タバコ3本と酒3杯を供え、山に入る前に祖先の霊に挨拶をして、タロコ族の伝説で「巨人の足跡」だと言われる地に向かう。100年前、日本植民地政府は原住民に対する集団移住政策を実施し、それにより天祥一帯に住んでいた人々は現在の花蓮県万栄郷西林村である支亜干に移り住み、山麓の斜面に開けたその地を「高台(たかだい)」と日本語で呼ぶようになった。
支亜干で育った青年アピヤン・イミク(漢名は程廷)さんは、何もない荒れ地に見えるその地の足元には何層にも積み重なった歴史が残っているのだと言う。近い歴史では、タロコ族が仕事の合間に飲んだ栄養ドリンクの瓶の破片があり、日本統治時代の物では茶碗などのかけら、防火水槽や斜面の土止めが残っている。そして、草むらと土の中には大量の石斧と剥片石器、円筒形や三角形など不規則な形をした薄緑色の玉片がある。それらは玉器を作った際の廃棄物で、踏まずには歩けないほどいたるところにあり、ここが特別な場所であったことを静かに教えている。
比類なき豊田玉
2000~4000年前の新石器時代に遡るこれらの遺物は、これまで多くの考古学者を魅了してきた。1人目は日本の博物学者・鹿野忠雄で、彼はここには当時の東南アジアで最大規模の玉器の工房があったと、1929年に断言していた。
こうした議論は、戦後、台湾の考古学研究が発展するにつれさらに注目され、1980年代には台湾最大の先史時代の遺跡である卑南遺跡が台東で発見された。そこで壮観なのは地表に立つ大きな石板と地中に埋まっていた2000を超える石棺、そして1万個を超える玉製の装飾品や副葬品だ。
鉄器時代に入る前、材料の選択肢もまだ限られていた先史時代の人類にとって、緑色の光沢を放つ玉は、その美によって品位を示すことで持ち主のステータスの象徴になった。ビーズ状の玉を繋いだ頭飾り「鈴形玉串飾」、ストローのような「円柱型玉管」、ラッパ状の腕輪など、死者の身を飾った各種の玉器がそれを証明している。腰に手を当て、脚を広げた2人の人物の頭の上に雲豹か鹿に似た獣が載っている「人獣形玉玦」にいたってはすでに国宝の仲間入りをしている。
中央研究院歴史語言研究所の元研究員である考古学者の劉益昌さんは、これら玉製の副葬品は台湾の100以上の遺跡で発見されたと指摘する。
これらの玉器には鉄、マンガン、クロムによってできた黒い斑点があり、分析機器による測定の結果、亜鉛含有量が非常に多いことから、その玉は台湾で産出されたものであることが判明した。その玉の鉱床があることが知られている台湾唯一の場所が中央山脈東側の荖脳山域にある支亜干渓(寿豊渓)、荖渓、白鮑渓の流域である。
先史時代を知るための鍵・玉
研究者と花蓮県考古博物館スタッフたちの指導の下、私たちは炎天下でアピヤンさんとともに発掘作業に参加した。土を掘って出て来たものを水で洗うと人工的に作られたとはっきりわかる石斧や、明らかに人間の手によって切り出された玉石と鋭利な石鋸が次々見つかり、比べてみると玉の加工はその石鋸でなされたことがわかる。未知のものに立ち向かい、精魂込めて作業をしたことで得られる満足感は、これまでここに関わって来た考古学者たちの心境に繋がるような気がした。
鹿野忠雄の研究を受け継いで、劉益昌さんは1998年に支亜干遺跡の発掘調査を始めた。そこで研究者たちを驚かせたのは、そこに埋まっていた莫大な量の遺物で、最も大量に見つかったのは玉を加工する際に出た廃棄物だった。それらは暗緑色から青緑色の色味を持つ、「豊田玉」、「台湾玉」と呼ばれるネフライトで、実はここは先史時代だけでなく、戦後、地質学者によって「再発見」されており、1960~70年代、世界のネフライト産出量の60%を占める鉱床でもあった。
一般に玉器は経済的価値がある装飾品とされるが、考古学者にとってはそれ以上の価値がある。数千年にわたる台湾の歴史を貫く文化遺産だからだ。鉄器時代に製錬技術が開発されるまでは、鉄器や青銅器はもちろん、カラフルなガラス玉やメノウ玉なども存在しておらず、まさに玉の天下だた。そして、その希少性と加工することで付加される工芸的、文化的な価値により、台湾の新石器時代の人々は身分、階級、富を玉によって示すようになったのだ。
「玉製の副葬品は台湾全土で出土していますが、製造されたのは支亜干一帯で、台湾の先史時代の文化の発展にとって非常に重要なところであることは間違いありません」と国立成功大学考古学研究所の鍾国風准教授はこう語る。
玉器加工工程再現の試み
支亜干遺跡の豊富な出土品を目にすれば、研究者は当然、それらがどのように作られたのかに興味を持つ。オーストロネシア語族は文字を持たず、情報伝達は記憶と口承のみに頼っていたが、新石器時代から鉄器時代に移行すると玉器工芸とそれに関連する文化は徐々に姿を消し、最後は地層の中に眠るだけとなった。玉器の加工方法、技術の伝承、使い方、工房の運営、消費と交換などについては謎のままで、唯一確かなことは、玉器生産の背後には、売買、管理、交換、輸送などに関わる複雑な社会システムが存在しているということだ。そしてその複雑さは、高度に洗練された文明があったことを証明している。
