台湾政府は1990年代初頭に「南向政策」を、2016年からは「新南向政策」を展開し、ASEAN10か国は台湾の起業家を引き付ける夢の新天地となった。それと同時に台湾は東南アジアの労働者に労働市場を開放し、台湾人との結婚を機に台湾に移り住む東南アジア出身者も増えた。
新しい移住者はオープンマインドで、異郷の良さを見出してくれるだけでなく、自らの強みを生かして、それぞれの場で輝いている。
あなたの「南向」
彼女は30代前半で、「さとり世代」のような消極性はなく、自然体で落ち着ている。学歴も家柄も普通だが、ベトナムの大手上場繊維メーカーで管理職に就き、数十名の部下を束ねている許元瑜さんは、千名近い従業員の中で唯一の、台湾籍の幹部社員だ。彼女はいかにして自分の道を切り開いてきたのだろうか。
許元瑜さんは東南アジアをキャリアの主軸に定め、ほかの人とは違う人生を歩んでいる。(許元瑜提供)
ニッチなブルーオーシャン
桃園にあるそのお宅はシンプルな空間にベトナム語で書かれた勅令や檄文などの歴史的文書が無数に飾られている。我々は短い休暇で台湾に帰省している彼女を訪ねた。大きなテーブルを前に許元瑜さんと父親の許燦煌さんが座っているが、彼女がベトナムで働くことになったきっかけはまさにこの父親で、彼は自ら淹れた台湾紅茶の香りの中で、子どもたちの教育について語り始めた。
「旧南向政策」を代表するような許燦煌さんは、1992年にベトナムに渡って事業を始めたが、10年ほどすると子どもたちの成長を見守りたいと考え、成功を収めていた会社を手放し台湾に戻った。教育も子どもの将来も、ビジネス同様「他人と同じことはする必要がない」と考えていた彼は、子どもたちに自分の道を歩むよう励ました。そして許元瑜さんが元智大学に入学すると、人気科目ではないベトナム語を第二外国語として選ぶよう勧め、夏休みになると娘をベトナムの友人の実家に長期滞在させた。
「父は毎年、帰省するベトナム人の友人に『実家はレンガ造り?それとも藁葺き?』と尋ね、相手がレンガ造りだと言うと、『そりゃいい。うちの娘を一緒に連れて行ってやってくれ』って言うんですよ」と彼女は楽しそうに教えてくれた。
このような教育方針の下でベトナムとの結びつきを強めた許元瑜さんは、卒業後、東南アジアでの就職を考えるようになった。彼女は真っ先にベトナムでの就職を考えたが、新卒者が希望通りの就職をするのは容易ではなく、遠回りせざるえなかった。財務を学んだ彼女はまず専門を生かしてタイに進出した台湾企業に就職して結果を出した後、ベトナムの日系企業に転職した。そこで財務から市場開発まで担当して実力をつけ、繊維分野でのリーディングカンパニー「センチュリー・シンセティック・ファイバー(Century Synthetic Fiber Corporation)」に入社した。
営業マネージャーの許元瑜さんは、会社全体の業績をマネジメントしている。彼女がベトナムに赴任する前、彼女の上司は台湾出張の際わざわざ彼女の両親に会いに来たそうで、許さん親子の話を聞いた我々は、儒教思想の影響を深く受けているベトナム人が、いかにマナーや思いやりを大切にし、家庭や人として守る道を重視しているかを理解した。上司がわざわざ彼女の家族を訪ねたというのはまさにそういうことなのだ。
長年、ベトナム人とともに働いてきた許元瑜さんは、マネジメントについて独自の考え方を持つようになった。「ベトナム人はプライドが高いので、業務上の問題を解決するだけでなく、彼らのメンツも考えなければいけません」管理職としての能力も足りないのに、皆の前で部下を叱っても、なかなか分かってもらえない。それどころかマネジメントはさらに難しくなる。「でも、逆に言えばベトナム人は自分より有能な人を尊敬してくれます。自分自身が有能であれば、たとえ部下を叱責しても最後は受け入れてもらえるのです」
これはベトナムで働く多くの台湾人ビジネスマンの意見と一致する。ベトナム人はタフで自尊心が高く、英雄主義的だと言われているのだ。
移民二世の存在によって、台湾はより柔軟でより寛容になるだろう。(赴憶文化提供)
