先住民族、移住者、植民者などの、さまざまな食文化が融合を重ねてきた台湾料理は、見る角度によってさまざまに姿を変え、新たな発見と驚きに満ちている。
二階建ての瀟洒な建物に入ったレストラン「山海楼」。台北市内とは思えない豪邸は、1930年代の木彫りの飾り窓や石の壁などを復刻したもので、レトロな華やかさに満ちている。
この空間で、金の縁取りのある器で供される扁魚春巻(干しガレイの春巻)。皮はサクサクで中にはカレイとモヤシ、エビの餡が入り、澄んだチキンスープが添えられている。日本統治時代の「酒家料理」を起源とするこの料理は、一見馴染み深いものに見えるが、そのさっぱりした味わいに初めて出会ったような喜びを感じる。
地元食材を活かす
最近は「台湾料理」「台湾味」が次のトレンドだと言われている。台湾料理はすでにお粥とおかず、海鮮の炒め物といった従来のイメージを抜け出し、山海楼のような、料理も器もサービスも最上級のレストランが出現し、「台湾には台湾料理はない」という偏見も払拭された。
長年にわたり台湾の食文化を研究している台湾師範大学台湾語文学科の陳玉箴副教授によると、現在の台湾料理ブームは、この20年余りにわたる水面下の動きを受けるものだという。
1990年代の末、政府は地方の町おこし、町づくりに力を注ぎ、「一町村に一特産」という目標を打ち出した。そうして、白河の蓮の実フェスティバルや東港のクロマグロ・フェスティバルなど、各地で地元食材の祭典が行なわれるようになり、経済効果を上げるとともに、それが台湾各地の食材をあらためて認識させることとなった。
2005年以降は、著名シェフやグルメライターが注目されるようになる。江振誠シェフによる「台湾味」フォーラムが開催され、葉怡蘭や陳淑華といったグルメライターが活躍し、台湾の食文化の物語が一つ一つ明らかされていった。これに、もともと豊かな台湾の海産物や農産物が大きな支えとなり、台湾味ブームは今も続いている。
多くの昔ながらの台湾料理と同様、扁魚春巻(干しガレイの春巻)の背後にもさまざまな物語がある。
黄婉玲
伝統的な台湾料理は複雑な味付けをしないという点で、現代人の食のスタイルにも合っている。
昔からの上質な料理を再現
ミレニアムの年、陳水扁・元総統は碗粿(水で溶いた米粉を蒸し固めたもの)や虱目魚丸湯(サバヒーという魚のつみれスープ)といった台湾の庶民の味を国賓晩餐会に出した。
庶民的な料理に焦点が当てられ、多くの人は、台湾にはB級グルメしかなく、本格的な「台湾料理」と呼べるものはないのではないか、と考えるようになった。だが、台南の名家出身の黄婉玲はそうは考えなかった。
彼女は家庭での食事の記憶をたどる。かつて鄭成功とともに大陸から渡ってきた彼女の祖先は、台南で手柄を立てて土地をあたえられ、製糖事業を行なって財を成した。長者も三代続かなければ味はわからない、と言われるが、彼女はまさにこれに当てはまる。恵まれた環境に育ち、食の遍歴を重ねてきたのである。
台湾にももちろん上質な料理はある。政財界の接待に使われる酒楼で出される「酒家料理」や、黄婉玲のように裕福な家ではお抱え料理人が作る「阿舎料理」があった。
裕福な家の料理は料理屋のそれとは異なる。食材の原価や調理にかかる時間は考慮せず、その手の込みようには驚かされる。料理からは、その家族の背景なども伝わってくるのだが、調理方法は外に知られることはなく、今では社会構造も変わったため、多くのレシピは残っていない。
黄婉玲は単純な好奇心と昔懐かしさから、30年にわたって数少ない老調理人を訪ね歩いて古いレシピを記録してきた。恵まれた環境に育ち、家が製糖業を営んでいたこともあって、彼女は特に甘みに敏感で、布袋鶏や五柳枝魚、通心鰻などの再現に成功したのである。
その話によると、台湾は移住者が多く、彼らの生活は苦しかったため、複雑なソースが生まれることはなかった。塩、砂糖、醤油、酢を主な調味料とすることから食材の味が活かされているのが特徴だと考えられる。
