連河は大陸の福建出身、16歳の時に父の王芳群と台湾に来て毛茶(荒茶)を買い付け、それを加工して東南アジアへと輸出していた。1918年に故郷の治安が悪くなったことから台北の大稲埕に移り住み、1934年には王連河が土地を買って「新芳春行」を開いた。この時より新芳春行には、新天地を求めて台湾へとやってくる人が次々と訪れるようになった。ここでひとまず腰を下ろし、食事してから各地へ散って行くのだ。「人の多い時は、3日で100キロほどの米がなくなりましたよ。王永慶(台湾プラスチックの創業者)の父親もこの辺りに来て米を売っていました」と当時を思い出すのは、すでに80歳を超えた、新芳春の3代目、王国忠だ。
重慶北路の路地にある「有記名茶」の創業者、王敬輝は鉄観音茶の故郷である福建安渓から来た。茶作りを長く営んできた安渓の人々は、台湾の茶葉輸出が盛んになってきたので、海を越えて台湾にやってくるようになった。王家もそんな中の一家族だった。1890年創業の有記名茶は現在、若いながらも落ち着いた風格のある五代目、王聖鈞の代になっている。
1937年創業の「台湾紅茶株式会社」は、現在の「台湾紅茶股份有限公司(以下「台湾紅茶公司」)」の前身だ。新竹関西では古くから茶が作られてきたが、自分たちでは輸出する手段を持たなかったため、農家の得る利潤は薄かった。だが、地元の羅一族が出資しして会社を設立し、大稲埕に営業所を作った。こうして外国商人の手を経ることなく、関西で採れた茶葉をまとめ、直接欧米へと輸出するようになったのである。
「フォルモサ・ティー」は最も早く世界に名を広めたブランドである。
製茶の技術
茶商人が買い付けた毛茶は、輸出される前に加工される。加工の工程は、等級分け、茎取り、焙煎、ブレンド、風選、箱詰めの順で行われるが、焙煎とブレンドが腕の見せ所となる。
最初の等級分けとは、商人や「茶師」が茶葉の形や香り、味などを見て仕分けし、価格を決める。王国忠によれば、新芳春行では高い葉から順に「堆外」「葫蘆」「番字」「天」と呼んだ。「大事な作業なので、等級分けのテーブルには、ほかの人間は近寄ってはいけないほどでした」
茎取りは毛茶に混じる異物を取り除く作業だ。次の焙煎は、茶葉に含まれる水分を減らすためで、そうすることで保存が効くようになり、また味も芳醇さを増す。ただ、火加減や時間が味を左右するので、焙煎は職人の腕の見せ所となる。
新芳春行と有記名茶には昔ながらの焙煎室が残されており、室内には赤レンガで組まれた炉がずらりと並ぶ。炉は約60センチの深さの穴状になっており、そこに籠をはめ込んで焙煎する。茶葉は籠の中ほどにあるザルの上に広げるので火とは距離が保たれる。
焙煎の方法は、まず炉の底に約60キロの木炭を敷き、隙間ができないよう木炭を小さく砕く。その上に焼いた籾殻を敷きつめ、火をつけて籾殻を焼き尽くして灰にする。これは、温度を保つためだけでなく、茶の味に影響する煙や炎を出にくくする効果がある。
その後、茶葉を入れた籠を炉に載せる。茶葉がまんべんなく熱せられるように、3時間ごとに揺すって、籠の位置も動かす。これは大陸の安渓で行われてきた伝統の焙煎方法で、茶の味を左右する重要な工程となる。木炭は火をつけてから2~3週間もつので、その間、職人は炉の傍らに寝泊まりし、24時間炉の番をする。おそらく台湾で今もこのやり方を守っているのは有記名茶だけであろう。こうして生まれるのが同店の「奇種烏龍茶」なのである。
次のブレンドの工程は、経験に基づいた茶師の感覚と技術によって茶葉それぞれの特色をつかみ、組合せでその店独特の味を生み出す。王聖鈞はこう説明する。台湾の茶農家は小規模なところが多く、一つの茶畑だけで注文を満たすのは難しいため、何種かを混ぜることになる。それに、焙煎とブレンドによって独自の味を出すことで、他店と差をつけることもできる。
