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南へ!台越交流

南へ!台越交流

経済貿易から医療支援まで

文・蘇俐穎  写真・林旻萱 翻訳・黒田 羽衣子

12月 2023

ホーチミン市は常に人と車であふれ、サイゴン川は船でいっぱいだ。混雑する交通状況は、ベトナム経済活況の裏付けでもある。

1986年、長年にわたる戦乱の影を振り払い、改革路線を選んだベトナムは、海外資本がなだれ込み、投資と創業の新天地となった。30年後、ベトナムの経済発展と共に8万人の台湾人企業家と4000社の台湾企業がこの地で大きく成長した。総額4,000億台湾ドルの投資額によって、台湾はベトナムにとって重要な投資大国となっている。

昶勇グループ創始者・袁済凡は将来的な可能性を見据えて、ベトナムへ渡った。

将来を見据えてベトナムへ

「子供が生まれる前には、もう靴製造の仕事をしていました」。ホーチミン郊外にある昶勇グループのホテルで、同グループ総裁の袁済凡が我々のインタビューに答えてくれた。海外で奮闘してきた過去をこう振り返る。

「当初の計画では、ベトナムに長く留まる予定はありませんでした」。1975年、袁済凡は靴のゴム中底と本底を主力商品として台南で起業した。プーマやアディダスなど、国際的なシューズメーカーを顧客としている。台湾は土地が狭く、人件費が高いため、より効率の良いビジネスのために海外進出を思い立ったという。

中国大陸への進出が盛んだった時代に、袁済凡は中国、インドネシア、タイ、カンボジアで現地調査を行った。当初ベトナムはアセアン地域での第一候補ではなかった。しかし、ベトナムは人口1億人、平均年齢30歳台、広々とした土地があって、人件費が安い。文化的にも台湾と近く、様々な条件を考慮して、彼はこの地を選んだ。

多くの台湾人企業家にとって、ベトナムでの長期滞在は予想外の成果だった。2007年にベトナムへ渡った和鼎隆建築公司の董事長、ベトナム台湾商会連合総会会長・簡智明も「こんなに長く滞在するとは夢にも思わなかった」と語る。ベトナムの将来性に投資した結果というよりも、ビジネスパーソンの直観が彼らを導いたといえる。

簡智明は国立成功大学建築学科を卒業後に建築士となり、台湾プラスチックグループと共に高雄長庚医院、嘉義長庚医院、麦寮製油所など台湾の大型公共建築に携わった。後に台湾プラスチックのベトナム進出計画によってこの地を訪れる。

建設業は特殊な業界で、未開発の地域こそ発展の可能性がある。一度は上海で活躍の場を探したこともある簡智明だが、ベトナムでその機会を得た。台湾企業の多い南ベトナムで会社設立後、東南アジア進出ブームに乗り、台湾プラスチック、建大工業、興采グループ、震興グループなど台湾企業の工場や事務所建設を次々と請け負った。

ベトナムに来て今年で16年目を迎える。これまでに手がけたプロジェクトは180件を超え、200人の従業員と3000人の施工チームを有する規模に成長した。近年、ベトナム北部の発展と需要の高まりに対応するため、北ベトナムのハイフォン市に支店を設立した。実際のところ、ベトナムの経済水準が高まるにつれて、競争も激化している。「しかし、当社の経営は安定した段階に達しています」と簡智明は自信をもって答えた。

和鼎隆建築董事長・簡智明。縁あってベトナムを訪れ、この地に根を下ろした。

社会的責任の実践

ここ数年、ベトナムは東南アジアの投資先として人気を集めている。「以前は空港で企業家の友人に出会うと『どうしてベトナムに居るんだ?』と言われました。今では私の方から彼らに『君たちもついに来たな!』と声をかけます」と、袁済凡はユーモアを交えて語ってくれた。

ベトナムは台湾の海外投資先として第2位で、その投資額は6,000億以上に達する。各国の企業ごとに専門とする分野が異なり、韓国企業は高層ビルの建設、日本企業は新幹線や空港などの大型インフラ建設を担当し、台湾は紡績、木製家具、靴製造、自転車製造等、比較的早い段階でベトナムへ進出した中小企業の数が多い。近年建設された科学技術系の工場は、現地で数多くの従業員とその家族の生活を支えている。「台湾企業の社会的責任が注目されています」。自身の会社で1万人以上の従業員を雇用する袁済凡にとっても、それは重大な任務である。

企業の社会的責任について「本来は5つ星ホテルを建てる予定でしたが、病院を建設することにしました」と話す。震興医院の建設は企業が社会的責任を実践した最高の範例といえるだろう。

和鼎隆建築がドンナイ郊外に建設した震興医院を訪ねた。大通りに面した弧を描くような壁の巨大な建築は、堂々とした風格がある。中へ入ると高い吹き抜けのロビーがあり、診療スペースから病室までを一目で見渡すことができる。大胆なデザインと直観的な空間設計は、利用者に格式あるホテルへ入ったような感じを与える。

