ヘビ毒研究は、台湾という風土に育った「科学の大樹」だ。(荘坤儒撮影)
過去100年を振り返ると、杜聡明、李振源、張伝炯など多くの科学者の努力で台湾のヘビ毒研究は世界的に知られるようになり、基礎科学の分野におけるモデルを形作った。彼らが植えた「科学の樹」は、後継者たちの手によって「大樹」に育ち、GMP(医薬品の製造管理及び品質管理の基準)の高い基準を満たす抗ヘビ毒血清製造工場が創設され、年間約200万人いるという毒ヘビ咬傷患者を救うため準備が整えられている。
衛生福利部疾病管制署(以下、疾管署)の統計によると、台湾では毎年、約1000人が毒ヘビに咬まれている。主にタイワンアオハブ、タイワンハブ、アマガサヘビ、タイワンコブラ、ヒャッポダ、ラッセルクサリヘビの六大毒ヘビによる被害だが、咬まれた人は全国各地の医療施設に行って、疾管署と国立衛生研究院(以下、国衛院)が共同で生産した抗ヘビ毒血清を注射してもらえば、ヘビ毒が中和されて毒による症状を抑えることができる。
斑紋がはっきりわかる鮮明な図鑑と比べ、救急外来に持ち込まれるヘビの画像は暗くてぼやけていることが多い。(荘坤儒撮影)
救急医を助ける市民科学
救急外来では咬みついた毒ヘビの特徴が医師の診断の最初の根拠となる。けれども実際にヘビの種類を特定するのはかなり難しい。ラッセルクサリヘビ、ヒャッポダ、タイワンハブはいずれも大きな斑紋が特徴で違いは小さい。
台北栄民病院の産業医学及び臨床毒物部医師の鄭凱文によると、台湾の救急科専門医は全員、台湾の六大毒ヘビについて知識があり、ほとんどの毒ヘビによる咬傷症例に対応できるが、蛇の種類の断定が難しい場合や、患者に非典型的な症状が現れた場合、担当医師は台北栄民病院の毒物相談センターに電話をするそうだ。
24時間対応する毒物相談センターのスタッフの1人である薬剤師の陳香齢によれば、同センターでは、救急医から提供された咬傷の推定時刻、傷の状態、臨床検査値などの情報に対し、治療方法のアドバイスをするそうだ。最初に見た時点で六大毒ヘビ以外のヘビによる咬傷など、稀なケースだと判断された場合には鄭凱文を含む他の医師とも協議して判断する。
政府の啓発運動とスマホの普及により、近年、自分を咬んだヘビの写真を撮る人が増えているが、「夜遅くや夕方に咬まれることが多いので、撮ったといっても、いい画像ではないことが多いんです」と陳香齢は言う。。
鄭凱文は一例として、最近あった阿里山のタイワンハブに咬まれた人の事例を挙げた。その患者は咄嗟に写真を撮ったが、画像は暗く不完全で、図鑑に掲載されている鮮明で完全なヘビの写真とは大きく異なり、長年にわたり毒物相談センターでヘビ種の特定を助けてきた医師たちにとっても、判断は非常に難しかった。
そこで昨年(2023年)同センターに加入した彰化秀伝病院医師の陳光庭の提案で、鄭凱文と陳香齢は、農業部生物多様性研究所の准研究員であり、「台湾動物ロードキル観察ネットワーク」(道路とそれに付属する側溝、擁壁、照明などで死亡した野生動物を調査することで、動物保護や交通安全をはかるため、農業部生物多様性研究所が立ち上げたプロジェクト)の創設者でもある林徳恩とともに、咬傷患者が救急外来に運び込まれることが多い陸生ヘビの種類を特定するための識別訓練用データベース作成の可能性を探った。
構築と最適化に数か月かかったが、林徳恩によって既存の識別データベースの中から爬虫類や哺乳類などヘビ類以外のデータを取り除く作業が進められ、医療従事者がヘビ種を識別するための専門サイトはついに2024年1月に公開された。それによって医師はスマホを使ってヘビの死骸の識別をゲームのように練習することができるようになった。またヘビの地域分布や主な特徴など関連知識を学ぶことができるため、効率よく識別スキルを向上させることができる。陳香齢によれば200問の練習問題に取り組めば、識別能力は明らかにアップするそうで、医療現場でさまざまな毒ヘビ咬傷患者に直面した際に、そのヘビ種を判断するコツが手軽に学べるという。
