日本統治時代の台北西門町の風景。撮影地点は成都路で、背景に見えるのは現在の国賓大戯院。(出典:『彩絵李火増』・『看見李火増』)
撮影技術の発明は、過去の生活の断片を現代に残してくれた。しかし、80年以上前の写真はどれもモノクロで、どうしても遠い隔たりを感じてしまう。
台湾には、細部まで真剣に考証を重ね、古い写真に一筆ずつ彩色を施す人々がいる。過ぎ去った月日と私たちの距離を縮めるために、そして、私たちがより深く台湾の過去を知るために。
2017年のある晩まで時間を戻そう。フェイスブックページ「台湾古写真上色」の開設者・王子碩は、台湾の歴史を理解したいと切望する歴史オタクだった。彼はハードディスクから1枚のモノクロ写真を選んだ。かつて基隆河を越えて、台湾神社(現在の台北円山大飯店付近)へ渡るために架けられた「明治橋」の写真である。フォトショップを使って手作業でそれに色をつけていく。自動的に彩色してくれるAIソフトウェアがあることを彼は知っていたが、「AIはプログラムを使って推測しているだけで、理想的な効果は期待できないし、その上、誤った憶測で文化史を混乱させてしまうかもしれない。うん!自分の手で作業すればいいや!」そう考えた。完成した彩色写真は想像以上に出来が良かったので、彼は満足して、その画像をすぐにネットでシェアした。まさか一晩で「いいね!」と「シェア」の数が1000を超えるとは思いもしなかった。さらに他の写真も見たいというリクエストまで来ていた。

王子碩が経営する独立系書店「聚珍台湾」は、台湾の歴史的記憶を積極的にプロモートしている。
記憶のプロモート 台湾の過去を尋ねて
「私たちは台湾の歴史的記憶をプロモートするチームです」。王子碩は古写真を彩色したきっかけを語ってくれた。「モノクロ写真に彩色することは、私たちの試みのひとつでした。人と歴史の距離が近づくことを願って、努力の結果、かなり良い効果が得られました。」
文学歴史学者・王佐栄は王子碩と共に『彩絵李火増』、『彩絵鄧南光』というシリーズ書籍を完成させた。彼は日本統治時代における台湾人の日常生活について、YouTube上でもよく話題にしている。モノクロ写真は人間が体験する視覚とは異なるため、見る者は距離感を感じ、そこに溶け込むことができないと説明する。「私たちはモノクロ写真に本来の現実感を取り戻したいと思っていました。人が歴史から離れてしまわないように、そして親近感が持てるように」。李火増や鄧南光といった当時のカメラマンは、ただ、自分が興味を持ったものを撮影し、日常生活を記録するためにシャッターを切った。こうした歴史の断片を現代において生き生きと、観る者の心に迫る方法で提示していく。これもまた、彼がモノクロ写真の彩色に専念していく目的となった。
モノクロ写真彩色がブームとなり、彩色に挑戦する人も増えたので、王子碩はフェイスブックページ「台湾古写真上色」を開設した。経験を共有し、これから始めたい人へ手ほどきをする。グループ内には建築、物品、服飾、民族など各分野の専門家がいて、本来の色彩に関するディスカッションができる。「実は、この話し合いのプロセスに意義があります。資料を蓄積して、今後は台湾の歴史の色に関するデータベースを設置できたらと考えています」