アジア最大の木製家具メーカー、震興グループの総裁・趙宗礼が我々を迎えてくれた。彼の案内で広い病院を歩く。投資に対する鋭い慧眼と驚くべき体力を持つと評価されるこの企業家は、自身が70代であることを全く意に介さない様子で胸を張り、溌溂と歩みを進める。

「1/3は病院、1/3はホテル、1/3は工場」と、趙宗礼は解説する。ゆったりとした空間に木製家具が置かれ、高級ホテルの雰囲気が漂うが、動線は工場の原則に基づいて直観的に設計されている。病床2200床、手術室50室、エレベーター42基を備え、高度医療を実践する機能を持つ。この規模の大型病院は全国でもそう多くはない。ビンズオンやドンナイなどの近隣地域では公立ドンナイ病院と震興医院の2軒のみだという。

早期にベトナムへ渡った台湾企業は製造業が多かった。労働力を必要とし、従業員数も膨大な数にのぼった。

ベトナムから得て ベトナムへ還す

趙宗礼は病院建設に至った経緯を語ってくれた。家具製造から事業を興した彼は、インターコンチネンタル、パークハイアット、ディズニー等の著名なホテルと長年にわたり仕事をしてきた。自身もホテル業界への参入を考え、ベトナムで許可申請をしている最中に役所でこう聞かされた。「なぜ富裕層の為にホテルを建てる必要があるんだ。現地の人々は病院を必要としているのに」 

ベトナムで病院建設の許可を取得するのは難しいという。台湾大学医学部付属病院、長庚医院も建設を希望しているが実現していない。長年ベトナムでビジネスを行ってきた趙宗礼だからこそ用地取得と病院建設の許可を得ることができた。最も称賛に値するのは、3億ドルの建設資金を自己資金で捻出したことだ。「私はベトナムで得たものを、ベトナムへお返しします」。堂々とした病院を眺め、彼は満足そうにこう話す。「結果的に、私もベトナムの人々を失望させずに済みました」

様々な困難を乗り越え病院運営が始まったところで、新型コロナウイルスが世界に蔓延した。我々は次に震興医院の元副医院長・張武修を訪ねた。コロナの感染拡大期間に副医院長だった彼は、身をもって不安な非常事態を体験している。

公衆衛生の専門家である張武修は、SARSが流行した期間には台湾衛生署の顧問としてWHOに向けて発言した経験を持つ。海外で医療に従事する夢を叶えるため2021年3月に副医院長という肩書きでベトナムへ渡った。

5月、ベトナムで感染が拡大する。初期段階の混乱と不安の中、患者は命の危険と隣り合わせ、医療機器や薬、ワクチンを得ることも容易ではない状況で、台湾企業は互いに協力を惜しまず、団結して助け合った。震興医院は地方医療の重要拠点として、真っ先にラゲブリオ、ベルクリーといった抗ウイルス薬やモデルナ、ファイザー等のワクチン提供機関となって、多くの人命を救った。

絶えず進化し続ける昶勇。新しい工場は、AI制御とグリーンエネルギー利用が標準となる。

「医療南向」の新モデル

感染規模がSARSを大きく上回った新型コロナウイルスの流行について、張武修は医師として真摯な想いを日記形式の文章で綴った。後に『ベトナムでの医師の記録』と題して出版された書籍を指しながら、単身で異国に渡り任務に当たった彼はこう語った。「心の奥底で感じるものがありました。だからこそ書き残したのです」

現在、彰浜秀伝記念医院で国際部長を務める彼は、台湾とベトナムを頻繁に行き来して、海外とのつながりを強化している。産業的な観点からみて、台湾の医療人材は非常に優秀であり、“白い巨塔”の垣根を越え、世界とつながることで、競争力を高めることができるという。

国境を越えた交流は、ベトナムの医療水準を引き上げ、台湾の医療が前へ進む原動力となっている。震興医院の設立は「医療南向」の新しいモデルとなった。「特定の医療技術に留まらず、専門領域において系統的で全面的な交流が可能になりました」と張武修は話す。

実際に台湾とベトナムを最も強く結びつけているのは経済貿易である。戦略と度胸そして見識をもって台湾人はベトナムへ渡った。軽いフットワークと、動じない性格でベトナムに根を下ろし、枝葉を伸ばしている。だが台湾の強い経済力があることで、様々な場面で相互作用が促されてもいる。台湾とベトナムの交流は、深さと温もりのある人と人の心のつながりに立ち戻れるのだ。

経済発展中のベトナム。道路は常に車であふれている。

震興グループ総裁・趙宗礼は震興医院を設立し、木製家具メーカーから医療産業に進出した。

高級ホテルのように広々とデザインされた震興医院。

看護職員の試験場。活気のある場面から、ベトナムの活力が伝わってくる。