生涯文学を志す
1914年に宜蘭県頭城に生まれた李栄春は李家の4番目の子供で、父を早くに亡くし、母親の黄針が女手一つで一家を支え子供たちを育てた。母の教えの下、李家の兄弟は仲睦まじく、和気あいあいとした家族だった。頭城の美しい大自然の中で李栄春は鋭敏な観察力と豊かな感受性を身につけた。十代で文学に触れて夢中になり、その道を志すきっかけとなった。
1937年、24歳の時に李栄春は「台湾農業義勇団」に加わり、日本政府に従って中国大陸へ渡る。心の中では、祖国の抗日戦争の列に加わりたいという思いがあったが、台湾は日本の植民地であり、その願いがかなうことはなかった。中国大陸での9年間は李栄春の生涯に深い影響をあたえた。その頃に魯迅の作品を読み、生き生きとした叙述に心を動かされた。その経験が、後の作風に影響をおよぼしているのかも知れない。
李栄春は中国大陸にいた頃から執筆を開始した。戦火に蹂躙される庶民の姿を目の当たりにした彼は、この期間の見聞をもとに、60万字におよぶ最初の作品『祖国と同胞』を著した。日本統治時代の公学校を卒業した李栄春だが、私塾で中国語を学んだことがあり、独学で英語も学んだため、三カ国語に触れたことで視野と語彙も広かった。日本による統治が終わったばかりの戦後の台湾では、台湾出身作家の多くが日本語で執筆する中、李栄春は中国語で創作できる数少ない作家の一人だった。自ら中国大陸の戦火を経験し、中国語で著した『祖国と同胞』は、台湾において中国大陸での抗日戦争の歴史を伝える数少ない文学作品と言える。この作品が完成した1952年、李栄春はまだ39歳で、翌年に中華文芸賞金委員会から賞金を得ることとなった。そして小説の3分の1を出版したのだが、売れ行きは悪く、唯一出版された李栄春のこの作品は赤字となってしまった。
李栄春は1946年に台湾に戻ると末の弟の家に身を寄せ、甥の李鏡明を実の子のように可愛がった。その李鏡明の記憶によると、李栄春は生涯独身を貫くと決めており、毎日早くに起床するとすぐに執筆にとりかかり、午後には草取りやレンガ運びといった臨時雇いの仕事をして、わずかな糧を得、それを食費と原稿用紙やインク代に充てていた。付き合いなどはせず、生涯変わることなく大部分の時間を執筆に注いだ。
和風家屋に設けられた李栄春文学館は頭城の静かな通りにたたずみ、人々を文学の世界へといざなう。(荘坤儒撮影)