古いレシピを学んだ黄婉玲は、一人で料理教室を開き、一度は失われた料理を伝え続けて守っていこうと考えている。
蘇紋雯・陶桂槐
食文化は机上で研究するだけでは不十分だ。自ら作り、食さなければ文化を継承することはできない。
エスニックが融合する家庭料理
料理を守っていくには日々の繰り返しが必要で、それは高級料理も家庭料理も同じである。
美食で知られる台湾だが、台湾人は自分で料理を作らなくなっている。しばらく前、美食家の王宣一が急逝した時、詹宏志は「以前は当たり前のものだと思っていた彼女の得意な家庭料理が、突然消えてしまった」と嘆いた。
「家庭料理、家の味は食堂やレストランの料理とは違う。日々料理を作り、それを次の世代へと伝えていかなければ残していくことはできない」という言葉に蘇紋雯は共感する。
蘇紋雯と大学の後輩の陶桂槐は、共同で「魚麗人文共同厨房」を開き、ビジネスの力で民間に伝わる家庭料理を伝え続けようとしている。
「魚麗」の名物料理、しっとりとして香りがよい桂花鹹水鴨(アヒル肉の塩漬け)は、蘇紋雯の母親の味だ。
家庭料理だが、簡単に作れるものではない。「魚麗」は有名な江浙料理の蘇式燻魚、四喜烤麩、十香菜など手間のかかる料理を出す。だが、彼女に料理を教えたのはレストランの料理人ではなく、飲食業界の名門、永福楼創設者の夫人である葉林月英だ。
「聞くところによると、かつて永福楼の常連客は、年に一度、葉家の宴に招かれたそうです」と蘇紋雯は言う。手間のかかる宴会料理だが、それも「家庭の味」だったという。
十数年前、体調を崩していた蘇紋雯は、健康のためにルームメイト2人とともに毎日自炊をしていた。小人数分の料理を作るのは難しいため、十数人の友人を集め、毎日交代で家で料理を作ることにした。
生まれも育ちも違う十数人が集まると、それぞれが作る家庭の味も大きく異なる。こうして蘇紋雯は、それぞれの家庭に独特の料理があることに気付いた。
こうして、毎日交代で各家庭の料理を食べているうちに、レストランのイメージが形成された。
現在の「魚麗」レストランでは一汁四菜のセットを出しており、メニューは日替わりで南北各地の料理を組み合わせる。
さまざまな地域の料理が一つの食卓に並ぶことは、彼女にとっては少しも奇妙ではない。彼女自身は嘉義の本省人家庭で育ったが、その実家のすぐ隣りには空軍の眷村(軍人の家族が住む地域)があり、母親の得意料理だった桂花鹹水鴨は実は南京料理なのである。お隣の浙江省出身のおばあさんが作る荷葉粉蒸肉も、彼女にとっては懐かしい家庭の味なのだ。「あの時代、人々は出身地を強く意識していましたが、不思議なことに食卓にはそれがありませんでした」と彼女は言う。
ここからもわかる通り、食こそ最も単純な触れ合いであり、和解と融和の道なのである。
若い頃から苦労を重ね、今はレストランを経営する彼女は、これまで人生の重要な場面で、ごく自然に食を媒介とすることを選び、それがまた多くの人を救ってきた。
例えば、冤罪で死刑囚となった鄭性沢のために彼女は4年にわたって毎月弁当を届け続けた。ベジタリアンの彼のために、200以上のベジタリアン料理を開発し、また鄭の苗栗の母親から酸柑茶というミカンを使った飲料も教わり、今では店の飲み物の一つとして供している。
こうしてレストランを経営して13年の間に、蓄積してきたレシピは1000を超え、それぞれが人生の記念品だと語る。
DV被害に遭った女性たちの世話もしており、彼女たちからも料理を学んでいる。
食は人を支え、強くしてくれる。どの料理の背後にもその成り立ちと人情の物語があり、どんなにつらい時も、ともに食卓を囲むことで心は穏やかになるのである。
黄婉玲にとっては、どの料理の背後にも老料理人との深い交流と思い出があり、それは舌の上と心に残っている。
陳静宜
蘇紋雯(左)と陶桂槐(右)は、家庭のような温もりのあるレストランを開いた。
華人の食の系譜
台湾料理はさまざまなものを受け入れてきたため、その背後の脈略を理解するには海外での探索も欠かせない。
