楊牧(1940-2020)
花蓮出身の詩人。本名は王靖献。中学時代から葉珊の名で作品を発表し始め、1972年に筆名を楊牧と改める。出版された詩集や散文集は50冊を超え、その作品は英語、ドイツ語、フランス語、オランダ語、スウェーデン語など多数の言語に翻訳される。世界的に、台湾文学を理解する重要な指標の一つとされている。
詩人、エッセイスト、翻訳家、評論家、また編者でもあり、生涯にわたり数々の賞に輝いた。ノーベル文学賞選考委員であるニルス・ヨーラン・ダーヴィド・マルムクヴィスト氏は、楊牧をノーベル賞を受賞する可能性が最も高い華人詩人と評している。
(陳建仲提供)
「ただ、すべての波が花蓮から始まることを知るのみ」
――楊牧〈瓶中稿〉
高校の国語の教科書には、楊牧の散文〈壮遊〉〈十一月的白芒花〉が掲載されていて、しばしば入学試験にも出たものだ。楊牧の詩は多くの学生たちの揺れ動く心に寄り添ってきた。和碩(ペガトロン)の童子賢董事長が資金を出して台湾大学社会科学部の建物を修復した時は、自らの名を冠するのではなく、学生たちが知識だけでなく、智慧と思いやりを持てるよう楊牧の詩〈学院之樹〉を廊下の突き当りに刻んだ。
「博学の詩人」とされる楊牧は、東海大学外国文学科を卒業後、米国に留学、その後30余年にわたり米国で教鞭を執ってきた。55歳の時に帰国し、東華大学人文社会学部を創設。太平洋に面した花蓮とシアトルで人生の半分ずつを過ごした。1974年、シアトルで西の水平線に沈む夕日を見て、その彼方にある故郷に思いをはせ、〈瓶中稿〉に「ただ、すべての波が花蓮から始まることを知るのみ」と記した。花蓮は楊牧の文学における重要なメタファーであり、その詩から花蓮の風景が浮かび上がる。
楊牧書房には、直筆の原稿やタイプライター、作品、蔵書などが展示されている。
故郷の養分
香港の作家・西西は、文学作品や映画を通して台湾を知ることができるが、真に花蓮を知るには楊牧の詩と散文を読むべきだと述べている。「楊牧は花蓮が誇る人物に違いありません」
実際、楊牧は自ら「花蓮は私の秘密兵器」だと語っている。東華大学楊牧書房を主宰する許又方教授もこう話す。「楊牧が詩人となった、その教育と養分は花蓮で得たものですから、彼の心の中には口にはできない深い思いがあるはずです。さらに武器には攻撃性と防御性があり、楊牧の詩の防御と進撃はいずれも花蓮なのです」
許又方は、楊牧を読む場合、奇莱前後書から入るのがよいとアドバイスする。特に『奇莱前書』には花蓮への思いと記憶があふれていて、自伝的な散文と言える。
楊牧は花蓮の地名を冠する詩を多数書いている。楊牧の愛弟子であり、東華大学創作および英語文学研究所を創設した曾珍珍所長は、これらは台湾の歴史や地理に対する自らの関心を形にしたものだろうと語る。
ここでフォーク歌手の楊弦が作曲し、楊牧が作詞した楽曲〈帯你回花蓮(君を花蓮へ連れて帰ろう)から、楊牧文学の花蓮の旅を始めよう。
田畑のある谷へ一緒に滑降しよう
ここは私の故郷
……
地形は純白の雪の線を最高位とし
一月の平均気温は摂氏十六度
七月の平均は二十八度
年間雨量は三千ミリ
冬は北東の風が吹き
夏は南西の風が吹く
物産は豊かとはいえないが
自給自足はできる
田畑のある谷へ一緒に滑降し
創生の神話を目撃しよう。
働き
温和な土地を切り開こう。
……
収穫の谷へ一緒に滑降しよう
ここは私たちの故郷
楊牧〈君を花蓮へ連れて帰ろう〉(1975)
東華大学図書館内の楊牧書房は一般に公開されている。
文学の旅の起点:太魯閣峡谷
こうして俯瞰する 山河が凝集した因縁
浮雲は飛散した衣、泉水は滑り落ちて流れとなり
太陽は薄寒を通して君の屈んだ姿を照らす
しばしば落ち着かぬ、断崖の輝く紋様
盤石の色、水分に満ちた豊かな緑を通し
教えてくれる。いかに長旅に耐え
抵抗と排斥を乗り越え
こうしてあなたに近づくかを
楊牧〈俯視-立霧渓一九八三〉
曾珍珍によると〈俯視〉は楊牧が二度目の帰国をして台湾大学で教鞭を執っていた時に立霧渓を訪れて書いたものだ。「詩中の立霧渓の女神は、詩神ミューズの化身なのです」と言う。