ビジネスマンから収集家へ
ベトナム人の国民性を理解しているがゆえに、許元瑜さんは現地でのマネジメントに成功したが、その父親である許燦煌さんはさらに歴史の流れからベトナム文化を深く理解している。リビングを出て彼の案内で階段を上がり、美術館の展示室のように書画が飾られた廊下を抜けると、「許燦煌文庫」と書かれた札が掛けられた最上階の小部屋にたどり着いた。
許燦煌さんはベトナムの歴史的な書画や工芸品のコレクターでもある。約 30 年にわたる収集で、皇帝が出した勅令、皇帝に進上された文書である奏摺、そのほかの古文書、役人の帽子や官印など 3000 点以上の品を所蔵している。豊富なコレクションは、一般的な国際学術機関が所蔵している数をはるかに上回っており、多くの学者が研究のために訪れるそうだが、ベトナム人にとって民族の記憶と歴史の逸話を呼び起こすこれら収蔵品の歴史的価値は計り知れない。かつてここを訪れた英国BBCのベトナム人記者も涙を禁じえなかったほどで、「それを見て私まで涙が出てきました」と許さんは言う。
実益優先のビジネスマンが、どのようにしてベトナムの歴史的な文物を専門に収蔵するコレクターになったのか。その物語は許燦煌さんの渡越から始まる。1985年、ベトナムが市場経済導入を決め、外国からの投資を歓迎し始めた頃、台湾での事業に失敗していた許燦煌さんは、友人の誘いで2000米ドルを携え、ビジネスチャンスを求めてベトナムに渡った。
台湾人ビジネスマンの多くが特定の工業団地に工場を開設して事業を始めたのとは異なり、彼はベトナム人の人脈を利用して各地のデパートやスーパーに専用カウンターを設けて日本の化粧品の販売を始めた。
経済発展の波に乗って彼のビジネスは成功した。しかし、業務で各地を回ることに忙殺されていた許燦煌さんは、故郷から遠く離れた寂しさもあってか、ふと漢字で書かれたものを読みたいと思うようになった。 「1995年、私はホーチミン市のグエン・ティ・ミン・カイ(Nguyen Thi Minh Khai)通りにある古本屋で、『秘伝万法帰宗』(古い道教の書物)を約2万ベトナム・ドン(約50台湾元)で購入したんです」 彼は時間、場所、購入した物すべてを鮮明に覚えていた。
フランスの植民地時代に文字表記がローマ字に切り替えられるまで、ベトナムでは長年漢字が使われていた。そのため現代のベトナム人には読めなくなってしまった古文書が、台湾人になら読めたのである。ただ、当時、まだベトナムの歴史に疎かった彼は古本屋に積み上げられた古文書を見て、「たとえ読まなくなっても、台湾に持ち帰ったら高値で売れるだろう」と算盤を弾いていたのも事実だ。
気前よく買い物をする許燦煌さんは古書店主たちの注目を集め、次から次へ仲間が紹介された。当時、ベトナムの文物は中国の骨董品や古文書ほど人気がなく、彼自身もその真偽や価値に若干の疑念を抱いたが、そこに書かれている漢字と、その根底にある文化は彼の心をときめかせた。
許燦煌さんの家主だったグエン・フー・フイ・クアンさんは、ベトナムの文化や歴史に対して関心を高めていた彼に、2冊の本を貸してくれた。1冊はベトナム文学の国宝級古典『金雲翹伝』で、もう1冊は『越南史略』だ。『越南史略』をめくりながらグエンさんは自らの出自を語ったというう。なんと、いつも一緒にフレンチビリヤードに興じ、牛の胃袋や魚の頭を食べ、ビールやコーラを飲んでいたこの男は、実はベトナム最後の王朝であるグエン王朝の末裔であり、曾祖父はフランスに抵抗した独立運動家で、日本に亡命し、台湾にも短期間滞在したことがあるクォン・デ王子だったのだ。偶然のつながりに許燦煌さんは言葉を失ったが、それはまるで運命に導かれたようだった。ベトナムの歴史の扉が開き、自分はその中に招き入れられたのだ。
ベトナム文化に惹かれた許燦煌さんは、歴史的な文物のディティールすべてに深い好奇心を抱いている。
古い物に宿るベトナムの魂
