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葬列をにぎやかに導く

葬列をにぎやかに導く

―― 台湾の葬儀に見るマーチングバンド

文・陳群芳  写真・林格立 翻訳・山口 雪菜

3月 2025

草屯大衆女子楽団は、台湾各地から招かれ、喪主の求めに応じて故人の最後をにぎやかに見送る。

葬儀という人生最後の儀式を見ると、世界各地にさまざまな伝統や風習がある。アフリカのガーナの葬儀はまるでカーニバルのようで、人々は赤や黒の服装で参列し、パフォーマンスグループを招く。YouTubeにはダンサーたちが柩を担いで踊る影像がアップされており、この笑顔に満ちた葬儀の様子を世界中の多くの人が視聴している。台湾の葬儀の場では、女性たちから成るマーチングバンド「西楽隊」が軽やかなメロディを奏でながらリズミカルにステップを踏んで葬列を導く。彼女たちは台湾らしい街頭パフォーマンスで死者を悼み、残された人々の心を慰めるのである。

台湾の田舎町のある民家の前で、五月天(メイデイ)の「離開地球表面」や張惠妹(アーメイ)の「三天三夜」などのリズミカルな音楽が演奏されている。ドラムやサクソフォンの音が響き、指揮者はホイッスルを吹きながら指揮杖を力強く振る。こうして、色鮮やかな制服を着た南投の草屯大衆女子楽団が葬儀の開始を告げる。

農業が中心だった時代、ご近所同士の関係は緊密で、農繁期には互いに助け合い、弔事があれば自ら手伝いに出かけた。喪主とその家族は、大切な人を失って悲しみにくれており、すぐには葬儀の手配などに手を付けられないため、近所の人々が事務的な手続きを手伝ったり、遠方から来た弔問客をもてなしたりした。

葬儀には多くの親戚や友人たちが手伝いに駆け付ける。早朝から食事を用意し、手伝いに来てくれた人々にまず腹ごしらえをしてもらう。台湾人らしい優しさだ。

葬儀の陣頭は愛情表現

伝統的な葬儀では、出棺の際に遺族や友人たちが陣頭(祭りのパレードや神の巡行の際に練り歩く歌舞や演武の団体)を招いてパフォーマンスを披露してもらうという風習がある。南華大学生死学科の楊士賢・助教によると、葬儀での陣頭の数は喪主の家の財力や人脈を反映するという。人々が葬儀に陣頭を招くのは、その儀式的なパフォーマンスをもって故人が無事に冥土へ向かえるようにするためだ。もう一つの目的は、陣頭の娯楽的な要素によって悲しい雰囲気をやわらげ、遺族の気持ちを慰めることである。第三の目的は、葬列の規模を大きくすることで、故人の身分の高さを示すというものである。楊士賢さんによると、遺族が葬儀に陣頭を招くのは、故人への思いやりであり、台湾の人情の表現であって、迷信ではないという。

しかし、時代が進むにつれて生活のリズムは速くなり、斎場や火葬場なども整備され、社会的には簡素でシンプルな儀式が求められるようになった。特に都市部では大規模な陣頭を招くこと少なくなり、こうした陣頭自体が衰退しつつある。しかし、伝統的な考えでは、喪主の財力に関わらず、出棺時には少なくとも一つは陣頭を招いて葬列を導いてもらい、沿道に音を響かせることで村の住民に葬列が通ることを知らせるべきだとされている。そこで、陣頭らしい見栄えと楽器演奏の役割を兼ね備えた西楽隊(マーチングバンド)が現代の伝統的な葬儀において特別な意味を持つようになった。 

草屯大衆女子楽団を率いる許雅慈さんは、楽団の編成を充実させるだけでなく、さまざまな出演の場に合わせて複数の制服を作り、楽団をさらに発展させようとしている。

葬礼会場におけるパフォーマンス

この葬礼のマーチングバンドのことを知るために、私たちは草屯大衆女子楽隊を訪ね、楽隊メンバーとともに田舎の葬儀会場を訪ねた。メンバーが車を降りると、すぐに温かい人情を感じることとなる。喪主の近所の人々が早くから簡単なランチボックスと飲み物を用意していて、遠くから来てくれた楽隊のメンバーに、まずは腹ごしらえをしてもらおうと渡してくれるのだ。

