黄鴎波は台湾の風俗を色鮮やかに記録した。作品「家慶」には、祝い事などの際に供える伝統の菓子「紅亀粿」を作る様子が生き生きと描かれている。
人はそれを見る目がある限り、ある種の美しさを見ずには10フィートも動けないだろう。たとえ世界が不毛の砂漠でも、そこにまだ美しさはあるはずだ」アンドリュー・ルーミス『The Eye Of The Painter』
カメラが普及していなかった時代、芸術家の目は、風景や人々の暮らしをカメラのように画像として脳に写し、それを筆で表現した。嘉義生まれの芸術家・黄鴎波は、絵を描き、詩も書いた。生活からインスピレーションを得る作品は題材も多種多様で、文化や風俗、時事的な内容をキャンバスに結晶させた。生まれ育った土地への思いにあふれる彼の絵は、時代の記憶を留めている。
1920~1930年代の嘉義を振り返ると、1926年には陳澄波が「嘉義の町はづれ(嘉義街外)」で日本の帝展に入選。翌年には「台展(台湾美術展覧会)」が開催され、同じく嘉義生まれの画家・林玉山が「水牛」「大南門」で第1回台展に入選、第4回台展でも「蓮池」で受賞している。その後10年余りにわたり嘉義の画壇では、林東令、盧雲生、黄水文、張李徳和といった多くの画家が台展や府展(台湾総督府美術展)で入賞を重ねた。このような嘉義を、『台湾日日新報』が「画都」と称賛したほどだった。
1917年に嘉義に生まれた黄鴎波は、このような芸術文化の薫陶の中で育った。
一人の画家の誕生
祖父は科挙合格の「秀才」、父は儒学者という家に生まれた黄鴎波は、幼い頃から『四書』『三字経』『千家詩』などを学び、母からも台湾語の「対仔歌(対句を歌にしたもの)」を教えられ、詩の韻律などの文学的素養を身に付けた。家に来客があると幼い黄鴎波は詩をそらんじてみせ、賞賛を浴びたものだった。
阿里山の林業で栄えた嘉義では経済が文化の発展をも促し、町には詩社が多く、名士の家ではよく芸術家や文人の集まりが開かれていた。例えば、台南州協議会員であり、詩人として知られた頼雨若が開いた「壷仙花果園」は経書や詩を教える私塾のような場で、よく画家も招いて庭園でスケッチなどが行われた。林玉山の息子で、故宮博物院の元副院長である林柏亭は「日本統治時代の嘉義では詩人や画家の交流が盛んで、絵は水墨画だけでなく、日本画や写生画もよく描かれました」と言う。当時17~18歳だった黄鴎波も、壷仙花果園で林玉山、黄水文、盧雲生などの画家と知り合った。中でも林玉山とは縁が深く、二人はある日、黄鴎波の母が林玉山の遠い親戚に当たることを知って更に関係を深めた。こうした環境の中、自ずと黄鴎波は画家を目指すようになり、やがて林玉山の後を追うように、日本の川端画学校に留学する。
黄鴎波は絵画のほかに詩も創作するし、戯曲『秦少爺選妻』も書くなど多才だった。(上は荘坤儒撮影)
暮らしを描く
黄鴎波は日本で円山・四条派の画風を学んだ。指導は写生や墨の濃淡の変化を重んじ、素描の訓練も徹底して行われ、彼は日本画の揺るぎない基礎を身に付けた。川端画学校を卒業後も彼は東京に残り、雑誌社でグラフィックデザインの仕事をしていたが、やがて通訳官として中国に派遣される。異郷での生活や、苦労した流浪の経験は黄鴎波の目を開かせ、繊細な観察力を持つようになった。
林柏亭は、第3回台湾省全省美術展覧会(以下「省展」)に入選した黄鴎波の「南薫」についてこう語る。台湾人なら誰もがよく知るビンロウを描きながらも、忘れられがちなビンロウの花を主役に置いている。高い木の上で年に1度しか咲かないので、ちんまりと連なる白い花は見過ごされがちだが、開花時には山中に香りが漂うという。黄鴎波は、木の高みにあるビンロウの花を、カメラでズームインしたように前景に置いて焦点を合わせ、周りに葉やまがきを配置して白い花を浮き立たせている。「ほのかに香るような詩的情景」と林柏亭は形容する。
