台湾の数々の団体がフィリピンでソーシャルサービスを提供しており、昨年(2023年)も大きな成果を上げた。まず、台湾技術団によるモデル農場がオープンし、「台湾経験」をシェアすることで小規模農家の生活改善が始まった。同じくフィリピンで活動する家扶基金会は、現地でコロナ禍に見舞われながら、ひるむことなく活動を続け、今は「レジリエント・コミュニティ」の構築に力を注いでいる。30年にわたって現地で活動を続けてきた慈済フィリピン支部は、医療の力で数えきれないほどの人々の心と身体を救っている。
台湾技術団の李泰昌団長(右)と曾仁輝技師(左)。モデル農場内の栽培管理技術を通して地元農家の収入を増やしている。
モデル農場のオープン
昨年(2023年)フィリピンのタルラック市に台湾技術団のモデル農場がオープンした。これは、台湾の国際合作発展基金会(ICDF)とフィリピン政府農業省による協同計画で、現地の農家の収入改善に役立つと期待されている。タルラック州のSusan Yap州知事は「これはタルラック州の住民にとって最良のクリスマスプレゼントです」と語っている。
このモデル農場には、屋外の農地と二つのスマート温室がある。団長の李泰昌が私たちを案内しながら、フィリピン農業の難しさを話してくれた。フィリピンは一年中が夏で、雨季(5~10月)と乾季(11~4月)に分けられる。毎年平均20の台風に見舞われ、それが農業生産に多大な影響をおよぼす。インフラが不十分なため、灌漑システムのない地域では雨季の水源に頼るほかなく、農業の生産力は不十分なのである。
台湾技術団は現地農家のために「栽培暦」を作成し、科の異なる作物の輪作を勧めている。作物によって病虫害が異なるため、農薬の使用を減らすことができるからだ。
台湾の経験をシェア
台湾技術団はいくつもの任務を負っているが、李泰昌がそれらを大きく三つにまとめて説明してくれた。一つは作物の生産量と質の改善、第二は現地農家の栽培習慣の変革、第三は販売ルートに関するものである。
これまで多くの国に駐在してきた李泰昌によると、大部分の農家が抱える課題は、農薬や肥料の使用と農地の管理に関するものだ。技術団は、理念のコミュニケーションと栽培モデルを示すことで、農家の人々の習慣を変えたいと考えている。肥料をどのように使い、そこへどう有機堆肥を加えればサステナブルな循環が維持できるか、などである。「私たちは完全な有機農業は推進しませんが、有機栽培に向けて努力していけば、大地はお返しをしてくれます」と李団長は言う。
技術団は、苦瓜やヘチマ、パプリカなどの作物を栽培して試験を行ない、モデルとして見せている。「彼らがもともと栽培している作物の中から、現地の気候条件に合った品種を選び、作物の多様性を高めていす。また新しい栽培方法や管理モデルを提供することで、水害や干害、病虫害などの問題に対応できるようにしていきます」と李団長は言う。
温室は台風対策であるとともに、災害に備えて種苗を生産するという重要な役割を持つ。「フィリピンは台風が多いので、災害が発生した時に、あらかじめ温室で栽培していた苗を迅速に農家に提供することができます。これによって農家はすぐに生産を再開でき、市場で機先を制することができるのです」と言う。
温室は台風対策であるとともに、あらかじめ苗を育てておき、被災した時にそれを農家に提供することで迅速に生産を再開できるようにしている。
スマート農業を教える
私たちが車でパンパンガ州にあるタボン・サンホセ農業協同組合に移動すると、技術団の彭元慶技師と組合の農家が、技術団の指導の成果を見せてくれた。
彭元慶によると、組合の主力作物は白菜と苦瓜で、技術団は農家の人々に収穫量を増やす方法を指導している。畑に行くと幾筋も畝が並び、そこに、つる植物用のネットが立てられている。地面に植えられているのは白菜、白菜の中から上へとつるを伸ばして生長しているのは苦瓜だ。彭元慶によると、先に白菜を植えるのは、白菜は比較的短期間で生長し、それを収穫する頃に苦瓜がつるを伸ばし始めるので両者が陽光を奪い合うことがないからだ。「こうした輪作管理により、狭い農地しか持たない小規模農家でも、単位面積当たりの収益を増やすことができ、土地を最大限に利用できます」と彭元慶は言う。
