
宝探しに挑んでいる人々がいる。但し、煌びやかな財宝ではない。アメリカ国立公文書記録管理局に保存された台湾に関わる史料の一つ一つである。こうした宝で富が得られるわけではないが、台湾人が自らを見つめ、自分が何者なのかを知るのに役立つ。過去を踏みしめることで、未来を確かな足取りで歩んでいけるのである。
2017年からほぼ毎月一回、ニューヨークにいる台湾人のグループが、まだ薄暗い朝5時に集まり、車で4~5時間かけて台北から屏東ほどの道のりを走り、メリーランド州にある国立公文書記録管理局に到着する。そして台湾に関わる文書を一箱ずつ閲覧請求し、一枚一枚スマホで撮影し、クラウドにデータをアップロードしていく。この「国家宝蔵(タイワン‧ナショナル‧トレジャー)」プロジェクトは、これまでに文書22万枚を撮影している。それは台湾の情報収集記録であり、生活の片鱗でもあり、私たちが暮らすこの地で起きた物語を語っている。
「国家宝蔵」プロジェクトは蕭新晟、林育正、荘世杰が共同で発起した。米国国立公文書記録管理局に台湾に関する文献資料がたくさんあると聞き、どうしたらより多くの台湾人がこれらを見られるようにできるか考えた。そこで「国家宝蔵基金会(TNTF)」を設立し、クラウドファンディングで資金を集め、g0vオープンガバメントの精神で、管理局に行ってスマホで写真を撮るボランティアを募った。

市民参加とイノベーションを結び付けた国家宝蔵基金会のメンバーは、ボランティアを募って米国の国立公文書記録管理局にある台湾関連の歴史資料をデジタル化している。写真左から蔡思亭、蕭新晟、侯光遠、楊承融。(林格立撮影)
歴史の空間にこの手を触れて
国立公文書記録管理局の所蔵品は幅広い。米国建国以来の公文書、米国在外公館の資料もあり、台湾関連の文書は統計では6000点を超える。まず最初に、彼らは1979年の米国との国交断絶と台湾関係法の文書をまとめた。蕭新晟はそのうちの一箱の撮影を担当した。「見応えがありました。文書から、双方の駆け引き、わが国のロビー活動、国交断絶後に米国側がどのような基礎のうえに台湾関係法を打ち出したかが窺えます」「台湾関係法の草稿は、4つ、5つ撮影しました。どれにも余白に修正の注がついていました」こうした歴史の手がかりから、当時、決定がなされた経緯や今日までの台米関係の経緯が追える。
CEOの楊承融は言う。「米国法では、こうした資料は30年経つと誰でも閲覧できることになっています。それも全部『原本』です」つまり、ボランティアが手にした紙片は、歴史において何かしら役割を果たしたものであり、タイムスリップしたかのように、歴史の瞬間を垣間見ることができる。例えば、1925年、台湾が日本植民地だった時に、米国領事館は中華民国駐台北総領事館の招待状を受け取っている。中華民国第14回国慶記念会への招待である。完全な形で保存されており、台湾の複雑な歴史を裏 付けている。
管理局の所蔵は細部にわたる。楊承融は「大使の机に積まれた書類を、そのまま箱に入れて米国に送り返し、アーカイブに入れたと思ってください」という。米国企業が送ってきたカタログもあった。万年筆のパーカー社や子供服の会社が、台湾で買い手を探していた。ホームシックになった役人が、アトランタのコカ‧コーラ本社にコーラを注文した手紙のやり取りも残っている。日本統治時代の戸口調査(人口動態調査)、鉱産、農業等の調査資料や、米国の援助を受けていた時代に推進された公衆衛生の宣伝冊子もある。こうした史料に直に手を触れると、当時の台湾の暮らしぶりが目に浮かぶようだった。

