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西螺大橋の全長は1939メートル。1953年に開通した当時は世界で二番目に長い橋だった。
西螺大橋はかつては極東一の長い橋だった。1953年に開通した当時は、台湾西部の道路交通と経済をつなぎ、西螺住民が北部へ夢をかなえに行くスタート地点でもあった。現在、西螺大橋は彰化県と雲林県によって歴史的建築物に指定され、文化観光の懸け橋へと転換しつつある。橋の上で文化フェスティバルや展覧会が開かれ、一時代を築いた橋は今も輝きを放っている。
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西螺大橋が開通した当初、橋には軌道が敷かれており、台湾糖業のトロッコと自動車が並行して走っていた。(国家発展委員会アーカイブ管理局提供)
橋のない時代、船で濁水渓を渡る
「長い!」「31のスパンを歩けば向こう岸(西螺)に着くよ」――西螺大橋(または旧西螺大橋)は、台湾最長の河川・濁水渓に初めてかけられた道路橋だ。最近で最も印象深いのは、この橋を媽祖の神輿とともに数万人の信者が歩いて渡ったシーンだろう。
「西螺大橋がかけられるまで、媽祖様の神輿は渡し舟に乗って濁水渓を渡ったのです」と、拱天宮の陳春発・総幹事は、昔の媽祖の巡行について話してくれた。
西螺大橋が開通した後も、媽祖の巡行が橋を渡らなかったことがある。1978年と2001年、媽祖様の神輿は直接川の中へと入っていったのである。この珍しい巡行ルートは、現在の信者たちも一度経験したいと願っている。
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水利署第四河川分署の李友平署長は、西螺大橋下の濁水渓河岸に親水空間を設けた。(郭美瑜撮影)
夢をかなえる西螺大橋
濁水渓は台湾本島中西部の重要な河川で、その下流は彰化県と雲林県の天然の県境となっている。この河川が長年にわたって台湾南北の往来を阻害し、濁水渓を境として北は「頂港」、南は「下港」と呼ばれてきた。
螺陽文教基金会の何美慧・執行常務董事によると、かつて西螺の住民は就職や進学でも、北へ行くには渡し舟か徒歩で濁水渓を渡らなければならないため、南の地を選んだそうだ。同基金会の廖登堂・董事長は台中に進学する際に、自ら米袋を背負って歩いて濁水渓を渡った。濁水渓より北へ行くのは非常に困難だったのである。「濁水渓以北へ出ていくことは、冒険精神と向上心があることを象徴していました」と言う。西螺大橋が開通し、車で橋を渡れるようになったことは、夢がかなう希望を意味していたのである。
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第四河川分署は、西螺大橋下の濁水渓河川敷の緑化を進めている。(水利署第四河川分署提供)
困難に満ちた西螺大橋建設の歴史
西螺大橋は1953年に開通したが、その建設の過程は決して順調ではなかった。国家発展委員会アーカイブ管理局応用服務組の許峰源・研究員によると、鉄道の縦貫線は1908年に開通し、これが日本統治時代に南北を繋ぐ交通の大動脈となった。しかし、南北方向の道路は濁水渓の下流で断ち切られており、ここを渡るには列車に乗り換えるか、筏で川を渡るしかなく、道路橋をかけるべきだという声が上がっていた。
しかし、長さ2キロの道路橋の建設というのは当時は容易なことではなく、建設技術や資金、建材など、いずれの面でも課題があった。1937年、台湾総督府は「濁水渓人道橋」の建設を決め、1941年にコンクリートの橋脚が完成した。しかしその頃、太平洋戦争が始まり、建設は中断した。戦後は鋼材の不足と国共内戦、228事件などの影響で橋の建設は先送りされていった。
許峰源によると、1950年に朝鮮戦争が始まると、アメリカはアジアにおける台湾の重要な地位を意識し始め、また当時の李応鏜・西螺鎮長が奔走し、政府が多方面と交渉した結果、ついに西螺大橋建設に米国支援が得られることとなった。そうして1953年に開通した西螺大橋は、全長1939メートル、幅7.32メートル。ワーレントラス構造で橋脚はコンクリート、上部は鋼材で建てられ、31のスパンから成る。当時としてはアメリカのゴールデン・ゲート・ブリッジに次ぐ長さの鉄橋であり、極東一の長い橋だった。
この橋は、濁水渓南の雲林県西螺鎮と、北の彰化県渓州郷をつなぎ、16番目のスパンが県境となっている。橋の入り口にある「中美合作」のデザインと、台湾・アメリカ・日本の国旗は、この橋が完成するまでの困難な歴史を物語っている。
「西螺大橋の開通は、全台湾の一大イベントでした」と何美慧は話す。開通祝賀式は3日3晩にわたって行なわれ、3万人あまりの来賓が訪れた。橋の上をトラックやトロッコが走る様子は珍しく、小学校の遠足でも西螺大橋を通るというのが人気のコースとなった。
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西螺の福興宮が開催する「西螺媽祖太平媽祈福媽マラソン」のコースには西螺大橋も入っている。(西螺福興宮提供)
交通・経済と国防の要に
西螺大橋は台湾西部を南北につないだだけでなく、戦略的な役割も担っていた。それまで、台湾西海岸の交通のメインは縦貫鉄道だったが、西螺大橋は鉄道と並行して南北に走る予備線という国防上の機能も持っていた。そのため、橋は周囲の環境に合わせた保護色に塗られ、後に国防上の任務が終了してから現在の鮮やかな赤に変わったのである。このように多くの任務を負っていたことから、西螺大橋は切手や印紙、愛国宝くじ、紙幣などのデザインにも採用された。