技術団は現地の農家のために「栽培暦」を作り、輪作を指導している。苦瓜を収穫したら次はトマト、その後はインゲンを栽培するといった具合だ。輪作のメリットは、作物によって病虫害が異なるので、農薬の使用を削減できるという点にある。彭元慶は、農業というのは入念な計画が必要な産業だと強調する。リスクを減らすために、気候条件や資金も考慮しなければならない。農業協同組合では昨年1月から一年に満たない間に3種の作物を輪作した。2~5月には苦瓜、7~10月にはトマト、11月にはインゲン豆を植えた。「私たちがシェアしているのは現実的で平易な『生産期調節』で、いかにスマートファーミングを行なうかということです」と彭元慶は言う。
このプロジェクトに参加する農家は、農薬や肥料使用に関してデジタル記録を取る訓練を受ける。これがあれば、問題が発生した時にどう対応すべきか指導できるからだ。また、技術団は気象ステーションを設け、日照、湿度、温度などのデータを収集している。ひとつの作物の栽培が終わると、彭元慶は農家を集めて検討会を開く。気象情報などと合わせて分析・説明し、市場価格なども記録し、データを活かしている。
彭元慶にはさらに長期的な構想がある。「みんなの力で新たな販売ルートを切り開くことです」と言う。多くの農家が集まって一定の生産量に達したら、農家とともに地元のスーパーなどに販売を持ち掛けたいと考えている。こうすれば価格交渉ができるし、またデジタルの生産履歴や台湾技術団の指導もあるので、自分たちの作物に「ストーリー」を持たせることもできる。
台湾には高度なテクノロジーを活かした農業施設があるが、彭元慶は、こうした「重装備」を現地に導入するのは現実的ではなく、農家も負担できないと考えている。それよりも、シンプルな投資で最大の効果を上げ、農家の人々に実感してもらいたいというのが彼の考えだ。協同組合のマルレーヌ・ガルバン・ベルナルディーノ主席は、以前は稲作の収入も不安定だったが、台湾技術団の指導を受けたことで短期間で現金収入が得られるようになり、またデジタル記録導入の成果にも触れることができたと語る。以前は海外に働きに出ていたが2人の30代の農家は、今は帰省してこのプロジェクトに参加している。農地管理を学び、自分が経営者になることで収入も増え、意欲的になったという。
台湾技術団の指導の下、地元農家ではすでに3種の作物を輪作し、短期間で現金収入を得ることができた。
多重災害の被災エリア
台湾の家扶基金会(弱者児童・青少年およびその家庭をサポートするNPO)は、2019年11月にフィリピンに事務所を設立した。張凱莉が代表として12月に着任すると、地域を訪問してサポートの必要な家庭を探し、また現地の公的部門との関係を築いていった。ところが、思いがけないことに、翌年から次々と困難な課題に見舞われることとなる。
2020年1月にマニラの南にあるタール火山の噴火活動が活発化し、2月には新型コロナウイルスが発生したのである。
家扶基金会が活動するのはマニラ近郊のマンダルヨン市アディション・ヒルズ地域で、ここには人口41万人を擁するスラム街がある。この地域で新型コロナウイルスの感染が急激に拡大したため、3月12日、フィリピン政府は2日後の15日にこの地域を封鎖すると発表した。2日しか猶予がないというので、張凱莉と同僚たちは手を尽くして緊急に物資を調達し、14日にサポート対象の80余世帯に配布した。
その翌日、街は完全に封鎖された。
それから2か月余り後の5月末、ようやく封鎖が解除されたが、屋内で人が集まることは禁止されていた。6月2日、彼女たちが街に入って2回目の物資を配布したところ、街頭でうろうろしている人が激増していた。実は前の晩に大火事があり、民家900戸が焼け、4000人が家を失ったというのである。
インフラが不足しているフィリピンでは一般に農産物が不足しており、多くを輸入に頼っている。
レジリエント・コミュニティ
「コロナ禍に対応しているさなかに、今度は大火災が発生し、私たちは、ようやく多重災害を意識しました。これは地域社会に多大な影響を及ぼしており、家扶基金会のサポートは『レジリエント・コミュニティ』の方向へと向かうことになったのです」と語る。
