
台北の陽明山に位置する竹子湖は、カラー(オランダカイウ)の生産で知られている。しかし、今から百年前、ここには台湾で初めて蓬莱米(ジャポニカ米)が植えられた田んぼがあった。現在は、地元の農家が「穀東倶楽部」を発足して台湾大学と協力し、頂湖の1アールの土地で、数十年にわたって消失していた台湾のジャポニカ米の祖先「中村種」を育てている。彼らは百年前の竹子湖の稲作風景をよみがえらせ、台湾の稲作の歴史に感動的な物語をつづっている。
米は台湾人の重要な主食の一つで、私たちは通常の食事では「蓬莱米(ジャポニカ米)」を食べている。一方、蘿蔔糕(大根餅)や碗粿(米粉に具材を入れて蒸し固めた料理)、米粉(ビーフン)などには「在来米(インディカ米)」が使われている。
台湾のジャポニカ米は日本統治時代から栽培が始まった。以来、百年近くにわたって品種改良が続き、今では200品種を超えている。食用の米の他に、機能米や田んぼアート用のカラフルな米もある。これら台湾のジャポニカ米の祖先は、竹子湖に植えられたのである。
竹子湖は陽明山国家公園内にあり、標高は650~670メートル。35万年前の火山の噴火でできた堰止湖だったが、後に浸食によって湖水はしだいに流出して窪地となった。竹子湖の東は七星山、北は小観音山、西は大屯山で、南に台北盆地を見下ろす。窪地の中央には高台があり、このエリアを東湖と頂湖、下湖の3つに分けている。
毎年春、竹子湖の「カラー祭り」には多くの人が花を愛でに訪れ、カラーは竹子湖の代名詞となっている。2011年、地域住民とカラー農家は、地元の稲作の歴史を研究し始め、湖田小学校で現地の稲作文化を学ぶ「稲郷カリキュラム」を推進した。農家の人々は「竹子湖蓬莱米原種田穀東倶楽部」を結成し、台湾大学農芸学科とともに当初のジャポニカ米の復元を試みたいと考えるようになった。そうした中で「苗傍海芋花園」を運営する高于玄が無償で田んぼを提供し、2011年から台稉9号の栽培を開始し、2016年には数十年にわたって失われていた当初の「中村種」の栽培にこぎつけたのである。

竹子湖の農家は穀東倶楽部を結成し、百年前に植えられていたジャポニカ米の「祖先」である中村種の栽培を始めた。
竹子湖の「中村種」
陽明山の気候は「草山風、竹子湖雨、金包里大路」と形容される。冬の12月、竹子湖は霧雨が降り、気温は市街地より5℃近く低い。この時、カラー畑を経営する穀東倶楽部招集人の陳永如は、3日間天日干しした「中村米」3袋を精米するために湖田小学校へ向かった。
学校がネットで購入した骨董級の唐箕(とうみ)は古びて見えるが、陳永如は手早く稲籾を上の漏斗の部分に入れ、右手でハンドルを回して羽根で風を送り、ごみや空籾と実の入った籾を風の力で選別していく。
「見てください。風で飛ばされて出てきたのは空の籾ですよ」と陳永如は籾を指差す。空籾などの不純物は風で飛ばされて箱の中に落ち、重みのある実の入った籾は別の口から出てくる。
こうして幾度か唐箕にかけられて不純物を除くと、実がしっかり入った籾だけが残り、それを精米機にかける。1回目は粗糠、2回目は糠を取り除き、最後に白米になる。粗糠と糠は有機肥料になる。「精米したての米が一番おいしいのです。長く置いておくと香りが抜けてしまいます」と陳永如は言う。
翌日、穀東倶楽部の20人近いメンバーと「磯永吉小屋」学会のボランティアが集まり、中村米を食べながら、カラー栽培や稲作などについて話し合った。
現在、多くの人が食べている台稉9号米は、透明感があって歯ごたえが良い。それに対し、中村米は白く、米粒の中心にオレンジ色の線が見え、口当たりはやや硬い。
「これは日本統治時代にはとてもおいしい米だったのです。穀東倶楽部のメンバーにとって、この中村米に物語があることが重要なのであって、おいしいかどうかの問題ではありません」と陳永如は言う。