王子碩が最初に彩色した台北明治橋。考証の結果、石材は日本から運ばれてきた花崗岩であることが分かった。(写真提供:王子碩)
採色することで見えてくるディテール
古い写真に色をつけることは決して単純な作業ではない。
「法律的には、写真が撮られた瞬間から50年が経過した後は、『著作者人格権』のみが残ります。撮影者の情報を明記すればよいのです」と王子碩は話す。しかし、ある時、写真家の家族から「勝手に適当な色をつけられて嫌な感じがした」と苦情があって反省した。「家族の感情も考慮しなければ、失礼になります」
また「本来の色彩」という課題がある。王子碩は最初に彩色した明治橋の色を正確に把握していなかったため、日台文化について造詣の深い雑誌『薫風』の編集長・姚銘偉に助けを求め、理解を深めた。「明治橋の石材は日本から運ばれてきた花崗岩です。日本の国会議事堂と同じ種類の石材でした」。こうしたヒントを得て、実物の写真を参考にしながら、古い写真に正確な色を施した。
彼は、写真家ジョン・トムソンが撮影したシラヤ族の人物写真を彩色したことがある。モノクロフィルムには、グラデーションだけが残されていた。日本人研究者・国分直一が記録した資料を参考にし、さらに長期にわたるフィールドワークで何度も実物を調査しているシラヤ文化の研究者からアドバイスを受け、ようやく本来の色彩を再現することができた。またその中に子供を抱いた女性の写真があった。王子碩はこの写真を何百回も見たが、色をつける時になって初めて子供の腕輪に気がついた。シラヤ文化の専門家・段洪坤に教えを請い、ようやくそれが母と子をつないでいた「へその緒」と苧麻糸で編まれていることがわかった。へその緒と植物繊維をより合わせた細い縄にジュズダマを通した腕輪を子供に着ける。これには子供を守るという意味があった。彩色の過程で発見されたディテールであり、王子碩が熱心に語ってくれた物語である。
王子碩は彩色を、王佐栄は歴史考証を担当している。豊かな背景知識を持つ王子碩が写真を選び、彩色作業を進め、疑問があればふたりで話し合い検証するか、他の専門家に相談する。「歴史の記憶をプロモートするのだから、それに対して責任を持たなければなりません。『考証』は最も大切なことです」と王子碩は言う。

シラヤ族の女性の肖像。抱かれた子供は腕輪を身に着けている。彩色することで、細部まで目が行き届く。(出典:『彩絵福爾摩沙探検島』)
考証が最も大切 妥協はしない
「考証は彩色の第一ステップです。一体なにが写っているのかを知る必要があります。もし写っているものがなんだかわからなければ、それがどんな色をしているか、絶対にわかりません」と王佐栄は言う。王子碩は鄧南光が撮影した北埔鄧家の結婚式の写真を例に説明してくれる。花嫁を迎えに行く車にはふたつの旗が飾られていて、ひとつは日本の国旗であることがはっきりとわかる。もう一方はモノクロ写真の中で完全に見分けがつかない。あらゆる角度から考証して、この結婚式が満州国建国10周年に挙げられていたことがようやくわかり、この旗が満州国の国旗であると推側できた。また鄧南光が撮影した当時よく見られた「演劇」は、一体どの場面が演じられているのか?ふたりは長い時間をかけて検討を重ねた。李火増が撮影した台北のバスはどんな色だったのか?鄧南光が撮影した媽祖のお神輿はどう彩色すればいいか?日本統治時代に行われた台湾神社祭で神輿をかつぐ人々が着ていた法被は、どんな青だったのか?
彼らは妥協せず、写しだされた生活のディテールについて、微に入り細を穿つように研究を重ねる。まるで「記憶のパズルを復元しているようだ」と王子碩は形容する。王佐栄は、まるで探偵のように、ひとつひとつのヒントをたどって核心に迫り、答えを導くという。こんな時、頼りになるのが各分野の友人たちだ。建築学者の凌宗魁には建材の年代を、民俗学の専門家・蔡亦竹には儀式の作法について教えを請うことができる。また交通・軍事・生活用品など各分野の専門家がいる。「100%完璧とは言えないけれど、自分たちの力が及ぶ限り間違った色は使いません。なぜなら20年、30年、50年後の人たちに影響を与えてしまうから。未来の人たちはその間違いに気づくことはできないでしょう」と王佐栄は言う。