かつて大規模な玉器の製作現場であった支亜干遺跡の特殊性は、玉器そのものではなく、加工の際に出る廃棄物と道具が大量に見つかった点だ。研究者はそれらを研究することで、原石から玉器を作るプロセスを再現しようと試みている。
材料となる玉を入手するには、台風や大雨による浸食で川や谷に露出したものを拾うか、鉱脈から直接掘り出すかの2つの方法がある。そして、石英片岩製の石鋸で、原石から必要な大きさの方形に切り出し、四方の角を落として八角形にする。
さらに下部に鋭利な石英の刃をはめ込んだ竹筒を回転させることで玉に孔を穿つが、作業は両端から進め、最後に真ん中辺りで折るため、廃棄部分には真ん中に明らかな隆起が残っているそうだ。研究者はこのプロセスを「截方取円」(方形から円形を切り出す)と呼んでおり、こうして得られたリング状の玉材をさらに研磨、切断、加工して耳飾りや腕輪にしていく。
遺跡には大量の方形や円柱形、弧を描いた部分がある不規則な形の廃材が大量に出土し、加工過程を示す重要な証拠とされている。人工的な作業であることは一目瞭然だが、その表面があまりにもきれいなため、かつて鹿野忠雄は金属管を旋回させて孔を穿ったものだと誤解したという。後の研究者が顕微鏡で切り出した部分を観察し、遺跡に残る大量の石の刃と照らし合わせた結果、細工の過程が検証できたそうだ。
謎めく先史時代の技術
今日から見ると、先史時代の玉器作りは非常に原始的に見える。しかし、興味深いのは同時に今日の技術レベルでも説明が難しい細工をしていることだ。爪より小さな玉製の鈴はいったいどう作ったのか。極細の玉管はどんな道具を使って芯を抜いたのか。研究者は現代の道具でも、そうした作業を再現するのは難しいことに気づいた。
オーストラリア国立大学の上級研究員である洪暁純さんと研究チームはフィリピンのパラワン島、ベトナム中部・南部の沿海部、タイ中部で台湾産の玉で作られた耳飾りを発掘している。これらの発見は人類学で言うところの「出台湾説」(台湾はオーストロネシア語を話す人々の「母島」であるという説)に呼応する。言語学、遺伝学(カジノキのDNA分析)による証拠に加えて、台湾玉の移動と拡散もこの理論を裏付けたのだ。
しかしまだ疑問はある。東南アジアで出土したこれらの台湾の玉器は、海上交易が盛んであったことを物語っているが、先史時代の人類がどうやってこれほど頻繁に東南アジアへ行けたのか。またこれらの玉器はなぜ遠く離れた地に運ばれて行ったのか。これらの疑問はみな船舶設計、航海術と知識などに繋がるが、いずれも証拠はなく、ただ台北の芝山岩遺跡から船の形をした玉の破片が発掘されただけである。その船形の玉は少なくとも4人の人間と、犬のような動物が乗っており、あれこれ想像せずにはいられない。
流行の最前線だった支亜干
玉器の完成品が大量に出土した卑南遺跡は同時代の他地域と比較して、その規模と文化レベル、購買力の点で際立っている。当時の卑南はいわば現代のパリやNYのような流行ファッションの発信地で、玉器を作っていた支亜干は東南アジア全体のトレンドリーダーだったのだ。また、蘭嶼で出土した「リンリン・オー」(Lingling-O)と名付けられた3つの突起を持つ玉の耳飾りが、台湾ではなく東南アジアでだけ使われていたことから、支亜干は単に「輸出」していただけでなく、「ODM生産」に応じていたことがわかる。
花蓮県考古博物館の温孟威館長は、民族や社会を理解するには、その価値観を伝える神話や物語を知ることだと強調する。支亜干遺跡の物語は現代人、とりわけ東海岸に住む人々に重要な意味を持つ。なんといっても、今、「山の向こう側」だと思われているところは、かつて台湾の「表玄関」だったのだから。
コミュニティーと考古学
その重要性から、支亜干遺跡は2010年に花蓮県の指定文化財となったが、そこに居住していたタロコ族の人々の生活に影響があるとされ、強い反発もあった。そこで地元とのコンセンサスを得るため、文化部、考古学チームと地元の集落との間で10年以上にわたる協議が続けられ、タロコ族の人々の意見と土地の権益を尊重しつつ、遺跡の保存と保護を行い、同時に持続可能なアプローチで地域経済の発展促進をはかることとなった。
そして遺跡の保存と活用の両方を目指して、花蓮県考古博物館、考古学チーム、地元住民が力を合わせて「考古学アカデミー」という継続的な活動を開始した。イベントでは観光客がやって来るとまず地元の青年が遺跡に案内し、支亜干の歴史を説明する。今を生きる原住民が自らのアイデンティティーと文化遺産を繋げ、理解と保護を進めているのだ。
私たちのような一般人も、ここを訪れれば数千年前の台湾に暮らしていた人々の生活を知り、人類の文明と文化の変遷を垣間見ることができる。そして先人の暮らしに海洋国家への共感を覚え、東海岸、大海、台湾そのものに対して、新たな視座がもたらされるであろう。