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タイ・ミャンマー国境 少数民族と難民に愛情を注ぐ林良恕

タイ・ミャンマー国境 少数民族と難民に愛情を注ぐ林良恕

文・劉嫈楓  写真・林格立

2月 2016

タイとミャンマーの国境地帯に来て20年、ミャンマー難民や移住労働者を支援し、山地の少数民族集落を助ける。写真は林良恕とChimmuwaワークショップの仲間たち。

島に暮らす私たちにとっては、国境という概念にはあまり馴染みがない。1996年、台北海外和平服務団(TOPS)は、タイとミャンマーの国境地帯に入り、十数万人の難民の援助を開始した。彼の地と台湾はつながりを持ち、今では国境の声は遥か彼方のものではなくなった。

20年前、ある台湾人女性がタイとミャンマーの国境に位置するメーソートにやってきた。ミャンマー難民を支援し、タイの奥深い山地で女性や子供を助ける。なぜそんなことを始めたのかと尋ねると「自分のためにではありません」と笑う。その女性の名を林良恕という。

モエイ川の川沿い、隣国ミャンマーとの国境からわずか5キロの町メーソートには、ミャンマーからの多くの難民が故国を離れ、平和な暮しを求めて逃れてくる。

人口わずか10数万の町に、国連難民高等弁務官事務所やボーダー・コンソーシアムなどの国際機関が集まり、台湾のボランティア団体も教育、医療などの援助提供に訪れている。その中で、ここで働く誰もが知る台湾人女性がいる。台湾から来たボランティアは良恕姉さんと呼び、外国人ならシルヴィアと呼ぶ林良恕がその人である。1995年に最初にメーソートにやってきてから、彼女の足跡は町のあちこちに残されている。

運命に駅馬(旅の運)の相があると笑う林良恕の肩書は、台北海外和平服務団タイ駐在の責任者、フェアトレード会社Borderlineの創設者など、ここ何年かの間に次々と変っていった。変わらないのは、第一線に立ち続ける彼女が見つめる現地の人々のニーズである。

現地の複数の女性団体と共同で、フェアトレードの店ボーダーラインを運営する。店の名の通り、国境の町メーソートにある。

人生の意外な転機

メーソートへの幹線道路を行くと、Borderlineの看板が遠くから目につく。その店に一歩足を踏み入れると、棚にはカレン族やラフ族など少数民族の伝統的な手織り製品が並び、奥の空間はミャンマー風のカフェになっている。2階に上がると、壁一面にミャンマーのアマチュア画家の作品が掛けられている。

近年になって、社会的起業の波が世界に巻き起こっているが、2004年創設のBorderlineは、早くから公益の理念を企業経営に盛り込んでいた。派手な宣伝も、ややこしい理念もない起業で、始めた理由はごくシンプルだった。

台北海外和平服務団のタイ駐在責任者だった林良恕は、1997年にタイとミャンマーの国境の町メーソートに設置されたアジア最大のメラ難民キャンプに派遣された。難民キャンプの人々はキャンプの外と自由に行き来できないため、林良恕はキャンプ内のカレン族女性の自治団体と協力し、その製作した伝統織物を購入することで彼らに収入の道をつけることにした。

最初は簡単な副業の場を提供するだけだったのだが、それが彼女の人生に意外な転機となって、Borderline設立の出発点となったのである。

2003年に41歳となった林良恕は10歳年下のカレン族の青年Saooと恋に落ち、電撃結婚して子供ももうけた。小さい頃、母の仕事が忙しく、かまってもらえなかったことが心の傷になっていたため、子供は生まないと公言していた林良恕だが、子供ができると、直ちに仕事を辞め、子育てに専念しようと決意した。

難民キャンプで働いていた時期に、NGOのKWOやWEAVEの仲間たちと知り合い、そのメンバーを誘って、育児と両立するためにBoderlineを立ち上げた。何人かの友人と力を合わせ、織物製品を取り扱う店を出したのである。