つまり焙煎とブレンドは、茶の質のかなめであり、技術の見せどころでもある。商業的にも安定した量と質の確保は輸出の基本条件であり、それが台湾茶の大航海時代を支えたのだ。
「有記名茶」と「新芳春行」は、かつて大稲埕から包種茶を東南アジアに輸出していた老舗である。
大航海時代
18世紀末、烏龍茶の輸出は多くが外国貿易商の手に握られ、主に欧米へと売られた。一方、包種茶(発酵度の低い烏龍茶)は多くが華人によって東南アジアへと売られた。有記名茶の三代目の王澄清は台湾で茶葉を加工し、それをタイにいる二代目の王孝謹に売ることでタイ市場を拡大した。「私の祖父は、自分の父親に茶葉を売っていたのです」と王聖鈞は言う。当時、有記の茶葉はタイ市場の5割を占めるほどで、今でもバンコクのチャイナタウンに行けば「有記」の看板が目に入る。
新芳春行にも同様の話がある。創業者の王連河がまだ20歳代だった頃、父の王芳群がふとしたことから上質の茶を手に入れたので、タイ方面の業務を担当していた王連河に送った。手紙には「これまでの茶人生でこれほど良い茶に出会ったことがない」と書いてあった。そこで王連河はバンコク最大の茶問屋と独占契約を結んだ。こうして台湾の包種茶がタイで広まったのである。
「台湾紅茶株式会社」の場合、創業当初は羅家に英語のできる人材がなかったため、台湾大学卒業の、英語のできる人を知り合いから紹介してもらい、茶葉の輸出を開始した。
頭髪をポマードで固め、紳士然とした羅慶士は台湾紅茶公司の董事長だ。中国語、英語、日本語を交えて自社の歴史を説明しながら、社の2階へと案内してくれた。まず目に入ってきたのは壁に何百枚と貼られたプレートだ。地名や茶種名、社名の略語などが刻まれている。輸出する茶箱には、仕向港や原産国、重量、品質などを明記しなければならず、このプレートはそれを記すために使われた。台湾紅茶株式会社が世界中へ輸出していた動かぬ証拠だと、羅慶士は語る。
「会社設立の年に輸出量は百万ポンドに及び、1937~1938年にはすでにロンドン、ロッテルダム、コペンハーゲンに輸出していました。壁の荷印にある港の中にはもう存在していない所もあります」ヒューストン、大阪、横浜、ボストン、カサブランカ、シンガポール、コロンビア、ペナンと読み上げながら、「うちのように、決して大きいとは言えない会社が、かつては世界の85の港に輸出していたのです。うちの会社だけでですよ」と、誇らしげに羅慶士は語る。
ほかに「REPUBLIC OF CHINA」「TAIWAN FREE CHINA」「中華民国台湾製」というプレートもあり、台湾の国際社会での地位を物語る。台湾が国連を脱退して以後、国交のない国との交易では、茶箱にROCの文字を刻むことができず、それでも外国人はわからないだろうと「中華民国台湾製」といった漢字が使われたこともあった、と羅慶士は笑いながら説明する。
「有記名茶」と「新芳春行」は、かつて大稲埕から包種茶を東南アジアに輸出していた老舗である。
老舗の新たな発想
だが、このような盛況はもはやない。世界の茶産業及び台湾の産業構造の変化などによって台湾茶の輸出は衰退し始める。1982年には「製茶業管理規則」が廃止され、小規模農家も製茶ができるようになると、それまで製茶業者の果たしていた役割も大きく損なわれ、茶葉の供給が激減してしまった。
1976年、有記名茶は他に先駆けて台北市済南路に国内市場のための販売店を開いた。宣伝のため、「父は茶の販売用に軽トラを改造し、市場に行って売っていました。今で言う移動式カフェのようなものです」と王聖鈞は当時を振り返る。おりしも台湾は高度経済成長の頃で、日常生活で茶を楽しむ人も増え初め、有記名茶の商売も安定していった。2005年には製茶場を大改修、王聖鈞の幼い頃の遊び場だった1階倉庫を、レトロなムードの漂う明るくおしゃれな販売スペースに変えた。奥の製茶スペースは昔ながらの様子を残し、製茶工程の見学もできるようにした。2階の作業スペースも改造して「清源堂」と名付け、週末には中国古典音楽の演奏会を催すなど、茶とアートの結び付けも試みている。
