
早朝4時過ぎに起床し、机に向ってペンを走らせ、ジョギングをして再び深夜まで言葉を紡ぎ続ける。これが作家・李栄春の生活であり、その執筆活動は五十年余り続いた。
生涯にわたって文学創作を志した李栄春は、一生独身を貫き、臨時雇いの仕事でわずかな糧を得ながら一人机に向かう日々を送った。世に出ることなく1994年に逝去した後、遺族はタンスの中から300万字にのぼる原稿を発見した。遺族はそれを整理して出版するとともに、李栄春文学館を開き、その生涯にようやく光が当てられた。
宜蘭県頭城、開蘭旧路にある李栄春文学館は日本時代の小学校の教員官舎だった建物である。国民政府の時代になってからは頭城小学校の校長官舎となり、最後の校長が退任した後、建物は長年放置され、一度は取り壊されることとなったが、多くの人がこれを残そうと働きかけ、宜蘭県文化局は歴史的建築物を利用した頭城鎮史館として保存することを決めた。そして2009年、ここに李栄春文学館が増設され、頭城の町にさらに文化遺産が加わった。

『洋楼芳夢』の手書き原稿
生涯文学を志す
1914年に宜蘭県頭城に生まれた李栄春は李家の4番目の子供で、父を早くに亡くし、母親の黄針が女手一つで一家を支え子供たちを育てた。母の教えの下、李家の兄弟は仲睦まじく、和気あいあいとした家族だった。頭城の美しい大自然の中で李栄春は鋭敏な観察力と豊かな感受性を身につけた。十代で文学に触れて夢中になり、その道を志すきっかけとなった。
1937年、24歳の時に李栄春は「台湾農業義勇団」に加わり、日本政府に従って中国大陸へ渡る。心の中では、祖国の抗日戦争の列に加わりたいという思いがあったが、台湾は日本の植民地であり、その願いがかなうことはなかった。中国大陸での9年間は李栄春の生涯に深い影響をあたえた。その頃に魯迅の作品を読み、生き生きとした叙述に心を動かされた。その経験が、後の作風に影響をおよぼしているのかも知れない。
李栄春は中国大陸にいた頃から執筆を開始した。戦火に蹂躙される庶民の姿を目の当たりにした彼は、この期間の見聞をもとに、60万字におよぶ最初の作品『祖国と同胞』を著した。日本統治時代の公学校を卒業した李栄春だが、私塾で中国語を学んだことがあり、独学で英語も学んだため、三カ国語に触れたことで視野と語彙も広かった。日本による統治が終わったばかりの戦後の台湾では、台湾出身作家の多くが日本語で執筆する中、李栄春は中国語で創作できる数少ない作家の一人だった。自ら中国大陸の戦火を経験し、中国語で著した『祖国と同胞』は、台湾において中国大陸での抗日戦争の歴史を伝える数少ない文学作品と言える。この作品が完成した1952年、李栄春はまだ39歳で、翌年に中華文芸賞金委員会から賞金を得ることとなった。そして小説の3分の1を出版したのだが、売れ行きは悪く、唯一出版された李栄春のこの作品は赤字となってしまった。
李栄春は1946年に台湾に戻ると末の弟の家に身を寄せ、甥の李鏡明を実の子のように可愛がった。その李鏡明の記憶によると、李栄春は生涯独身を貫くと決めており、毎日早くに起床するとすぐに執筆にとりかかり、午後には草取りやレンガ運びといった臨時雇いの仕事をして、わずかな糧を得、それを食費と原稿用紙やインク代に充てていた。付き合いなどはせず、生涯変わることなく大部分の時間を執筆に注いだ。