1978年に中山高速道路が全線開通し、渓州大橋(または新西螺大橋)が竣工すると、これが交通面で従来の西螺大橋に代わる存在となり、中央政府も古い西螺大橋を取り壊すことを考えていた。そこで地域の人々や螺陽文教基金会が保存運動を展開し、西螺大橋は残されることとなったのである。2012年、西螺大橋は道路マニアによる人気投票で「道路八景」のトップに選ばれ、西螺最大の観光スポットとなった。
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アメリカからの援助で建てられた西螺大橋には、その記念のマークが入っている。
西螺人の故郷のシンボル
「西螺の住民にとって、西螺大橋は故郷のシンボルです。私たちはひとつの時代における橋の意義を守り、それを地元の文化と結び付けて長く保存していこうと考えています」と何美慧は言う。
2001年と2005年、雲林県と彰化県はそれぞれ西螺大橋を歴史的建造物に指定し、安全のために大型トラックの通行を禁じ、乗用車とバイクだけが通行できることとした。
雲林県と螺陽文教基金会の協力で、現在の西螺大橋の路面は舞台やギャラリーとして使われている。雲林県は幾度か西螺大橋文化フェスティバルを開催しており、橋の上がパフォーマンスの場となった。螺陽文教基金会が主催する彫塑芸術展では、橋の下の濁水渓と橋の上のトラス構造が作品を際立たせ、西に沈む夕日と相まって美しい絵画のようだ。
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今は濁水渓にかかる橋が多数完成し、交通面での西螺大橋の役割は失われた。(水利署第四河川分署提供)
西螺大橋と古い町並みが観光資源に
西螺鎮役場農業経済課の陳淑燕・課長によると、西螺は雲林県北港鎮に次いで媽祖廟が多い町で、大甲媽祖や白沙屯媽祖の巡行のパレードが西螺に到着する時に、西螺の多くの廟の媽祖像が橋のたもとでそれを出迎えるさまは壮観だという。媽祖の巡行とともに歩く信者たちにとって、西螺大橋を歩いて渡ることは目的地が遠くないことを意味する。「西螺大橋は媽祖の巡行における重要なマイルストーンなのです」と言う。最近は福興宮が西螺媽祖太平媽祈福マラソンを催しており、西螺大橋を走って渡るコースとなっている。また、西螺大橋は自転車の台湾環島1号線(台湾一周サイクリングルート)上にあり、ここを自転車で渡ることは半分まで来たことを意味する。「西螺大橋には人生のカギを象徴するさまざまな意味があるのです」
西螺鎮は西螺大橋があることによって、雲林で最も早くから商業の中心地として発展してきた。西螺大橋のたもとから200メートルほどのところにある古い町並みの西螺延平老街には古めかしいレトロな建物がたくさん残されており、さらに有名な西螺老街文化館、東市場、丸荘醤油観光工場、それに餅や麦芽糖の老舗などもある。橋から800メートルほどのところにある西螺広福宮は雲林県が古跡に指定する媽祖廟で、その建物も観賞する価値がある。平日に老街を訪れれば、小さな町の静かな暮らしを感じることができる。
西螺大橋のもう一方にある渓州側の橋のたもとには、詩人・呉晟の作品を刻んだ詩碑が立っている。60年前に西螺大橋が開通した時に作った〈相会,大橋上〉という作品で「手を繋ぎ水源(濁水渓)の音に耳を傾け……共に護る」と、互いに寄り添う大河と大橋を歌っている。
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螺陽文教基金会の何美慧・執行常務董事は、西螺大橋の開通記念式典の写真には400名余りの来賓が映っていると語る。(郭美瑜撮影)
橋と河川の新たな時代
西螺大橋がかかる濁水渓は、かつては渇水期になると、北東からの季節風や西南の強風によって川床の砂州から砂埃が舞い、地域住民を困らせていた。近年は水利署第四河川分署が砂塵抑制対策を採っており、住民たちも「ご飯に砂が混じる」経験をしなくて済むようになった。
西螺鎮役場と渓州郷役場は、それぞれ西螺大橋の南北両側の河岸の土地をアドプトしている。渓州では、この土地を農家に提供し、イネや花を栽培している。西螺側では橋の下にレトロな水車を設け、農業県らしい風景を生み出している。さらに河岸に蝶の公園を設けてパブリックアートを展示し、別の緑地は凧揚げに人気のスポットとなっている。
川にかかる橋は美しいビジョンをもたらし、人々の記憶とつながる。今日、西螺大橋は歴史と文化が集まる場となった。かつてのように多くの車が行き交うことはないが、河川と橋が寄り添ってきた歴史に、また大河と古い町とのつながりに思いを馳せ、一時代を築いた橋と河川の姿を味わってみてはいかがだろう。
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西螺大橋は紙幣のデザインにも取り入れられた。(許峰源提供)
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螺陽文教基金会が西螺大橋の上で開いた美術展。(螺陽文教基金会提供)
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有名な西螺産の醤油。(荘坤儒撮影)
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麦芽糖入りの焼き菓子も名産品の一つだ。
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古い町並みの延平老街には清代や日本統治時代の町屋が並び、西螺の豊かな建築史がうかがえる。
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西螺の東市場。昔懐かしい雑貨店から手作りクラフトショップまであり、楽しく買い物ができる。
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夕焼けに染まる濁水渓と西螺大橋。橋と河川が寄り添う美しい風景だ。(螺陽文教基金会提供、魏進福撮影)