陳光庭は実際にスマホを操作して、尾だけしかないヘビの死骸を分析する過程を見せてくれた。頭部はないが、腹部と尾部の特徴からコブラであると識別できるそうだ。コブラはふつう灰色か黒、または茶色をしており、頸部が膨らんでいない状態では特徴的な斑紋もはっきり識別できない可能性があるため、「データベースはある意味、リアルなんです」と言う。患者を咬んだヘビやその写真が持ち込まれる、救急外来の実際の状況を再現しているからだ。
台北栄民病院毒物相談センターの陳香齢薬剤師(左)、鄭凱文医師(右)は陳光庭医師(中)の提案で、農業部生物多様性研究所と協力して、咬傷患者が救急外来に運び込まれることが多い陸生ヘビを特定するため、識別訓練用のデータベースを作成した。(荘坤儒撮影)
毒ヘビ種の判断の難しさ
患者を咬んだ毒ヘビに関する情報がまったくない場合、医師が判断するための手がかりは臨床症状だ。しかし、体に入った毒量の違い、患者の体質、毒の放出がなかったケース(dry bite)や無毒のヘビによる咬傷の可能性など、さまざまな要素が症状変化を複雑にする。
中国医薬大学付属病院毒物相談・検査センターの医師・洪東栄は、六大毒ヘビの中でもとりわけタイワンハブとタイワンコブラの咬傷は、診断や治療の際のヘビ種の特定が難しいと指摘する。
多くの患者はヘビに咬まれてから1時間以内に救急外来に到着するが、その時、傷口はまだはっきりした変化を見せていない。しかしタイワンコブラが咬んだ傷口が爛れて青黒い斑点ができた状態と、タイワンハブの咬傷による鬱血は経験豊富な医療従事者でもすぐに区別するのは困難だ。
医師がタイワンアオハブとタイワンハブの咬傷に効果がある抗ハブ毒血清を注射することを決めても、数時間の経過観察の結果、症状に改善がなく、傷口の潰瘍と組織の壊死が認められたら、咬んだのは実はタイワンコブラだったと、その時点ではじめて確定する。確定すればそれに対応する抗コブラ毒血清の注射ができるが、そこまでに約6時間の観察時間がかかることになるのだ。
しかし、時間がかかればかかるほど後遺症が残る可能性が高まる。研究によると、コブラの毒素の50%は細胞にダメージを与える細胞毒性を持ち、その症状は赤みを持つ腫れ、痛み、発熱、壊死や潰瘍などの組織反応が主なもので、洪東栄によれば血清注射が間に合わなければ、組織の壊死や潰瘍が引き起こされ、その後、毒が中和されても、患部の壊死組織の除去手術を何度も行わざるを得ず、深刻な場合はその部分の切断手術が必要となる。
一刻を争う毒ヘビ咬傷の識別について、洪東栄は2002年に発表した博士論文の中でこのように指摘している。「臨床症状だけでは正しい判断を下し、正しい血清を使用することはできない。医療現場ではより客観的な識別方法が必要だ」
そして彼はついにその開発に成功したのだ。
タイワンコブラ
ガチョウの卵の貢献
2008年、洪東栄は台湾初のコブラ毒抗体検査技術の開発に成功した。患者から採取した血液を遠心分離機にかけて血清を抽出し、コブラ毒検査キット(ICT-Cobra)に数滴垂らせば結果が判明するというもので、所要時間はわずか20分足らずだ。
成功の鍵はガチョウの卵だった。
実はヘビ毒の検査キットはインドとミャンマーでも開発されている。「検査キットには2種類の抗体が必要で、1つは既存の抗ヘビ毒血清の抗体として使用されているウマの抗体です。もう1つは、ウサギの抗体を使う人もマウスの抗体を使う人もいますが、問題はウマ以外のどの動物の抗体を使用するかなんです」と洪東栄は言う。量産するにはコストも考えなければならず、「最初、何ら成果は得られませんでしたが、ある日、ガチョウの卵を使ってみたところ、その抗体がとてもよいことがわかったんです」この結果を受けて、彼は畜產試験所彰化種畜繁殖場と協力して、処理済みのヘビ毒をガチョウの体内に注入し、産卵後、その卵から卵黄免疫グロブリン(IgY)を抽出して検査キットに使用するという実験を行うことを決めた。