湖田小学校の児童たちが、めずらしい昔の唐箕(とうみ)を動かしてみる。(郭美瑜撮影)
ジャポニカ米の物語
明・清の時代、中国の福建省や広東省から多くの人が台湾に移り住み、それとともにインディカ米が持ち込まれた。日本統治時代になると、日本人は粘りのないインディカ米を食べ慣れず、台湾でもジャポニカ米を植えることにした。だが、当初は稲熱(いもち)病の害に遭い、また台湾と日本とでは日照時間が異なるため、質と量にも影響が出た。そこで台湾の環境に合ったジャポニカ米の改良に取り組むこととなったのである。
陽明山国家公園管理処によると、1921年、台湾総督府研究所農業部の技師・鈴田巌と州農会の技手・平沢亀一郎が大屯山一帯の産業を調査した際、竹子湖の気候が九州に似ていることに気付いた。三方を山に囲まれているため、自然受粉による交雑や病虫害も防ぎやすく、純正のジャポニカ米の栽培に適している。そこで竹子湖に水田を開くことにしたのだが、日本の「中村種」の栽培は高地では成功したものの、平地の多くでは失敗に終わったのである。

竹子湖の蓬莱米原種田穀東倶楽部の招集人・陳永如が精米機を使う。(郭美瑜撮影)
中村種から生まれた台中65号
台湾大学農芸学科の名誉教授である謝兆枢によると、当時、台中州試験農場(現在の農業部台中区改良場)の主任だった末永仁は、総督府農事試験場の技師・磯永吉に励まされて1923年に「幼苗挿植法」を提出し、改良に成功した。中村種の生産量は拡大し、栽培地も北から南へと広がっていったという。
1926年、「伊予仙石」から分かれた耐病性の高い「嘉義晩2号」が「中村種」に取って代わって全台湾に広がった。この年、総督府は台湾で栽培するために改良した新しい日本米を「蓬莱米」と名付けた。これは台湾が「蓬莱仙島」であるという意味から取った名称だ。以来、「蓬莱米」は台湾で栽培されるジャポニカ米の代名詞となり、インディカ米はもともと栽培されていた品種として「在来米」と呼ばれるようになった。
学界の研究によると、台湾の水稲栽培においては、1924年に末永仁が台中州農業試験場で「亀治」と「神力」を掛け合わせて1929年に選出した「台中65号」の影響が最も大きい。謝兆枢によると「台中65号」は生産量が多くて質が良く、稲熱病にも強かった。これが竹子湖で栽培された後に全台湾で作付けされるようになり、初期の台湾蓬莱米の主流品種となったのである。
中央研究院植物および微生物学研究所の特任研究員である邢禹依によると、最も重要なのは、台中65号が年に二回収穫できる点で、後の多くの交雑種はこの品種を親として誕生した。「台湾の蓬莱米品種の85%以上は、台中65号の子孫なのです」という。
台中区農業改良場も台中65号の重要性を立証している。同改良場アシスタント研究員の鄧執庸によると、現在までの200種余りの台湾の水稲品種のうち、台農60号、光復401行などは台中65号を親として生み出されたものだ。中村種は稲熱病に弱いため、稲の品種の進化の中で、最終的には台湾の水田から消えていったのである。
現在、竹子湖で穀東倶楽部が栽培に成功した中村種について台湾大学農芸学科教授の彭雲彰は、「これが栽培できた背景には感動的な物語があります」と語る。謝兆枢が奔走たことで、2014年に日本の国立遺伝学研究所から種子の寄贈を受けることとなり、台中区農業改良場が支援を行なって翌年に台湾大学で栽培に成功し、2016年に竹子湖に植えられたのである。