歴史的な文物が増えるにつれて好奇心も増し、許燦煌さんは台湾に帰るたびに図書館の貴重書室に籠った。それらの資料に導かれ、探索の範囲は広がっていった。そうして再び自らのコレクションを振り返って比べると、さらに疑問が生じるのだった。「一つ穴を埋めたら、また一つ別の穴を掘るようなものでした」 しかし、今の彼はベトナムの歴代王朝名と年号をすらすら暗唱することができ、すべての勅令に書かれた年号、印泥、落款、文言、紙、図柄について詳細な知識を持っている。
細長く伸びるベトナムの各地を旅し、路傍の古本屋やのみの市、地方の民家を訪ねながら、いかにしてそれらの物を手に入れていったのか、許燦煌さんは興味深い話をたくさんしてくれた。彼はかつてダナン近郊の村でまな板として使用されていた紙幣印刷用の原板を、農婦の包丁の下から救い出したことがある。おそらく400年以上の歴史を持つその板には、ベトナム民族の祖と言われる貉龍君(ラク・ロン・クアン)が彫られていた。許燦煌さんはまた、畑から掘り出された、1797年のグエン朝との闘いで、タイソン朝の武将が派兵令を発するため臨時に刻印した銅製の印章「急就章」をビンディン省タイソンの民家で購入した。
こうした文物はすべてベトナムの歴史が記され、封印されたもので、歴史の中の消えない悲しみを伝えている。王朝の終焉とフランスによる統治、変えられてしまった文字、経済成長優先の中、蔑ろにされていた文化財保護など、もし許さんがこれらを収集していなかったら、ベトナム人の集合的記憶であるこれらの重要な文化資産はもっと早く失われていただろう。
許燦煌さんは結局自分のコレクションをただの一つも売ることはなかった。あたかも時代に託された責任を果たすかのように。「これらのものには、ベトナムの魂が宿っているんです」と彼は言った。
創作への努力を惜しまないトランさんは、つややかな油絵から非常に難度が高い伝統的なベトナム絹絵にまでチャレンジを続けている。
彼女の北行
新たな天地を求めて東南アジアに渡る台湾人がいる一方で、ベトナムから台湾へやって来る人もいる。ダクラク省出身のトラン・ティ・ダオさんもその一人だ。12年にわたる台湾暮らしで、彼女の人生は変わった。今回、『光華』の取材グループがホーチミン市の6区に彼女を訪ねると、彼女は満面の笑みで我々を迎えてくれた。
李如宝さんたち台湾在住のベトナム移民二世の若者がホーチミンの学校に集まって異文化交流キャンプを行った。(赴憶文化提供)
介護員から画家へ
トランさんはやさしい中国語でその来し方を語ってくれた。両親を早くに亡くした彼女は、8人の弟を養うために進学をあきらめて働き始めた。やがてコーヒーの主要生産地である故郷のダクラク省でコーヒー卸売業を経営し、成功を収めたが、資金繰りでつまずき破産に追い込まれてしまった。家を3軒売却しても多額の借金が残り、途方に暮れていた時、たまたまテレビで台湾に仕事のチャンスがあることを知った。
借金返済のため、トランさんは3人の子供を姉に預けた。夫も出稼ぎに行っていたので家族は散り散りになったが、医療関係の専門知識を学んでいた彼女は、2002年に台湾に渡り介護員となった。「とても大変な仕事でしたが、がんばって耐え抜きました」と彼女は言う。介護は昼夜を問わず常に高齢の利用者のそばにいなければならないため、楽しんだり友達を作ったりする時間はほとんどなかった。中国語もまだ十分ではない上に、高齢者は台湾語を話すことが多いため、人とのコミュニケーションは難しく、故郷への思いは募ったが、生活のために歯を食いしばって耐えた。
そんな時、友人が外国人労働者向けの月刊タブロイド紙『四方報』のベトナム語版を彼女にくれた。『四方報』は彼女のホームシック解消に役立っただけでなく、投稿やイラストを募集しており、幼い頃から絵を描くのが好きだったトランさんが作品を送ったところ、なんと紙面に掲載されたのだ。以来、彼女は余暇を利用して絵画制作に勤しむようになった。「思い悩む時間を絵に費やすようにしたら、少し気持ちが上向きました」
許燦煌さんはフランス植民地時代の物も収集している。写真は植民地政府が発行した免税証明書(左)と土地売買契約書(右)。このような文書は中仏二言語併記となっているのが一般的だ。
