マカオの植民地としての歴史は、どのようにして始まったのだろう。
明の嘉靖32年(1553年)、ポルトガルの「貢船」が遭難した際、貢物を乾かすために、ポルトガルは明朝にマカオの租借を求め、海道副使(海事を担当する役人)の汪柏がこれを許可した。明の万暦42年(1614年)、今度はポルトガル人が倭寇の撃退に協力したということで、総提督の張明岡が奏上して彼らに居留の許可を与えた。今回の「マカオ史料展」を中心になって企画した外交部の程建人部長(外相に相当)は、ポルトガルが中国の領土の使用を求めてきた際に地方の役所がそれを許可できたという点から、16世紀の中国には、領土という観念やそれを守る制度が不足していたと指摘する。
中国は他国が朝貢してくれば、何でも与えたのだろうか。19世紀以前の中国では「普天の下、王土にあらざるものなし」と言われており、国際法上の領土という観念は、西洋の帝国主義に直面してから、ようやく生れたのである。
ポルトガル人がマカオを治め始めてから300年の間は「租借」の形態で、ポルトガル側は明や清の皇帝に跪いて臣と称していた。マカオ基金会の呉志良博士が言うようにポルトガルと中国による「二重共治」の形態でマカオを治めていたのである。「今、多くの人がポルトガルが中国を『侵略』したと言っていますが、清の道光年間まではそうではなかったのです」と呉志良さんは言う。マカオが正式にポルトガルに属するようになるのは清の光緒13年(1887年)に「通商友好条約」(通称、中葡北京条約)が結ばれてからだ。この条約文書は清の事務を司る役所に収められていたが、中華民国が成立してからは外交部(外務省)に移された。香港をイギリス領とした「南京条約」と同様、中葡北京条約も一世紀に渡り外交部に保管されてきたのである。
ポルトガルが清朝に対して租借権の延長を求めたのは1842年のアヘン戦争の後にイギリスが香港を得たことと関わっている。ポルトガルは当時、イギリスの脅威にさらされており、清の道光23年(1843年)に清朝に要求を出した。マカオ租借料の免除、マカオ領域の拡大、マカオでの建築申請の免除、貨物税の軽減、五港での通商などだ。清朝は五港での通商を許可したが、租借料は免除しなかったため、ポルトガル側は一方的に支払いを拒否し、マカオ地域を西沙、潭仔(今の淡仔島)、過路湾、龍田村、望廈村、石澳、青洲まで拡大し、青洲をイギリスに貸して租借料を取った。
清の光緒13年、中葡北京条約が結ばれ、清朝はポルトガルが永遠にマカオを治めることに書面で同意し、ポルトガルはマカオを第三国に譲らないことを約束した。だが、その後、ポルトガルは幾度もマカオの領域を関閘の北まで拡大し、付近の海域を占拠し、清朝との間で「追加条約」「修正友好通商条約」などを結んだ。これらの不平等条約の中国語、ポルトガル語、フランス語の各版や、ポルトガルの領土侵略の証拠である「中葡マカオ境界図」「清廷四方界図」なども今回の展覧会の重点だ。
四百年前にポルトガル人が渡来して以来、マカオには中国人と西洋人が共に暮らすようになり、その間に道徳、司法、関税、商務などの数々の問題が起った。今回の展覧会では、民国の羅家倫がヨーロッパを訪れた際に購入した外交史料も展示されている。その中には、当時のマカオの行政長官がアヘンの取締を約束した誓約書や、当時の船の名前や出入港状況、西洋人の戸籍や奴婢使用の状況、林則徐の文書、税関の書類などがあり、どれも重要な史料である。
民国の時代に入ると、国民党政府は積極的に西洋列強との不平等条約の廃止交渉に取り組みはじめた。民国17年(1928年)に、まず「中葡北京条約」を廃止して、別に「中葡友好通商条約」を結んだが、マカオの問題は棚上げされたままだった。だが、中華民国はポルトガルから「関税協定権」「領事裁判権」「沿海貿易権」「内河航行権」などを取り戻した。今回の展示では、国民党政府が不平等条約を廃止するために交渉してきた歴史を目にすることができる。
1999年12月20日から、マカオはポルトガルに属さなくなったが、「マカオ史料展」に展示された古い文書の数々を見ると、歴史の大きな変化を感じることができる。