準備が整い、時刻になると、草屯大衆女子楽団は指揮者を先頭に、ドラム、サクソフォン、アコーディオンなどの奏者が足並みを揃えて会場に入っていく。軽やかなステップで隊列を変えながらリズミカルなメロディが次々と奏でられると、参列者も思わず音楽に聞き入ってパフォーマンスを観賞し、葬儀の会場も生気を取り戻す。入場が終わると、家族と参列者による儀式が行なわれ、後ろに控えていた楽隊は心をいやすやさしい音楽を演奏して雰囲気を醸し出す。

葬儀が終わると、楽隊が再び会場に入り、柩を囲んで演奏し、続いて出棺の葬列のために道を開く。天気がどんなに悪かろうと、目的地がどれほど遠かろうと、大衆女子楽団は次々と楽曲を演奏しながら葬列を先導し、故人の最後に寄り添うのである。

華やかな制服を着た彼女たちだが、常に練習に励んでいる。全国各地を駆け回る楽団の本拠地は南投県草屯にあるが、多くのメンバーは台中や彰化など他の地域に住んでいる。大衆女子楽団の団長を務める許雅慈さんによると、この楽団に加わるための第一の条件は時間を厳守できることだと言う。葬儀の時間は厳格に決められており、決して遅れることがあってはならないからだ。時には一日に複数の葬儀を掛け持つこともある。そんな時は、靴擦れができたり、足にマメができたりすることも多い。それでもメンバーたちは、故人と遺族の役に立つことができ、儀式が円満に終了すれば、やってよかったと思うのである。

このように葬礼の陣頭を務めるマーチングバンド「西楽隊」は、台湾では「西索米(シソミ)」とも呼ばれる。昔の葬儀で演奏された葬送曲は、七音音階の「シ」「ソ」「ミ」で始まるものが多く、人々は「葬礼」という言葉を使うことを忌み嫌って「西索米(シソミ)」と呼んだのである。かつては、「死」を忌み嫌う考えがあり、そのため西索米楽団は縁起が悪いと言われたり、西索米楽団の制服を着ていると食堂への入店を断られることもあったそうだ。

しかし、現在ではこうしたイメージも払拭されている。学者や専門家が文化芸術の角度からこうした楽団の意義を説明することで、多くの人の意識も変わってきた。草屯大衆女子楽団の場合、誕生日のお祝いでの演奏を依頼されたこともある。誕生日の主役が何も知らない状況で、突然この楽団が現われ、主役を取り囲んで演奏すると、誕生日パーティはますます楽しい雰囲気に包まれた。この映像がネットで公開されると大きな反響があった。葬儀での陣頭がしだいに衰退していく中、大衆女子楽団は1ヶ月に少なくとも30回余りの依頼を受けており、一日に4つの会場を掛け持ちすることもある。

葬儀会場に入る時に哀悼の意を表す草屯大衆女子楽団のメンバーたち。

西楽隊の起源

現在の西楽隊の多くは女子楽団だが、かつては男性を中心とするグループが主流だった。楊士賢さんによると、こうしたマーチングバンドの起源については諸説があるそうだ。文献の記録によれば、日本統治時代に鶏籠(基隆)の中元祭で西楽隊が登場しているが、これが海外から招かれた楽隊なのか、台湾人による団体なのかは定かではない。別の説では、日本統治時代に音楽好きの仲間が集まって、先生について西洋の楽器演奏を学び、松山福安郡音楽団という名で全国的な音楽コンクールで入選し、廟の祭りや地方の行事でも演奏に招かれていたということだ。もう一つの最も広く知られている説では、彰化県の羅厝天主堂でマーチングバンドが結成され、このバンドが初めて葬礼での演奏を行なったというものだ。

羅厝天主堂牧霊福伝委員会執行長の邱福忠さんによると、かつて台湾に渡ってきたカトリックの宣教師は、それぞれに医学や音楽、芸術などの得意分野を持っていた。これらの専門分野の知識が宣教師によって台湾に伝えられたのである。羅厝天主堂本堂のJoseph Arregui神父はトランペットが吹けたので、1930年に同教会に初代の楽団を結成した。神父が信者たちに管楽器の演奏を教え、教会の行事や祭日、あるいは信者の葬儀などで演奏していたという。1937年には、Constantino Mentero Alvarez神父が本堂を引き継ぎ、第二代の楽隊のために演奏家を招いて練習を重ねた。そして、慶弔に合わせて二つの制服を用意し、羅厝天主堂楽隊は規模を確立していった。続いてPatrick Donnelly神父が来訪すると、第三代の楽団は台湾の一般の葬礼にも参加するようになり、これによって楽隊メンバーは収入も得られるようになった。こうして葬儀における楽隊陣頭の存在が広く知られるようになったのである。