開店当初は現地の女性団体を助けるのが目的で、製品を提供する会員からは5%の販売手数料を徴収するだけで、売上の殆どは現地団体に渡るため、Borderlineにはほとんど利益が残らなかった。店舗の賃料と人件費にかかる毎月1万バーツの経費の多くは、林良恕が個人で穴埋めしていたのである。

このように苦労して経営を維持して数年たつうちに、Borderlineのビジネスはようやく軌道に乗り始め、ミャンマー風のカフェと料理教室を増設するようになった。現在では著名な旅行ガイドブックの『ロンリープラネット』に、必見の店と紹介されるようになった。

手織りの布地のカレン族をイメージさせる人形。いずれもChimmuwaのメンバーが一針ずつ縫ったものだ。

山地に分け入り、カレン族を支援

Borderlineと同時に開設したブランドChimmuwaも、同じ熱意から生まれた。

林良恕は1998年からタイの山地集落への訪問を開始し、国境地帯には各界が関心を寄せるミャンマー難民だけではなく、誰も関心を寄せないタイ国籍のカレン族集落があることを知った。国境を越えてきたミャンマー難民の多くと同じカレン族なのだが、山地に居住する彼らの生活はさらに厳しいものがあった。

僻地にあり外界との接触が難しいため、山地集落では教育も医療資源も乏しかった。林良恕が最初に知り合ったカレン族集落の村長Tipは、山の子供の教育のために、町の国際NGOに援助を求めて徒歩で山を下りてきた。それが伝手をたどって林良恕に紹介されたのである。

援助計画を考え、近辺の集落で学校を運営するフランス人神父に教えを請うた。そこで、カレン族の住民が山を下り学校や病院に行こうとしても、タイ語が分からないために平等な待遇を受けられず、役人からもひどい扱いを受けると聞き、胸が痛んだと彼女は話す。

この援助計画のために集落をたびたび訪れるようになると、村人は別れ際に手製バッグやサロン(巻きスカート)をお礼に手渡してくれた。林良恕は難民キャンプ時代からカレン族の工芸品が好きだったので、手織り布をバッグやスカーフにデザインすることにした。

これらの製品は堅苦しく「Karen Network for Culture and Environment」とばべれていたが、林良恕はいろいろ考えた挙句、以前に贈られた伝統衣装の「Chimmuwa」をブランド名に選んだ。この衣装は純白のワンピースで、未婚女性だけが身に着けられるものである。

当初のChimmuwaブランドの製品は、林良恕とカレン族の家政婦のNaw Nawが二人でデザイン、縫製していたが、今では何人もの人が働いている。林良恕の住まいのそばにある作業場の壁には、多くの写真がこれまでの歴史を語る。ミャンマー難民でも、遠い集落から来た山の住民でも、林良恕にとっては家族のような存在である。

ある時、友人であるデザイナーが山での買付に一緒に行ったことがあった。友人は生地にキズを見つけて買うなと止めたが、彼女は宥めながら「私たちは単なる取引相手ではなくパートナーなの」と言った。問題があっても買付けないのではなく、何時間も車を走らせて織り手の村に行って、どこに問題があるのか話し合うのである。

またある日、林良恕は台湾の記者に付き添って集落を訪れた。集落の女性と談笑し、教師の家を訪問するうち、ある女性が蝋燭の薄明りの中、白いビーズを縫い付けた手製の民族衣装を持ってきた。サイズは規格に合わなかったが、生地を確認し、縫製を確かめて、彼女はその衣装を購入したのである。

綿花の採集、糸紡ぎ、染色から織布まで、大地にやさしい手織り工芸は、集落の古い伝統であった。しかし、複雑な工程を必要とするため、次第に伝統技術を捨て、化学染料の糸を購入するようになった。また生活のため、山地にトウモロコシを栽培し、大量の農薬を撒くこともある。「手織りの布を購入することで、環境にやさしい手織りの伝統を残していけます」と彼女は言う。