その結果は開発チームを興奮させるもので、コブラ毒検査キットはコブラ毒を正しく特定しただけでなく、1ミリリットルあたり5ナノグラムという低濃度でも検出できたのだ。通常、咬傷患者の血液中のヘビ毒の濃度は1ミリリットルあたり20~200ナノグラムなのだそうで、この素晴らしい成果はすべて台湾のハイレベルなガチョウ養殖産業のおかげだと洪東栄は笑顔で言った。
この検査キットは製造コストが1つあたりわずか300元で、さらに今後、台湾・ベトナム抗ヘビ毒血清研究ネットワーク計画における重要項目にもなっていくという。
「台湾動物ロードキル観察ネットワーク」に市民から寄せられたヘビの死骸の写真は、救急医がヘビの種類を判断するための学習ツールとなっている。(荘坤儒撮影)
抗ヘビ毒血清研究ネットワーク
医療分野における台湾とベトナムの友好的な協力関係については、台北医学大学がベトナムで10年近くにわたり良好な基盤を築いているだけでなく、国衛院感染症・ワクチン研究所の准研究員・宋旺洲によれば、同研究所も医療研究分野で早くからベトナムとの協力を進めているという。
2011年にベトナムで手足口病やヘルパンギーナを起こすエンテロウイルス感染症が流行した際には感染症・ワクチン研究所所長の蘇益仁が現地医療施設における感染症研究室の設置、抗体検査プロセスの確立を支援し、感染症の流行を迅速に制御できるようにした。そして、それが縁となり国衛院とホーチミン市立第一小児病院との間に友好関係も生まれた。
近年、国衛院は第一小児病院との交流を通じて、ベトナムでは毒ヘビに咬まれた子どもの治療に課題があることを知った。宋旺洲によると子どもは体が小さいので毒が回るのが早いそうで、成人患者なら6~12時間の経過観察をするが、子どもはその半分の時間で深刻な状態に陥ってしまうため、ヘビ毒の迅速な特定ができる医療器材が極めて重要なのだ。
幸いなことにコブラ毒検査キット(ICT-Cobra)を用いて東南アジアに生息するタイドクハキコブラ(Naja siamensis)、タイコブラ(Naja kaouthia)、インドコブラ(Naja naja)に対する実験を行った結果、タイワンコブラのために開発した同検査キットは、上述の3種のコブラも識別することができるとわかった。それも1ミリリットルあたり5~50ナノグラムという低濃度でも検出できる感度のよさで、台湾のヘビ毒抗体技術が東南アジアに進出するための「入場券」となったのだ。
ホーチミン市にある国立チョーライ病院の統計によると、同病院では2016年に1000件を超えるヘビ咬傷の症例が報告されているそうだ。シロクチアオハブの660件が最多で、そのほかマレーマムシ154件、タイドクハキコブラ81件、タイコブラ21件となっている。
ベトナムの医療現場における毒ヘビの種類識別を本格的にサポートするなら、まずはシロクチアオハブとマレーマムシを抗体検査の対象とする必要がある。そのため2022年からアジア太平洋抗ヘビ毒血清研究ネットワーク計画が始まり、マレーマムシに対応するヘビ毒検査キットの開発が進められている。
現在の実験結果ではマレーマムシの場合、最低1ミリリットルあたり50ナノグラムの濃度がないと検出できない。免疫性が強くないので、これより低濃度での検出は難しいが、宋旺洲は「これで十分ですよ」と言う。さらに現在、国衛院のチーム、洪東栄、ベトナムで抗ヘビ毒血清や多くのワクチンを生産している、ベトナム保健省傘下のワクチン・医学生物学研究所(IVAC)が協力して、ラッセルクサリヘビ、コブラ、マレーマムシの毒を同時に検査できる検査キットも製作しており、「検査結果は非常に信頼できるもので、今後は1ミリリットルあたり5ナノグラムでの検出を目標にしています」。
タイワンコブラとタイワンハブによる咬傷の初期症状は似ていて、経験豊富な医療従事者であってもすぐに見分けることは難しい。
Taiwan Can Help!