家扶基金会は子供たちへの経済的支援を中心に活動しているが、フィリピンでは、それ以前に「生存」自体が課題となっていた。「パンデミックはいずれ収束し、火山の噴火も数年に一度ですが、火災は違います。貧しさと環境が変わらなければ改善できません」
そこで基金会はリソースの一部を地域の環境改善に投入し、地域の親たちの力を高めることにした。「親たちは街頭にいるので、街での出来事や人々の様子を常に見ていますから、地域の指導に当たれるのです」と言う。
家扶基金会が活動を始めた頃、町内会長や区役所などを訪問したが、公的部門はまだ様子を見ている状態で、協力の意欲は高くなかった。そこで張凱莉は自ら消防署と連絡を取り、地域の親たちに基本的な防火訓練を行ない、防災知識を持ってもらうことにした。こうして一つずつ取り組んでいくうちに、公的部門も家扶基金会が本気で地域をサポートしようとしていることに気付き始め、防災パートナーとしてともに取り組むこととなった。区役所の防災部門がリソースを提供してくれることとなり、一緒に地域の防災地図を作成して消火器の位置を描き込み、住民たちが火災発生時にどう対応すべきか分かるようにした。さらに政府に危険な家屋の改築を呼びかけ、建材を燃えやすい木材からコンクリートへと変えるなど、実質的に居住者の安全を改善している。
従来、防災や公共安全の政策は公的部門がトップダウンの形で計画実施するものだが、家扶基金会の事例はすべてボトムアップの形で公的部門に働きかけている。家庭や地域が災害に対応する能力を持てるよう訓練しているのである。その結果、官民とNGOによる三者会談も実現している。地域の母親たちが区長のオフィスを訪れ、地域のニーズを伝えることもある。以前では考えられなかったことだ。
「家扶基金会は、各部門のリソースを統合して地域に投入するためのプラットフォームの役割を果たしています」と張凱莉は言う。2022年11月19日、家扶基金会は台湾の外交部の強力な支持を得て、この地域で成果展を開いた。地域の親たち300人以上が参加し、演劇の方法でこの2年余りの消防安全対策とレジリエンス・コミュニティ計画の成果を示し、人々の感動を呼んだ。「私たちのスタッフが自ら現場で経験し、現地のニーズをきちんと理解しているからこそ、直接的で実質的なサービスが提供できるのです」と家扶基金会の周大堯CEOは語る。
技術団が設けた気象ステーションは農地の気象データを収集している。彭元慶(青い帽子)は農家の人々と検討会を開き、データを分析して説明している。
無料診療で笑顔を取り戻す
早朝、マニラのサンタ・メサ地区にある慈済基金会(財団法人台湾仏教慈済慈善事業基金会/台湾の仏教系慈善団体)の無料診療エリアを訪れた。眼科センターの外には大勢の人が待っていて、外で登録を済ませた後、屋内に入る。眼科センター責任者の李偉嵩が出てきて無料診療の状況を話してくれた。「多くの人が朝の5時から並び始めます。今日は200名余りいますよ」
こう話しながら、李偉嵩はタガログ語で人々に話しかける。ここでは人々は無料で診療を受けられるが、地元政府に健康保険の補助は申請する。ただその金額は微々たるものなので、99%は華人からの寄付金で支えられている。
「慈済基金会がフィリピンで無料診療を始めて28年になりますが、東西南北のあらゆる地域を訪れ、大規模診療も250回ほど行ないました。その後、皆がいつでも来られるように特定の場所を設けた方がよいという意見があり、ここに拠点を置くことにしたのです。その時点で、医師が十分にそろっているのが眼科だったので、眼科診療から始めてすでに17年になります」
家扶基金会の張凱莉は、現地で多重災害が発生していることに気付き、家扶基金会のサポートを「レジリエント・コミュニティ」構築の方向へと転換している。(家扶基金会提供)
一人の患者もあきらめない