移民のためのネットワーク
労働力として台湾にやって来た外国人は言葉の問題もあり、台湾人と深い付き合いはできないが、トランさんは持ち前の忍耐力と楽観主義で自分を変えた。『四方報』に励まされ、台湾の各種美術コンクールで入選者の常連となり、台湾各地の展覧会で作品を発表するようになったのだ。
あるイベントで、彼女は『四方報』を創刊した張正、廖雲章夫妻に会い、「お二人はまるで自分の家族のように温かく接してくれました」と彼女は深く感動した。展覧会への出品が増え、受賞することも増えてくると、この「移住労働者兼画家」の名はまたたく間に広がり、当時総統に立候補していた蔡英文氏も彼女に面会を求めたほどだ。また彰化に住む陳錫鍠という名の薬剤師は、トランさんにプロ向けの画材を購入するための資金援助を申し出てくれた。
「その時、子供たちを台湾の学校に通わせようと決心したんです」とトランさんは言った。台湾の人々の優しさに心を打たれたのだ。台湾の法律では外国人労働者の就労は最長 12 年までと定められていたが、彼女は台湾とのつながりを保ち続けるために3 人の子供全員を台湾に留学させた。ベトナムに戻った彼女は医療分野での仕事を続けながら創作活動を続け、ついにはベトナム美術協会の会員になって、ベトナム政府公認のアーティストとしての資格を得た。
そしてトランさんの長女は台中の東海大学を卒業後、ベトナム経済の成長ポテンシャルを見越し、台湾留学の経験を生かしてホーチミン市に留学と旅行のコンサルティング会社を設立した。トランさん自身の経済状況も大きく改善しており、今では同社の講師となり、かつて台湾で働いた経験を伝えている。
我々がトランさんにインタビューしたのは彼女の娘の会社のオフィスで、奥の応接室には大きな絵画が並んでいる。それらの作品はトランさんが心を寄せる台湾の景色とともに彼女の仕事であった医療現場がモチーフになっている。とりわけ我々の心を惹き付けたのは、各国からの出稼ぎ労働者が共に祈りを捧げている様子を描いた大きな作品で、その中には張正さんの肖像も含まれていた。「張正さんの仕事はとても意味のあるものです。台湾に出稼ぎに行く私たちも、台湾の永遠の平和を祈っています」それらの絵からはトランさんの誠実さと温かさが溢れている。想像もできないほどの楽観主義で、彼女は大きなチャンスをつかみ、人生を好転させたのだ。
李如宝さんたち台湾在住のベトナム移民二世の若者がホーチミンの学校に集まって異文化交流キャンプを行った。(赴憶文化提供)
ひと味違う移民二世
外国人労働者、外国人配偶者とその子供たちはステレオタイプの見方をされやすいが、現在、国立台湾大学国家発展研究所で学ぶ李如宝さんはそうしたステレオタイプには当てはまらない。
多くの移民二世と同様、ベトナム人の母親と台湾人の父親を持つ彼女だが、母語の中国語と同じぐらいベトナム語も非常に流暢だ。両親がベトナムでビジネスをしていて、仕事で忙しい両親に代わって、ホーチミン市に住む祖父母が育ててくれたからだ。そして平日はホーチミン市のフーミーフン地区にある台湾のインターナショナルスクール「台北学校」に通っていた。
「私は多文化家庭の子供です」と李如宝さんは言う。父親は伝統的な台湾人男性で、母親はベトナム戦争後にベトナム北部から南部のホーチミン市に引っ越してきた家族の出身だ。台越双方のルーツを持って生まれ、ホーチミンで育ち、家では北方訛りのベトナム語を話す彼女は「自分はマイノリティーだ」と深く認識している。
かつて、彼女はそのことをよくわかっていなかったが、2014年に勃発したベトナムの反中デモで彼女は変わった。彼女は外でクラスメートと話す時はベトナム語だけを使うようにした。そして「その時、自分のアイデンティティを表明できることがいかに重要かに気づいたんです」