同計画は今年で2年となり、国衛院はこれまで3カ国、4機関と協力協定を結び、現地で必要とされるヘビ毒の検査キットの開発に加え、「組換えヘビ毒タンパク質を使用したユニバーサル型の抗ヘビ毒血清」の開発という特別プロジェクトを進めている。これはバイオテクノロジーを利用して研究室でヘビ毒の主な毒素を生成し、ウマを使って抗ヘビ毒血清を抽出することで、ヘビ毒の入手困難性を克服するというもので、それによって台湾で東南アジアのヘビ毒に対応する血清を製造することができるようになるのだ。「伝統的な方法でウマ免疫を利用する血清より効果があり、毒ヘビの飼育コストも、毒を採取する際のリスクもありません」と宋旺洲は言う。台湾のヘビ毒研究に新たな一頁を開いたこの画期的な技術は今後、世界各地で命を救う力になるかもしれない。
世界保健機関(WHO)は、ヘビ毒による咬傷はアフリカ、アジア、南米で発生しやすく、抗ヘビ毒血清の注射が最も効果的な治療法であると指摘している。
けれども東南アジアでは毎年約24万人が毒ヘビに咬まれており、患者1人あたり3~5回の血清注射が必要とされるのに対し、同地域に供給される血清は年間28 万回分で必要量を満たしていない。もし適切な量の血清が注射できれば、人命を救うことができるだけでなく、医療資源の浪費を60%回避でき、労働人口を守ることで患者1人あたり 6400 米ドル発生する経済的損失も免れ、東南アジアの国々のGDPを0.1%近く引き上げるという。
そのため、WHOは2017年に毒ヘビによる咬傷を「顧みられない熱帯病(NTD)」の優先リストに加え、新型抗ヘビ毒血清やヘビ毒検査キットにより多くの資源を投入することで、2030年までに毒ヘビによる死亡者数と、体に障がいが残る傷者数を50%減らすことを目標としている。
国衛院のバイオ製剤第2工場完成後、台湾の抗ヘビ毒血清の生産能力は大幅に向上することになり、さらに組換えヘビ毒タンパク質を使用して、各地のニーズに合った抗ヘビ毒血清を開発、製造すれば、公衆衛生分野で他の国との協力関係が強化できるだけでなく、国際市場参入の機会も広がるだろうと宋旺州は言う。「台湾の抗ヘビ毒血清は、今後、新たな道を歩み出して行くでしょう」
ヘビ毒の抗原(免疫原)をウマに注射し、血液中に十分な抗体が生成されたら、血液を採取して分離させることで抗ヘビ毒血清が抽出できる。
疾管署の毒ヘビ研究室は、台湾における抗ヘビ毒血清生産に必要な毒液を安定供給するため、六大毒ヘビの習性に合わせた「カプセルホテル」を設置した。
国衛院感染症・ワクチン研究所の宋旺洲准研究員と研究チームの仲間は、アジア太平洋地域における抗ヘビ毒血清研究ネットワーク構築のため、台湾とベトナムを頻繁に行き来している。(林格立撮影)
国衛院はホーチミン市立第一小児病院と今年(2024年)5月に契約を結び、今後、毒ヘビに咬まれたホーチミン市の児童の検体を使って研究を行うことになった。左から2人目は国衛院の陳為堅副院長、右から2人目はホーチミン市立第一小児病院のグエン・タイン・フン院長。(宋旺洲提供)
共同研究計画だけではなく、ホーチミン市保健局のグエン・テ・ズン前局長(左から5人目)率いるベトナム人研究者の代表団も台湾における抗ヘビ毒血清の製造プロセスを見学するために国衛院感染症・ワクチン研究所を訪問している。(宋旺洲提供)
高品質の血清を安定供給することは、毒ヘビによる咬傷に対する唯一の解決策であり、台湾が世界中の人々の命を守るために提供できる「木陰」なのだ。(林格立撮影)