同じ花蓮出身の詩人、陳義芝は〈楊牧詩中的花蓮〉の中で、久しぶりに故郷に帰った楊牧はこのような見方をすることで、故郷との間に横たわる距離を縮めようとしたと述べている。
かつて楊牧文学センターで研究主任を務め、今は台湾師範大学文学部副学部長を務める須文蔚はこう指摘する。「これは、中年になった楊牧が海外から帰国し、故郷の大地のために打ち出した一つの創生の神話でしょう。この集落やエスニックに属する最も美しい山水への欲望に満ちた雄々しい詩です」。〈帯你回花蓮〉の詩にある「田畑のある谷へ一緒に滑降し、創生の神話を目撃しよう」という創生の神話が〈俯視〉の中にも出てくると指摘する。
太魯閣峡谷の燕子口には台湾で最も古い大理石があり、その峡谷と青く澄んだ水に対する「俯視」の視点は、この素晴らしい景観の理解に新たな視野をもたらす。
曾珍珍は、楊牧の詩の生命を育んだのは花蓮の海だと考えている。
文学の旅二:七星潭
潮の声が覆う
時間の色
そのでたらめな組み合わせに背を向ける
些か細微な、山と雲の影が
重なり合う層――私は額を
大海に向け、君が語る
説明のできない記憶の幻想を聴く。
楊牧〈七星潭〉(1996)
美しい弧を描いた湾を持つ七星潭は、断層が形成した海峡で、玉砂利を踏みながら波打ち際を歩くことができる。楊牧の〈七星潭〉は、この景観に対する深い思いを表している。
この詩を書いたのは楊牧56歳の時で、『時光命題』に収録されている。須文蔚によると楊牧は七星潭が好きで、ここで波音を聞きながら瞑想したり、船の行き来や日の出、日没を眺めていたという。「山の形状と雲の影は変わらず/やや遠い層が重なる」というのは印象派の絵画のようだ。
《奇莱前書》には、楊牧の花蓮への思いや記憶が記載されている。
文学の旅三:松園別館
私は声なき川のように這い、蛇行し、
常緑の上にかかる繊細な糸を数える
喬木の姿で、夜半に気ままなホタルに包囲され
高みから飛び込めば、濃厚で完美なクリームが
神経の末梢に触れ感じる、鋭敏なこと
この上ない。見よ、草地に散る露のしずくを
楊牧〈松園〉(1996)
花蓮中学出身の楊牧は、通学時に市内と美崙の間を行き来していた。その坂道沿いに「松園別館」がある。
「松園別館」の前身は花蓮港陸軍兵事部で、花蓮港と太平洋の船舶の出入りを見下ろせる位置にある。日本統治時代には1階は募兵事務所で、2階は将校の住まいだった。神風特攻隊員はここで天皇から賜った「御前酒」をいただき、出陣したと言われている。
楊牧の「松園」は第二次世界大戦における特攻隊員の最後の一晩を描いている。須文蔚は、楊牧の詩を読む時には使われている典故に注意する必要があると指摘する。「松園」を読む場合は、『詩経』鄭風の「野有蔓草」にある「零露溥兮」を典拠としていることを知らなければ、自然を描いた詩ととらえてしまうだろう。分かっている人が読めば、太平洋戦争の末期、兵士たちは松園で女性と一晩の温もりを通わせ、その情愛の秘密を詩に込め、日が昇ると残酷な海上の戦地へと出ていく運命にあったことを描いていることがわかるのである。
毎年、「太平洋国際詩歌フェスティバル」が松園で行なわれるが、松園別館館長の羅曼玲によると、しばしば招かれて参加していた楊牧場は穏やかな人がらで、いつもハイネケンビールを注文していたという。
「松園別館」は日本統治時代には花蓮港陸軍兵事部だった。
文学の旅四:楊牧旧宅
花蓮市を訪れたら、光復街57号の「旧書舗子」を訪ねてみたい。ここはかつての節約街8号、楊牧の父親である楊水盛が経営していた東益印刷所の跡地で、楊牧の最初の詩集『水之湄』もここで印刷された。ここは本を愛する花蓮の人々にとっては大切な場所なのである。
花蓮中学は、楊牧の文学の啓蒙の場であり、彼にとって「最も美しい学校」だった。須文蔚は、「奇莱前書」に手がかりを得て、静かな路地裏にある花蓮中学の宿舎や、郭子究旧宅など日本時代の建築群を訪れ、当時の人文風土に触れるのもよいだろうと提案する。
楊牧は東華大学文学部2階の渡り廊下を歩くのが好きだった。