その後、この楽隊は解散したが、メンバーたちは他のバンドに加わって演奏を続けた。かつて羅厝天主堂の第三代楽団メンバーだった黄和命さんは「他の楽団で演奏者が足りないと聞くと、私たちは声を掛け合って隣町の楽団の手伝いに行ったものです。教会の行事でも、葬礼でも、必要とされれば行きましたよ」と言う。現在すでに90歳と高齢の黄さんは、今はもうトロンボーンを吹けないが、話をするうちに興が乗って楽器を取り出し、音階を吹いてくれた。楽器を手に目を輝かせる様子から、楽団での良い思い出がたくさんあることがうかがえる。

楊士賢さんは、葬儀に陣頭を招くのは故人に対する家族の思いやりであり、人情味のある風習だと語る。

女子楽団の台頭

松山福安郡も羅厝天主堂も、当時の楽団のメンバーはほとんどが男性だった。楊士賢さんによると、かつてこれらの楽団のメンバーはアマチュアとしてやっており、ビジネスとしての組織的な運営はなされていなかったという。一方、時間的に余裕のある女性たちの方がプロとしてやっていく条件を備えていた。こうした要因から葬礼の楽団に少しずつ女性が加わるようになると、彰化県北斗の演奏家・陳丁財さんがこれに目をつけ、北斗女子管楽隊を結成した。これは台湾初の一定規模を備えた女子楽隊であり、これが大きな流れを起こしていった。

雲林県の秀娟女子西楽隊の団長・郭淑娟さんは長年にわたって葬儀の仕事に従事していたが、31歳の時に自ら楽団を結成することを決めた。友人たちに声をかけ、その娘や嫁も集めてグループを作った。楽隊は酷暑や雨の中でも演奏しなければならないので楽ではないが、地方ではもともと働く場が少ない。楽隊は時間的な拘束が少ないうえに収入も得られ、家事とも両立できる。時には、子供の世話をしてくれる人がいないからと連れてくる人もいるが、メンバーの女性たちが交代で面倒を見る。こうして育った子供たちが大きくなって楽隊に加わることも少なくない。ここからもわかるとおり、メンバー同士は仲が良く、息の合った演奏やパフォーマンスができる。

楽団や陣頭の盛衰を見てきた郭淑娟さんは、葬礼の音楽演奏に流行歌を取り入れてきた。伍佰(ウーバイ)の「你是我的花朵」や五月天の「尬車」など、その時々に流行している楽曲を演奏することで、葬礼の楽団に対するイメージを大きく変えてきた。これによって、廟の祭りや誕生パーティ、プロポーズや忘年会など、さまざまなシーンでの演奏依頼が入るようになり、さらにはテレビのバラエティ番組に出演したり、海外メディアの取材を受けるまでになった。「さまざまな道を開いて、若い世代に楽隊の将来性を感じてもらいたいのです。機会があれば海外でもパフォーマンスができればと思います」と郭淑娟さんは期待に胸をふくらませる。

草屯大衆女子楽団も秀娟女子西楽隊も、他の女子西楽隊も、誰もが努力を重ねてあらゆる演奏に真剣に取り組んでいる。人生の終わりの儀式に寄り添い、また伝統の陣頭に新しい道を開こうとしている。

かつて西楽隊には男性も女性もいたが、近年は女性だけの楽団が主流になっている。(草屯大衆女子楽団提供)

喪主によっては、葬儀の後、働いてくれた人々のためにご馳走を用意して労うこともある。

かつて羅厝天主堂の第三代楽隊のメンバーだった黄和命さん。楽器演奏の話になると目を輝かせる。

彰化の羅厝天主堂は、第一代の楽隊が使っていた楽器を陳列している。

羅厝天主堂は台湾の「西楽隊」発祥の地の一つである。

秀娟女子西楽隊は誕生パーティにも招かれ、会場を大いに盛り上げる。(秀娟女子西楽隊提供)

郭淑娟さん(後列中央)は、若い世代が西楽隊に将来性を見出せるよう、秀娟女子西楽隊の活躍の場を積極的に広げており、いつかは海外でもパフォーマンスをしたいと考えている。