一緒に新米を味わう竹子湖蓬莱米原種田穀東倶楽部のメンバーたち。
竹子湖に稲作の足跡を探す
磯永吉は台湾で稲の育種や研究を任され、台北帝国大学理農学部熱帯農学第三講座(台湾大学農芸学科の前身)を創設した。彼が主宰する大学の育種準備室(「磯永吉小屋」と呼ばれた)と、1928年に日本政府が竹子湖に設けた蓬莱米原種田事務所および倉庫(現在は蓬莱米原種田故事館)は、それぞれ日本統治時代の蓬莱米学術研究開発と原種栽培の基地となり、現在は台北市文化局によって市定古跡に指定されている。
磯永吉は後に蓬莱米の父と称えられ、蓬莱米の育種を行なった末永仁は蓬莱米の母と呼ばれるようになった。物故した奇美グループ創設者の許文龍氏は、2012年に自らが制作した末永仁と磯永吉の青銅像を台湾大学に寄贈し、それらは今では故事館に置かれ、蓬莱米の物語を伝えている。
近年、台北市大地工程処は竹子湖の多数の灌漑用水路と河川の整備を行なっている。東湖と竹子湖地域の入り口付近にある水車寮遊歩道には、日本統治時代に地域の有力者が資金を集めて建てた「挨米間(精米所)」がある。跡地には水車と塀が一枚残っているだけだが、大地処はその壁面の傍らにガラスの壁を立てて昔の水車の構造を説明し、農村の記憶を呼び覚ましている。

竹子湖の穀東倶楽部が関心を寄せるのは、中村米の味ではなく、その背後にある物語だ。
遊歩道をつないで「台北大縦走」に
小川に沿った遊歩道は、現在は市民のレジャーや運動に用いられている。例えば、頂湖の陽明渓畔遊歩道において、大地処は河岸に「花山砌石工法」と呼ばれる方法で自然の岩を積み重ね、自然の中の小川のような風景を生み出した。この遊歩道は全長330メートルで、湯気が上がる小油坑と頂湖環状遊歩道を通して四方八方へとつながっている。
水尾巴拉卡遊歩道と陽明渓遊歩道、頂湖環状遊歩道は、台北市五大山系の「台北大縦走」路線につながっており、ここを歩けばハイキングと観光と文化体験を同時に楽しむことができる。
下湖のカラー環状遊歩道は、カラー畑を囲むように用水路沿いを通り、花の季節には人気の散歩道となる。

蓬莱米原種田事務所は故事館へと変わって歴史的建築物に登録され、台湾蓬莱米の物語を伝えることとなった。
台湾の稲作に再び感動の物語を
竹子湖の産業の変遷を見ると、清代には茶葉、孟宗竹、蜜柑などが栽培され、日本統治時代になると蓬莱米が植えられるようになり、国民政府が台湾に移ってくると高原野菜や生花が栽培されるようになった。1980年代にはレジャーやレクリエーションの需要が高まり、レジャー観光農業が盛んになった。陽明山国家公園管理処の調査によると、経済作物として知られるカラーは、早くも1960年代から栽培されている。
「私たちはもう40年もここで稲作をしていません」と陳永如は言う。竹子湖は台湾で初めてジャポニカ米が植えられた地域であり、その復活には大きな意義がある。「先人の栄光を引き継ぎ、若い世代にこの物語を伝えていかなければならないと思います」と言う。
竹子湖を訪れる時は、カラーやアジサイの花を愛で、野草や地鶏を味わうだけでなく、現地の豊かな物語も深く味わってみたい。


竹子湖蓬莱米原種田故事館には、当時の農耕の様子や農具が展示されている。

山間の静かなカラー畑に遊ぶシラサギ。

アジサイが咲き誇る夏の竹子湖。

カラーの花は竹子湖の代名詞となっている。

台北市大地工程処は生態工法を用い、河川を整備して景観を整えており、竹子湖にハイキングやレジャーの機能を持たせている。