屏東大学視覚芸術学科美術名誉教授の黄冬富は昨年(2023年)12月に美術家伝記叢書『僕実・詩画・黄鴎波』を出版したばかりだ。彼は、黄鴎波の作品を、日本画、水墨画、西洋絵画を融合させ、開放的な態度で物事を捉えて内面化し、自分の画風にしているとし、「大自然から直接感じ取り、自分の技法を生み出しているんです」と語る。その水墨の技法は、ほかの名だたる画家のように華やかなものではないが、実直な観察を基に表現される作品はとても親しみやすい。
第8回省展で教育会賞を得た作品「家慶(家の祝い)」は、台湾で祝い事などで供えられる「紅亀粿(亀の形をした赤い菓子)」をモチーフにしている。画面では、竹製の腰掛けに座った老婦人が紅亀粿をバナナの葉に載せ、その葉を切って形を整えている。老婦人の前の竹ザルには、着色前の白い菓子の生地、染料、菓子型などが置かれ、傍らには小豆餡を入れた木桶や、大きなバナナの葉も見える。紅亀粿作りに使うものが逐一描かれ、台湾の風俗を濃く感じる作品だ。
黄鴎波の息子で、長流美術館の館長を務める黄承志が、さらに詳しくこの作品を説明してくれた。絵の老婦人は、実は黄承志の母方の祖母で、纏足の習慣のあった時代に育った人だった。小さく変形した足や、傍らの刺繍入りの履物、衣類の模様やしわ、髪飾りなども丁寧に再現されており、時代の雰囲気を醸し出している。
林玉山(上の写真右)と黄鴎波(上の写真左)は遠い親戚に当たり、生涯の友人だった。林玉山の息子・林柏亭(下の写真右)と黄承志(下の写真左)も親しい友人だ。(上は頼添雲提供、下は荘坤儒撮影)
劇のワンシーンさながらに
教師やグラフィックデザインの仕事もした黄鴎波は、画才だけでなく文才もあった。推挙されて彼が著名な詩社「瀛社」の代表を務めていたことを知る人は少ない。彼が長年にわたって書きためた詩を見ても、彼が書や詩に深い造詣を持っていたことがわかる。しかも劇の脚本も書いている。ユーモラスな台湾語劇『秦少爺選妻(秦若旦那の妻選び)』は彼による創作だ。その登場人物が歌う「四句聯(4句で成る韻文)」は、台湾語による押韻の魅力を発揮している。またこれがきっかけでラジオ放送のアナウンサーにもなっており、現代風に言えばまさに「スラッシュワーカー(複数の肩書や仕事を持つ人)」だ。
明るい性格の黄鴎波は、画家、詩人、教師、脚本家であり、そして「社会観察家」だった。彼の作品にはよく、世俗を戒めるような意味合いが感じられる。それは彼が知識階級としての社会的責任を感じていたためだろうと、黄冬富は言う。激動の時代に生まれながらも、常に社会に希望を持ち続け、積極的に社会に関わる。彼は絵画に幾千の言葉を託したのだ。
例えば、作品「今之孟母」は、屋台で果物や菓子を売る母親のそばに、伝統の股割れパンツをはいた子供がいる絵だ。題字には「夫為斯文誤,慎防子亦然。択居攤販市,教学売香煙(そもそも学問などは誤りで、子にはさせない方が良い。居を市場に構えれば、煙草を売ることを学ぶ)」と書かれている。黄鴎波は「孟母三遷」の故事を借り、かつて孟母は良い学習環境を子に与えようと繰り返し住まいを移したが、もはや学問では食べていけないので商売を学ばせるという、当時の社会の風潮を映し出した。
1949年に第4回省展で受賞した「地下銭荘」も、風俗を描きながら社会状況と呼応させた。絵に描かれるのは、纏足をした女性が、地下に眠る祖先や死者のための 「紙銭」を屋台に並べて売る風景だ。風俗を描きながら「地下銭荘(地下銀行)」とたとえることで、金融の混乱や物価の高騰で闇金融が横行した世相を皮肉っている。
ほかにも林柏亭は「まるで劇のひとこまのような作品もある」と、1956年の「勤守崗位(任務を尽くす)」を分析する。この年は珍しい4月の台風が被害をもたらした。黄鴎波は、電信局員が強風の中でも電信柱の上で懸命に修理に当たるプロ意識に感動し、彼らの姿をスケッチした。台風が去ったばかりで、雨は上がったものの、まだ強風の残る様子を、見上げる角度で描いた。捲れ上がる舞台の幕のように風に煽られた布が、労働者らの懸命な作業を感じさせる。「1枚の絵で、動きを表現している」と林柏亭は言う。