グルメライターの陳静宜は、マレーシアの友人に熱心に招かれたことから、マレーシアを最初の考察の場に選んだ。
台南で育った彼女は、ペナンを訪れて、故郷に似ていることに驚いた。閩南語に近い福建語を話し、庶民の屋台料理があふれている。
庶民の暮らしに欠かせない屋台料理は、それこそ台湾によく似ていた。ここの蝦麺は台湾の担仔麺に似ている。台湾で鶏巻(豚肉を棒状に巻いて揚げたもの)と呼ばれる料理は、ここでは滷肉と呼ばれる。さらに客家の擂茶(茶葉や穀類をすり潰してお湯を注いだもの)は、ここでは河婆擂茶と言い、台湾のものが甘いのに比べて塩味が強いという違いがあるだけだ。
さまざまな共通点があり、その成り立ちの秘密が垣間見える。
こうして2年余りにわたり、607回はペナンを訪れて半月以上を過ごし、300近い店を食べ歩いてきた。
それより前から、台湾の食文化を研究してきた彼女は、さまざまな手がかりから、台湾とマレーシアの華人が同じような歴史を歩んできたことを突き止めた。かつて先人は、生活のために荒波の台湾海峡を越えてきて、台湾を開墾した。同じように清朝末期、同じく福建南部や広東の人々が命がけで南洋へと向かったのである。
移住者は故郷の味を異郷に持ち込み、それは異郷で新たな表情を持つ。台湾とマレーシアの華人は同じ源を持ち、その背景も良く似ているため、二つの土地の食べ物は、違うようでいてどこか似通っているのである。
こうして、台湾の食文化を研究してきた彼女の視野は大きく広がった。それまで一か所の短い歴史しか見えていなかったのが、広い空間の長い歴史が見えるようになったのである。「食に対する見方が立体的になり、そこに空間と時間が加わりました」と陳静宜は言う。
それまで台湾という空間に限られていたため、彼女の研究には壁があった。それが違う地域の華人の食文化、特に台湾と近い中国の沿海地域や東南アジアのそれと比較することで、それまでの多くの疑問が解けたのだという。
例えば、台南人は甘みを好むが、これは台南がかつてサトウキビの産地で、お金持ちだけが砂糖を使えたからだと言われる。「しかし、製糖工場は台湾の各地にあり、砂糖を食べることで地位の高さを示せるわけではないはずだ」と彼女は疑問を抱いていた。
それが中国大陸の潮州や汕頭を訪れた時、現地の人々が台南人より砂糖を好むことを知った。
台南には祖先が潮州から来た人が少なくなく、街中には潮州人の信仰である三山国王廟がたくさんあるし、潮州・汕頭風の沙茶火鍋や、汕頭魚楫の店も少なくない。台南人が甘い料理を好むのは、潮州・汕頭の影響かも知れないと考えられると陳静宜は言う。
「深く理解できたことで、同じ料理でも見方が今までとは変わりました」と言う。
台湾料理、台湾の味とは何か。ひと言で言い切るのは難しい。多様な融合と言えるかも知れないし、表面的に説明できないのが台湾料理の宿命なのかも知れない。重要なのは、その答えを探す過程で、理解が深まることによって互いの違いを受け入れていくことなのである。
「台湾料理を語る時、それがどこから来たか、何が正統かを論じるのではなく、その歴史を知ることが重要です。過去を知ってこそ、未来への道が開けるのですから」と陳静宜が語る通りなのであろう。
陶桂槐は、あちらこちらで忙しく料理を学ぶことで、親を失った痛みをいやすことができた。
「魚麗」の料理にはそれぞれ感動的な物語がある。写真は、雲南の辣醃菜炒肉末。
「魚麗」の料理にはそれぞれ感動的な物語がある。
「魚麗」の料理にはそれぞれ感動的な物語がある。写真はミカンの飲み物、酸柑茶。
(左)移住者は故郷の味を懐かしく思うものだ。写真は一般のタイ・ミャンマー料理店ではなかなか見られないお茶の葉のサラダ。
(右)各地を食べ歩き、食を研究してきた陳静宜は、料理の背後には常に人の物語があると考えている。
何の変哲もない料理も、実は広大な文化の系譜とつながっている。
各地から移住者から成る台湾では、どの料理の背後にも想像を超えた広大な文化の系譜が広がっている。(荘坤儒撮影)