2006年に林良恕は台湾で製品のチャリティ・セールを行った。それから台湾でChimmuwaブランドを知る人が増え、台湾でのセールに集まる人も多くなった。それでも彼女は「Chimmuwaはスタートに過ぎず、これからもっと色々なことをやりたいのです」と、2015年10月に台湾に戻って開催した座談会において、その理念を語った。

Chimmuwaの製品を紹介すると共に、消費に対する理念も伝えたいという。商品を購入する時に、その背後の意義を考え、人と人、人と土地や自然との繋がりに思いを致し、消費者から集落の村民まで、連なる一人一人がそこから成長していければと願う。こういった繋がりこそが、社会的企業の精神なのである。

手織りの布地のカレン族をイメージさせる人形。いずれもChimmuwaのメンバーが一針ずつ縫ったものだ。

将来の夢、自然の中のホスピス

Borderlineを軌道に乗せ、Chimmuwaも成果を上げていく中、夫を失った時の思いが林良恕の中に蘇ってきた。

結婚当初の幸せは、しかし長くは続かなかった。若い夫のSaooはガンを宣告され、妻と生後5カ月の娘を残して、わずか数カ月で世を去ってしまった。夫を失った時に、貧しい弱者に向き合って、人生の最期を看取るホスピスを作りたいという願いを抱いた。

その時は漠然とした願いに過ぎず、土地も資金もなく、すぐには行動には移せなかった。それが2011年になって「何もしないでいたら、永遠に達成できない」と思い、資金に宛てはなかったが、土地を探し始めた。彼女はいつも「やろうとした時に縁が回ってくる」と言うが、土地が見つかってからほどなく、ある台湾の実業家の資金援助を受けられることになり、自然農場を併設したホスピス計画が形になってきた。

土地と資金を調達しても、すぐには工事に入らず、自然環境の復原から始めた。末期がん患者の夫に付き添ってきた経験から、その段階ではさらなる医療や投薬は必須ではなく、むしろ自然に回帰し、心の安らぎを取り戻すことが最良の治療だと彼女は考えたのである。自然の中、ホスピスのシンプルで純朴な環境で人生の最期を迎えるというのが彼女の理想なのである。竹を組んだ茅葺の高床式の家に鳥の声が聞こえるというのが、ホスピスの未来図である。だがその完成というと、自然環境の回復に時間がかかり、いつとは明言できない。いつも言っている通り、機が熟せば完成すると、彼女は笑う。

時にやさしく、時に剛毅で、時に厳しい表情を見せる林良恕は、29歳で決然と台湾を離れ、まずアフリカの難民キャンプに向い、その後は各地を転々とし、カンボジアから最後はタイ国境の援助活動に身を投じて20年になる。思い立つとすぐに行動を起こす林良恕の人生は、傍から見ると次から次に起こる事件の連続である。しかし彼女にとって、次の決定を下す時は常に心の底からの直感によって進むのであり「考えすぎは私の性格ではありません。目の前に必要とすることがあればやるしかないだけのことです」と言う。

四輪駆動のトラックの傍らに立つ林良恕の痩せた身体は頼りなさそうだが、それでも気丈な雰囲気を漂わせている。身に着けた衣服やバッグ、手にしたハンカチなど、カレン族のスタイルを取り入れた林良恕は、手を振ってともに別れを告げ、次の集落へと出立していった。

手織りの布地のカレン族をイメージさせる人形。いずれもChimmuwaのメンバーが一針ずつ縫ったものだ。

Chimmuwaのメンバーはすでに何代目かになる。写真は若いメンバーが真剣にバッグの型紙を取る様子。

林良恕は十数年前に教育援助計画のためにタイの山地を訪れ、カレン族の伝統に惚れ込んだ。その集落はまるで実家のようである。

僻遠の地、外界から孤立したカレン族の集落では、教育や医療、生活資源の不足が深刻だ。

「辺境こそ私の生きる場所」――常に直感で決定を下してきた林良恕は、メーソートの町のために力を注いでいる。