かつてアメリカ領事館が、中華民国駐台北総領事館から受け取った国慶節の招待状とその返信である。
異なる角度から台湾を再認識
当日、取材を受けてくれた蕭新晟、楊承融、蔡思亭、侯光遠は4人とも1980年代生れである。渡米前は台湾についてあまり知らなかった。異郷で自分の故郷について話した時、台湾への理解がほんのわずかであることに気づいた。
幼いときに両親に送り出された小さな留学生だった蕭新晟は言う。「中華民国をアメリカは認めていません。だからこそ、ここ(米国)で知りたいと思ったのです。アメリカが私の国が中華民国であることを認めないなら、自分は一体どこから来たのか、そう考え始めたのです」
ピッツバーグ大学で公衆衛生を専攻し、ピッツバーグ地区のボランティアをまとめる蔡思亭は尋ねられたことがある。「あなたのアイデンティティは何?」そこで彼女は振り返った。「いつも私たちは台湾人だと叫んでいるけれど、では台湾人のアイデンティティは何かと聞かれたら、答えられません」「(中国大陸とは)違うと強調するばかりで、どこが違うのか言えないのです」
そこで、プロジェクトに参加することで、他の国が認識する台湾を目にした。
侯光遠は、米国の大学から台湾を訪問した人が台湾の農林水産業を視察した文書を撮影した。台湾の強みを学びに来たのだった。文書に挟まっていた漁業組合の理事長の名刺が、先人の労苦を思い起こさせた。
蔡思亭は、米国各都市から郵送された様々な商品カタログを目にして、皆がフォルモサ‧台湾で取引を望んでいたことを知った。「台湾も、香港やロンドンなど大都市のように、たくさんの企業が接触を求めていたことに驚きました。学校で習った誰も気に留めない小国という認識とはずいぶん違います。私たちは見直しました。台湾はこんなにポテンシャルがあるのです」
「自分と近いものほど、心に響きます」成功大学出身の侯光遠は、米国援助時代の成功大学に関わる史料を見つけた。出身学科の前の代の教授の名前もあった。自分の祖先を見つけたような思いがした。公共政策を専攻する 蔡思亭は、両親が若い頃、仕事の後に映画を見に行っていたのも、米国が提案したことだったと知った。台湾政府に労働者の娯楽や健康に配慮するよう求め、保険の概念を導入したのも、米国だった。
台米間には実務的で深い関係がある。蕭新晟は、数多くの文書が台湾の民主化の過程を示しているという。米国が背後で圧力をかけ、当時の国民政府に、権威主義から民主主義へ向かわせたのであった。エンジニアリングを学ぶ侯光遠が指摘する。台湾の1970年代における十大建設は、多くが米国の建設会社が台湾に来て設計と計画を支援していた。「米国の台湾への投資には深さがあります」侯光遠は説明する。この緊密な関係は、見方によっては違う解釈もできるが、蔡思亭は、誰でも米国に行くことがあったら、この撮影活動に参加することを勧める。「史料の撮影で台湾への認識を新たにし、感じ方も変わります」

国家宝蔵プロジェクトは進み続ける
今、米国国立公文書記録管理局には、日本、ベトナム、フィリピンのチームが長期駐留し、国の予算で撮影を進めている。だが台湾の国家宝蔵プロジェクトは、ずっとボランティアと募金で運営している。2020年、国家宝蔵がクラウドファンディングサイトzeczecに登場した。国民の力で計画を支援しようという案だった。これは国の仕事だという意見もあった。「その前に私たちにできることはしようと思ったのです」楊承融は言う。「資料は劣化し、インクも褪せつつあります。いずれ、文字が判別できなくなります」侯光遠は、資料撮影が急務であると訴える。
いつか専門職が撮影を行い、AI認識で文字のデジタル化を加速してほしい。メンバーはずっと考えていたプランを口々に話す。
国家宝蔵プロジェクトが永く続けられることを願う。他にも歴史的に台湾と深いつながりのある英‧蘭‧日‧西‧ポルトガルなどに、台湾に関わる資料が保存されている可能性がある。世界のどこかに埋もれた台湾のパズルを1ピースずつ探してきて、誰もが参加し、触れ、解読できる。「歴史は一人一人のもの」それが国家宝蔵プロジェクトが最も大切にする精神なのである。

アメリカ国立公文書記録管理局で発見された資料は豊富で、台湾の物産から原住民族、公衆衛生のパンフレットまであり、従来とは違う角度から台湾を理解するのに役立つ。

アメリカ国立公文書記録管理局で発見された資料は豊富で、台湾の物産から原住民族、公衆衛生のパンフレットまであり、従来とは違う角度から台湾を理解するのに役立つ。

アメリカ国立公文書記録管理局で発見された資料は豊富で、台湾の物産から原住民族、公衆衛生のパンフレットまであり、従来とは違う角度から台湾を理解するのに役立つ。

アメリカ国立公文書記録管理局で発見された資料は豊富で、台湾の物産から原住民族、公衆衛生のパンフレットまであり、従来とは違う角度から台湾を理解するのに役立つ。




紙の資料だけではない。台湾に関連するテープ類の資料もある。

国家宝蔵プロジェクトは、収集した資料をアメリカ各地の会合やウェブサイトで公開し、より深く台湾を知るための資金やボランティアを募っている。
「歴史は一人ひとりのもの」——すべての人が参画し、触れ、解読するというのが国家宝蔵プロジェクトの精神だ。