文学の旅五:沙婆礑渓
星明りの下、トカゲが息をする
川の流れはゆっくりと上昇し、まもなく
その硬く冷たい前足を埋めんとし、後足は
シリウスの余温の中
尾も濡れていき、ただ
定位の長い舌の先端を残すのみ。鬼火のような
開けの明星を通して憂鬱に軽く震え
我らの夢の中で光を放つ
楊牧〈沙婆礑〉(2003)
楊牧は、子供の頃に自転車で沙婆礑まで行き、足を濡らしながら川辺を歩くのが夏の日に涼を取る最良の方法だと話したことがある。花蓮の人々にとっての秘境である沙婆礑を訪れると、中央山脈に囲まれた緑を感じられる。
須文蔚は、楊牧のこの詩はサキザヤ族が虐殺された歴史とアミ族の風習とを複雑かつ深く表現し、記録されなかった歴史を詩を通して残していると指摘する。
文学の旅六:奇莱山、木瓜渓大橋
花蓮から遠くを望むと木瓜山が見える。奇莱山が見たければ、天気の良い日に台九線を南へ向かい、木瓜渓大橋に上ればよい。
須文蔚は「時光命題」を引用し、本来は志を抱いて香港科技大学での文学部創設に関わるつもりだったのが、挫折して台湾に戻ってきた時の心情を書いたものだと言う。知識人が公衆の事務に携わることでさまざまな批判や圧力にさらされることがあるが、奇莱山や木瓜山の壮大で堅固な姿を見ることで、詩人の揺れ動く心は安定するのである。
山容の縦横はかつて変わらず、常に
偉大な静けさで、私のゆらゆらと
揺れ動く心をかき乱す。波のような
こだまが聞こえ、こうして記憶に寄りかかり
無限の安らぎと同量の後悔に座す時、振り仰ぎ
永劫を見る
楊牧〈仰望――木瓜山一九九五〉
楊牧の詩〈娑婆礑〉には、シャーマンやムササビ、ヤマネコなどが描かれており、訪れた人々は、この土地の原始の風景を想像することができる。
文学の旅の終点:東華大学楊牧書房
アメリカで30年にわたって教鞭を執ってきた楊牧は、1995年に台湾へ戻り、東華大学での人文社会学部創設に協力し、さらに華文創作研究所(MFA degree)を創設した。全国で初めて、著名な作家を大学に招いて住んでもらうライター・イン・レジデンス制度を導入し、瘂弦や黄春明などの作家を招き、学生の間に文学創作ブームを巻き起こした。
文学部2階の渡り廊下を通って、清潔でシンプルな学部長室へ行くのが、楊牧のお気に入りのルートだった。ここを通る人は少なく、その光景は教師や学生の間で「東華の風景」と呼ばれていたと許又方は言う。楊牧の〈兎-七月廿日東華大学所見〉という詩を読むと、楊牧が東華の三宝とされるキャンパスの風景、野生のウサギやキジを描いていることがわかる。
もう一人、楊牧の熱烈なファンである和碩(ペガトロングループ)の童子賢董事長は同じく花蓮の出身で、若い頃から楊牧の作品を愛読し、台北工専の学生だった時には『台北工専青年』誌の編集を担当していた。この文学青年出身の企業家は、ある講演で楊牧の作品〈花蓮〉を暗唱して声を詰まらせた。楊牧の詩の多くを暗唱できる童子賢は、楊牧は自身の人生において重要な詩人で、多くの困難を乗り越える力になったと語る。
東華大学に足を運んだら図書館にある楊牧書房を訪れるといいだろう。公開されている公共空間には楊牧の直筆の原稿や作品、蔵書、タイプライターのほかに、すでに絶版となった最初の詩集『水之湄』も展示されている。
楊牧は台湾で晩年を迎えた。16歳から76歳まで詩や文章を書き続け、「楊牧現象」を巻き起こし、多くの作家にとって超えることのできない目標となった。研究者にとっても、楊牧は探求し尽くすことのないテーマである。文学の旅を通して、私たちも再び楊牧の作品に触れてみようではないか。
『山風海雨』によると、楊牧は3~4歳の頃に花蓮市南京街91号へ引っ越した。この古い家屋の家主は幾度も変わり、今は扉は閉ざされている。
光復街57号にある「旧書舗子」は、本を愛する花蓮の人々にとって重要な場所である。
楊牧は太魯閣峡谷を訪れ、〈俯視-立霧渓一九八三〉を書いた。
すでに絶版となった最初の詩集《水之湄》。
木瓜渓の谷の方向を望めば、奇莱北峰を目にすることができる。(崔祖錫撮影)