午前の手術を終え、柯賢智医師が私たちに会いに来てくれた。まずスタッフの女性が慈済基金会のフィリピンでの活動のきっかけを話してくれた。最初に赴任した責任者が医療サービスを行ないたいと考えていた時、慈済の委員を務めていた柯医師の母親が手を挙げ、息子が医師だと発言した。「こうして母が私を慈済に寄贈したのです」と柯賢智が言い、笑いを誘う。
彼が無料診療について話してくれた。最初の頃はすべてが困難な中で行なわれ、学校のスペースを借りて診療をしていた。事務机を手術台にし、壁のライトを取り外して手術用の照明にした。彼はスマホを取り出し、当時の、簡単な担架の作り方を示す手描きの図面を見せてくれた。遠くから来た患者に「住んでいるところはどこですか。あなたの住んでいる町まで行って診療しますよ」と尋ね、遥か彼方まで道を尋ねながら大勢で行くこともあったという。
フィリピンでの無料診療は1995年から始まり、高い評価を得て、評判が広まった。これを知った仏教慈済医療財団法人の林俊龍CEOは、その成果をフィリピンまで見に行き「困難に満ちているが、素晴らしい成果を上げている」と称えた。
慈済基金会の無料診療は、台湾から世界各地へと広がっており、これに参加する医師たちは「国際慈済人医界TIMA」を結成している。毎年中秋節には台湾に戻り、花蓮で慈済の創設者である證厳上人とともに祝日を過ごす。これは慈済人医界TIMAの伝統となっている。「皆が帰国して一堂に会し、世界各地での無料診療の経験を分かち合い、切磋琢磨できるのは素晴らしいことです。飛行機で40時間もかかる遠い国からも帰国しています」と林俊龍は語る。
フィリピンでの無料診療においては、想像を超える症例も多い。柯賢智によると、ここではお金がなくて、症状が軽いうちに病院に行けない人が多いため、悪化してからようやく診療を受けるケースが少なくないのである。そのため、地方へ診療に訪れる際には、可能な限り多くの患者を診るようにしている。治療を受ける機会を失ってほしくないからだ。
昨年10月1日、慈済基金会創設者の證厳上人は、慈済フィリピンセンターによる病院設立計画の推進を祝福した。
実は数年前からこの計画はあったのだが、土地の問題で進展していなかったのが、ようやく目途が立ったのである。柯賢智の名刺を見ると、肩書のほかにMD、MBA、MHMと書かれている。MDは医学博士、MBAは経営学修士、MHMというのは病院・医療管理学修士を指す。期せずして、この時のための準備ができていたのである。「これらが役に立つのは、今生ではなく、来世のことだと思っていました」と満足そうに笑う。70歳の彼は、これからチームを率いて新しい病院の設立に取り組むこととなる。「病院が完成したら、定点での医療サービスを安定的に提供できますが、その後も地方での無料診療は継続します。マニラまで来られない人は大勢いるのですから、このサービスは続けていきますよ」と言う。
28年にわたる物語は語り尽くせない。病院が完成したら再びフィリピンを訪れ、物語の続きをうかがいたいものだ。
火山の噴火やコロナ禍に加え、サポート地域で大火災が発生し、住民は「生存」さえ脅かされるようになった。(家扶基金会提供)
家扶基金会は生活物資を支援するだけでなく、サポートする家庭の心のケアにも関心を寄せている。(家扶基金会提供)
家扶基金会は区役所の防災部門からリソースを引き出し、ともに地域の地図を作成し、火災が発生した時にどう対応するか住民に示している。(家扶基金会提供)
家扶基金会は地域のパトロール隊を育成し、消火設備を寄贈するなどして安全な居住環境の構築に努めている。(家扶基金会提供)
慈済基金会眼科センターによる無料診療はすでに17年を数える。専門性の高い医療サービスによって多くの患者が光を取り戻している。
手術を待つ患者の右目の上には、患部の簡単な情報が書いてある。写真を撮っていいかと尋ねると笑顔で応じてくれた。
柯賢智は病院を建てるのは来世のことだと思っていたが、思いがけず願いがかない、70歳でチームを率いて新たな病院を設立することとなった。
医師も看護師も困難な環境で分け隔てなく無料診療を行なってきた。どの患者も治療の機会を失ってはならないという思いからだ。(柯賢智提供)
眼科センターの李偉嵩はタガログ語で患者たちに声をかける。常に忙しい眼科センターだが、明るい雰囲気に包まれている。