歴史理解に影響を与えるため、彩色は慎重に行うべきであると、王佐栄は考証の重要性を強調する。
考証の方法とその根拠
王子碩は最初の1枚から現在に至るまで手作業を続けている。王佐栄もAI彩色に異議を唱えている。彼は鄧南光が東京丸の内で撮影した一枚の写真をとりあげた。新聞と雑誌の販売スタンドが写っていて、その後ろを一台の路面電車が通過している。日本の路面電車の車体は緑色だが、AIはこれを赤く塗ってしまう。なぜ赤なのか?興味を惹かれ考察を重ねた結果、AIの学習には大量の資料が必要だが、AIのソフトウェアとデータベースには東洋の文物に関する資料が不足している。そこでサンフランシスコの路面電車のデータを利用した可能性が高い。こうして生み出されたのが歴史的な誤解であり、AI彩色の未だ至らない部分でもある。
王佐栄はよく人から、どうやって本来の色を考証するのかと聞かれる。彼はいくつかの方法を確立していて、例えば、日本統治時代のカラー絵葉書を参考にする。しかし、これも手作業で彩色されているため、時には間違いがある。比較的、正確性が高い第二の方法として、米兵が戦後に撮影したカラー写真を参考にする。第三の方法として文献資料の中から資料を探して比較する。またシニア世代に直接取材をする方法もある。例えば鄧南光のレンズの先にはいつも息子・鄧世光の姿があった。その時の色は鄧世光に聞くのが最も正確である。最後は、実際に残されている品物を参考にする方法も正確性が高い。しかし、長い時間を経て既に物が見つからない場合は、非常に困難となる。
王佐栄はAI彩色がサンフランシスコの路面電車を参考にして、東京の路面電車を赤く塗り、簡単に歴史的誤解を生みだした例を挙げる。(出典:『彩絵鄧南光』)
全ては「愛」ゆえに
王子碩はパソコンを開いてどのように彩色するのか見せてくれた。フォトショップの消しゴムツールと各レイヤーのグラデーション調整機能を使いながら、少しずつ色を作り上げていく。方法は簡単だが、違和感なく、破綻なく、説得力を持たせるためには、練習が必要となる。彼は台中にある緑川の彩色写真をみせてくれた。川辺の柔らかな柳は、その葉一枚一枚が手作業で彩色されている。この域に達するには「愛があること」が最も重要であると王子碩は言う。
これまで数千枚の古写真を彩色してきた王子碩が最も達成感を感じたのは、既に90歳を超えた鄧世光が彼の彩色写真を見て「すばらしい!まるでみんなが生き返ったみたいだ」と言ってくれた時だった。王佐栄は彩色した写真を80歳代の方々に見せたところ、ある人はかつての青春を思い出し、表情が一変したという。「彩色写真はシニア世代の青春時代に捧げたいと思います。彼らが若いころ仕事に打ち込んでくれたからこそ、私たちの今があるのですから。」
王子碩は李火増が何気なく撮影した一枚の写真を見せてくれた。現在の建成円環あたりの風景で、そこにはスーツ、長衣、制服を着た人々、そして自転車に乗る人が見え、この時代の縮図であり社会の多様性がうかがえる。王佐栄は行商人の写真を二枚取り出した。一枚は身だしなみの良い店員が屋台で菜切り包丁を研いでいる。もう一枚は帽子をかぶって蝉の竹細工を売る行商人だ。帽子は文明の象徴で、人々が競って向上を目指したこの時代の精神が見てとれる。
フォトグラフは時代の物語、私たちがこれまで過ごしてきた日々を伝える。モノクロ写真がとらえた過去は台湾の物語であり、これらの彩色された古い写真はまさに「生き生き」と時代の物語を聞かせてくれる。
幼稚園の運動会。背景には現在の二二八和平公園内にある台湾博物館が見える。子供たちが参加しているのはスペイン語圏で「Piñata」と呼ばれる遊びで、吊るされたくす玉を球を投げて割るというルール。日本の習慣に従って、2組に分かれたチームは紅白に色分けした。(出典:『彩絵鄧南光』)
李火増がフレームに収めた建成町台北円公園(現在の建成円環)の麵屋台。手作業で彩色すると、右側に揚げた卵麺が積まれているのがはっきりとわかる。(出典:『彩絵李火増』・『看見李火増』)

王子碩の彩色方法は、まず各レイヤーに彩色してから、Photoshopの消しゴムツールを使って少しずつ色を削り出していく。

屋台販売は台湾の日常生活である。この屋台で最も特徴的なのは、現代の「水だし珈琲」のようなドリッパーが高いところに掛けてあること。右上には出来上がりの時間を知らせる木札が見える。

蝉の竹細工を売る行商人。(出典:『彩絵李火増』)

昔日の台湾鉄道淡水線、双連駅の風景。(出典:『彩絵李火増』)

日本統治時代の夜市での金魚すくいはシニア世代にとって共通の思い出。(出典:『彩絵鄧南光』)

かつて延平北路と南京西路の交差地点に位置していた、光食堂の太平町支店。(出典:『彩絵李火増』)