和風家屋に設けられた李栄春文学館は頭城の静かな通りにたたずみ、人々を文学の世界へといざなう。(荘坤儒撮影)
タンスの中の文化遺産
李栄春は作品を投稿し続けたが、生前に作品が認められることはなかった。母親は、前世に文学に借りがあり、今生でそれを返しているのだろうと言っていた。たった一人、文学の世界に没頭していた彼は、物質的には貧しかったが、創作の決意が揺らぐことはなく、暮らしを味わい、平凡な物事を非凡な感受性でとらえていった。例えば、『看搶孤』『中秋夜』『教子』などの作品には、頭城の中元節の伝統行事である搶孤の賑わいや、母親を中心に一家が揃う中秋節の喜び、弟とその子供たちのやり取りに見る教育哲学などを素朴ながら生き生きとした筆致で描いている。孤独に世間との関りを拒んできたように見える李栄春だが、その行間からは人生への熱い思いが垣間見える。その情感あふれる言葉から、彼がいかに心豊かな作家であったかが分かるというものだ。
李栄春は李鏡明に作品をよく読ませてくれたが、当時の李鏡明は伯父の文学に対する真摯な姿勢には敬服していたものの、作品を真面目に読むことはなかったと言う。それが1994年に李栄春が亡くなり、遺品を整理していた時、タンスの中にきちんと整理された300万字に及ぶ原稿が収められているのを見つけたのである。そこで、それまで見せてもらったことのなかった作品『洋楼芳夢』を開いてみると、それは李栄春がほとんど語らなかった半生——若い頃の海外や台北で過ごした日々を綴ったものだった。それを読み始めてみると、李鏡明はその文章の魅力に取りつかれて多くの想いが溢れ出し、立てつづけに作品を読み漁って幾晩も眠れなかったという。
全作品を読み終えた彼は、李栄春がかつて「お前に無限の富を残してやるよ」と言った意味に気付いたのである。祖国の歴史や故郷への想いを綴った膨大な作品は華語文学でも希少なものだ。これを何とか世に残そうと、李鏡明は作品を整理して『懐母』『海角帰人』『烏石帆影』『八十大寿』などの10冊にまとめ、かつて出版した『祖国と同胞』を合わせて李栄春文学館に展示した。

館内の古い写真が物語を語りかけてくる。李栄春の貴重な手書き原稿や全集が置かれ、木の温もりを感じながら読書ができる。(荘坤儒撮影)
日本家屋の文学館で李栄春を読む
李栄春文学館の外には、その文学から描き起こした地図が掲示されている。李栄春の作品には、頭城でのあれこれが素朴な言葉で綴られているのだ。頭城の媽祖廟、中元の搶孤、和平街の盛衰など、この街のかつての姿が、読者に街の違う面影を見せてくれるのである。文学館では李鏡明とともに文学講座や頭城散策活動などを催し、人々に李栄春の作品を紹介している。
文学館ではボードや古い写真で李栄春の生涯を紹介している。作品を読み、その生涯に触れれば、彼がドストエフスキーやトルストイ、谷崎潤一郎などの作風に魅了されていたことがわかる。これらの養分を得た李栄春の作品を読めば、ひとつひとつのシーンが音楽を奏でだし、情景が鮮明に浮かび上がってくる。
今度、頭城を訪れた時には李栄春文学館を訪ねてみてほしい。落ち着いた色合いの和風の木造建築の中で静かな読書のひとときを過ごし、李栄春が生涯を注いだ言葉の世界に浸ってみようではないか。

李栄春の『洋楼芳夢』

李栄春は中国大陸滞在中に文章を書き始めた。大陸の人々が戦火に苦しむ姿を目の当たりにし、この間の見聞をもとに最初の作品、60万字にのぼる長編小説『祖国と同胞』を著した。

『祖国と同胞』が完成したのは1952年、李栄春がまだ39歳の時で、翌年には中華文芸賞金委員会から賞金を得ることとなった。

李栄春の『懐母』。

文学創作は李栄春の生命の源であり、彼は一日も休むことなく机に向かい続けた。(上/荘坤儒撮影)

李栄春文学館に展示されている作品。

李鏡明と文学館のボランティアが開催した「李栄春とともに行く」読書散策活動。李栄春の言葉をプリントしたTシャツを着て、作家の足跡を追いながら頭城の街を歩く。(Jac Queline撮影)

李栄春の大切な家族である甥の李鏡明は、原稿を発見し、それを整理して出版した。多くの人に李栄春の文学の美に触れてほしいと願っている。(荘坤儒撮影)