作品「迎親(嫁入り)」の前で、黄冬富はこう説明する。これは昔の台湾の嫁入り行列を描いた作品で、人夫が輿や道具を担いで坂を上っていく。前方の質素な輿は仲人用で、装飾の華美な方が新婦の座る輿だろう。黄冬富はこの絵を見ると、幼い頃によく聞いた閩南語歌曲「内山姑娘要出嫁(内山の娘の嫁入り)」を思い出すという。「深い山から嫁入りの輿が出る/太鼓や笛の音高らかに/内山の娘さんが/輿に乗って嫁入りするよ」という歌詞だ。
日本画の継承を願い
生涯、日本画を描き続けた黄鴎波は、台湾における日本画の発展にも尽力した。戦後に政権が代わると、日本画は「国画」としての地位を失い、画家の活躍の場も減って、省展からも徐々に締め出されていった。真っ直ぐな性格の黄鴎波は、正面から異を唱える道を選んだ。主催部門の大物に幾度も手紙を書き、日本画が受けている不平等な待遇を訴えたのだ。だが1972年に省展は日本画の部を廃止してしまった。そこで林玉山、陳進、陳慧坤、林之助、黄鴎波、許深洲、蔡草如など、著名な日本画家たちは「長流画会」を結成し、会員作品展を毎年開催することにした。黄鴎波は総幹事を務めている。やがて1980年に省展が日本画の部を回復させると、長流画会は任務を終えて解散。こうして台湾の日本画は発展を続けた。
黄鴎波は後進の育成にも努めた。著名な日本画家の劉耕谷や汪汝同は彼の学生だ。また、17歳から黄鴎波に絵を学んだ頼添雲は、黄鴎波が亡くなるまで40年近く、最も長く師のそばにいた学生だ。頼添雲は師のことを思うと感謝の念に堪えない。「先生の絵は、技術をひけらかすものではなく、絵に込める意味を大切にしました」と言う。黄鴎波は学生に絵だけでなく詩作を教えたり、漢学を共に学んだりして、内面を充実させるよう励ました。内面的に充実していれば、山水を描いても含蓄のある絵になると。
頼添雲は、黄鴎波が林玉山や陳進らと「緑水画会」を設立した際、進んで総幹事を引き受けて会の運営に協力した。頼は、自分の世代の日本画家を「へその緒」にたとえる。黄鴎波ら先輩の栄養を吸収し、それを継承させていくからだ。緑水画会は現在も毎年作品を募集し、玉山賞、陳進賞、黄鴎波賞といった、経験豊富な画家の名を冠した賞を設けている。近年は学校などでも展覧や授業を行うことで、日本画の種子をまき続ける。
先人たちの時代は遠くなり、そこに関わることはもはやできない。だが黄鴎波の作品から、我々は色とりどりの台湾を見ることができる。
頼添雲(左)は黄鴎波(右)との40年近い師弟関係に感謝の念を抱いており、日本画や詩への黄鴎波の情熱を継承していこうと決意している。(頼添雲提供)
黄鴎波(前列左から2人目)、陳進(前列左から5人目)、林玉山(前列右から4人目)などの当時の画家は親しい仲で、ともに展覧会に出品したり、画会を作るなどして頻繁に交流した。(頼添雲提供)
1960年代に妻と娘を伴って郊外でスケッチする黄鴎波。
スケッチに熟練した黄鴎波は、大自然を観察し、感じ取ることで、自らの技法を生み出した。
黄鴎波の省展入選作「南薫」。ビンロウにズームインした構図で、開花時の香りが漂うような絵だ。
黄鴎波の絵には別の意味があることが多い。「地下銭荘」は、紙銭を売る屋台を描きながら、地下銭荘(違法な高利貸し)の横行する社会状況を皮肉った。
昔の台湾の嫁入り行列を生き生きと描いた「迎親」。
嘉義生まれの黄鴎波は絵で阿里山の林業の風景を記録した。この作品は、労働者が運搬車を懸命に引く光景を描いた「木馬行空」。
電信局員の真剣な表情や姿、強風に煽られふくらむ布など、「勤守崗位」はまるで劇のワンシーンのようだ。