高校卒業後、大学進学のために台湾に戻った彼女は、多くの外国人配偶者やその子供たちとは異なり、自分のアイデンティティを明かすことに抵抗がなかった。しばしば「ベトナム人なの?」、「どうして中国語がそんなに上手なの?」と問いかけられたが、国立台湾大学の政治学科に在学中、ある授業で発表をした際に、彼女は自分のアイデンティティについて率直かつオープンに述べたという。黙っていてレッテルを貼られるより、堂々と語ることで、自分が何者か定義づける権利を自分自身で握った方がいいからだ。
「小さい頃は、ほかの人と同じになりたいと思っていましたが、大人になって、ほかの人とは違っていたい、違うことが自分自身の特長なのだと思うようになりました」こうした考えが、ステレオタイプを打ち破ったのだ。
許さん親子それぞれの「南向」での邂逅は、台越交流に素敵な一頁を記した。
静かな社会革命
台越間を頻繁に行き来しても適応に悩むことはあまりなく、実際、共通する語彙も多く、儒教文化の影響など、台湾とベトナムには多くの共通点があることに気づいた李如宝さんは、両者の対話の機会をもっと増やしたいと考え、大学在学中に台湾とベトナムの交流を推進するイベント企画会社「赴憶文化(Foodeast)」を設立した。
我々が李如宝さんと再会したのは、ホーチミン市フーミーフン地区にある丁善理紀念中学(Lawrence S. Ting School)で、ここは台湾企業が設立・運営する中高一貫校だが、主にベトナム人の生徒を募集している。今回、彼女の呼びかけに応じて、同じ志を持った台湾在住の移民二世の若者たちが学校を訪れていた。率直でバイタリティに溢れ、2つの言語を自在にスイッチさせて話す彼らにとって、ここはまさに「ホーム」なのだと感じた。
言語だけでなく、多文化家庭の子供たちの最大の特長は共感力であると李如宝さんは言う。2つの文化の影響を受けているため、両国の文化、国民性、立場や置かれている境遇などの違いをすぐに理解することができるのだ。けれども、これらの利点を発揮するには、母親の国(ほとんどの場合、母親の方が外国人なので)を理解し心を寄せている必要がある。そのために、彼女は 2023 年に「移民二世青年とASEAN青年発展協会 (New Immigrant Youth and ASEAN Development Association)」を設立した。これが、仲間たちをベトナムの旅に導くという彼女のプロジェクトの始まりだ。
行動力、使命感、そして情熱を持った移民二世の李如宝さんは、生まれたての子牛のような恐れ知らずの積極性と自信に溢れている。移民二世の問題はこれまで、ともすれば移民第一世代の問題に包含されていたが、成長した彼ら自身が「私たちはもう大人だ」と声を挙げるのに十分な力を持っているのだと彼女は言った。そして、これこそが協会設立の理由であり、移民二世のためにリソースを統合し、彼らに力を与えると同時に自らの考えを話すチャンネルを提供したいと考えているのだと彼女は率直に語った。
台湾と東南アジアの交流がますます緊密になる中、台湾のよさをよく理解している台湾の東南アジア移民二世は、どちらにとってもふさわしい民間外交の代表になれるだろう。李如宝さんは自分自身を「両国の間に橋を架ける人」と定義する。「けれども、私は知っています。この橋を本当に架けるのは両国の若者たちだと」と力強く付け加えた。移民二世の存在によって、台湾がより豊かで、より寛容で、より心が広い、共感力のある国となり、彼らによって社会に静かな革命の火が灯されることを彼女は願っている。
許燦煌さんとベトナムの親友・グエン・フー・フイ・クアンさん。彼が貸してくれた『越南史略』が許さんのベトナムの歴史に対する興味を掻き立てた。(許燦煌さん提供)
許燦煌さんのコレクションである、八つ櫂の船とベトナム民族の祖と言われる貉龍君(ラク・ロン・クアン)が彫られた木版画の原板(左)、銅製の印章「急就章」(右上)、グエン朝の将軍の帽子(右下)。
トランさんは自身の介護体験にインスピレーションを得た作品をよく描く。
台湾人にベトナムをもっと知ってもらうために、李如宝さんはベトナムの食材・フォーをテーマにしたカードゲームを設計した。
公的なイベントに出る際、廖雲章さんはトランさんの作品がプリントされたアオザイ(ベトナムの伝統衣装)をよく着る。