一方、新竹関西の台湾紅茶公司が今では緑茶を作っているのはどういうわけだろう。羅慶士は、紅茶では海外の大企業に太刀打ちできないので、日本から煎茶製造の技術と設備を導入し、日本へ輸出することにしたのだという。そればかりか羅慶士は「蒸青緑茶粉」も生み出した。緑茶を蒸してから乾燥させ粉にしたものだ。お湯で溶かして飲めば抗酸化作用のあるカテキンが多く摂取できるなど、ヘルシー路線の開拓となった。
製茶所の古い建物は、1999年の台湾大地震で柱などが傾き、また道路拡幅なども行われたこともあって、建物の一部を再建して「台紅茶業文化館」を作り、80年にわたる貴重な写真などを展示した。羅慶士は古い写真を一枚一枚丁寧に説明してくれた。関西紅茶が全島名産に選ばれた写真、日本の皇室に献上された記事、総督府から受賞した特等賞、欧米の取引先からの信用状など、台湾茶の歴史を回顧できる。
1934年建設の新芳春行の建物は、戦火は逃れたとはいえ、茶産業衰退の現実からは逃れられず2004年に店をたたんだが、その建物は2009年に台北市文化財に指定された。台北市は、建築物保存のために容積率を移転する形で、建物の主要部分を残し、民間の建設会社と協力して建物の修復工事を行った。
4年後、新芳春行は再び民生西路に堂々たる姿を見せ、台北市主催で1階において「新芳春行特別展——大稲埕製茶問屋の輝きを再び」を催した。「『芳』尋顧渚」「『春』採蒙山」という対聨の貼られた扉を押して中に入ると、新芳春行の全盛期、大稲埕茶業の華やかなりし時代の光景をうかがい知ることができる。
王国忠へのインタビュー当日、彼はまず3階に上がって祖先の位牌に線香を上げた。工事が終わり、再び元の場所に戻ってきたご先祖様は、今後も子孫を見守り続けてくれるに違いない。
台湾の茶葉は1970年代に輸出のピークを迎えたが、茶畑の面積も激減し、近年は3トンの茶葉を海外からの輸入に頼る時代になった。だが幸い、いくつかの店が今もなお台湾茶の物語を語り続ける。次に茶を飲む際には、その味や香りだけでなく、かつての大航海時代にも思いを馳せたいものである。
茶葉の試飲と等級分けの様子。(有記名茶提供)
(左下)「新芳春行」の茶葉の焙煎室では、三代目の王国忠が焙煎過程を解説する映像が放映されている。
有記名茶の、茶葉を焙煎するための竹籠は少なくとも数十年使われてきた。
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台湾茶の栄光の時代を経験した王国忠。「新芳春行」は店をたたんだが、古い建物は本来の姿をとどめて修復され、現代の人々に台湾茶の物語を伝えている。(荘坤儒撮影)
「台紅茶業文化館」が収蔵する古い写真。トラックに茶箱が満載されている。
台湾紅茶公司はかつて世界の85の港に茶葉を輸出していたと語る羅慶士。
「有記名茶」の五代目・王聖鈞は、老舗ブランドに新たな創意を取り入れている。
「新芳春行」の2階には古跡修復のプロセスが展示されている。
かつての倉庫が「台紅茶業文化館」の展示エリアとなり、貴重な古い写真が多数展示されている。
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「新芳春行」の採光と通風のための天窓。(荘坤儒撮影)
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「新芳春行」の3階にある神明や祖先を祀る祭壇。王氏の祖先を中央に、神明を左右に祀っているのが特徴だ。 (荘坤儒撮影)
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台湾の茶業は衰退したが、茶は台湾文化に欠かせない存在であり、今も国民に愛されている。茶摘みは台湾の美しい風景の一部であり、農家や販売業者は今も努力を続けている。