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ある有応公廟では、明代の将軍と清代の官吏、それに日本の軍人が同列に祀られており、数百年にわたる台湾の歴史の縮図となっている。写真は台南市東区にある開基慶隆廟。
台湾にはこんな言葉がある。「若気の至りで無茶をする者がいなければ、路傍に無縁仏を祀る有応公廟などないだろう」--これは年配の人々が子供たちに、無茶をせず慎重に行動するよう言い聞かせる言葉だ。それと同時に、先人たちが一旗揚げようと夢を抱いて海を渡って台湾に来た時代をも言い表している。先人たちの強い意志は後に文字として残されたが、その亡骸は保存されることなく、この大地に眠っている。こうした歴史から台湾独特の民間信仰――「有応公」信仰が生まれたのである。
台湾ではエスニックが多様であるのと同様、宗教信仰も実に多様である。民俗学者で台中教育大学台湾語文学科准教授の林茂賢さんによると、中でも最も盛んな信仰は、道教と仏教と民俗が融合した民間信仰だという。
民間信仰には入信の儀式もなければ、特別な教義もないため、非常に親しみやすく、多数の神を信仰するという特色があるため、誰もが自分にふさわしい神を見出すことができる。そうした中で、台湾で亡くなった人を「有応公」として供養する事例もあり、そうした廟は「有応公廟」あるいは「陰廟」と呼ばれている。
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台湾の田舎道で有応公の小さな祠に出会ったら、静かに手を合わせるのが挨拶の良い方法だ。
死者を神として祀る民間信仰
有応公信仰の始まりは、1628年、漢人が台湾海峡を渡ってきた時期にさかのぼる。彼らは命の危険を冒して荒波を超えてやってきた。無事台湾に上陸してからも、争いごとで亡くなったり、風土に適応できずに病気になることいった危険が絶えなかった。
幸運な者は、この土地に根を下ろしたが、そのまま異郷の地である台湾で亡くなる人もいた。20年にわたって有応公に関するフィールドワークを続けてきた文化史研究者の許献平さんはこう説明する。人は亡くなると「鬼(亡霊)」になるとされる。後の世代が供養した死者は「良鬼」となり、「地基主」や「祖霊」と呼ばれるが、誰も供養する人がいなければ、人々に恐れられる「悪鬼」「厲鬼」となる。
供養する子孫がいないまま異郷で命を落とした人を哀れに思い、その霊がこの世に悪さをするのを恐れた人々は、彼らの魂を慰める場所を設けた。1684年、台湾を管轄していた清朝が置いた州や県、また郷などが中心となって、これらの霊を安置する「祭厲」や「義塚」を設けた。これが今日の有応公廟の雛形となったのである。
この時期、こうした無縁仏は無主公や万善公などと呼ばれ、3方を壁で囲った扉のない小さな祠に祀られ、「無祀祠」となった。祠は素朴なもので、位牌や香炉が置かれていることも少ない。現在でも台湾の田舎に行くと、このような小さな祠を見かけることがある。
このほかに、不幸にして亡くなった炭鉱労働者や身元不明の遺体、未婚のまま亡くなった女性や難産で亡くなった母子なども、民間による供養の対象になる「可能性」があった。許献平さんによると、すべての死者が「神」となるわけではない。死後に神として供養の対象になるかどうかは、亡くなった場所が肥沃な土地であり、さらに夢のお告げや伝説などを通して人間界とつながりを持つかどうかにかかっている。
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有応公廟は信仰の場であるだけでなく、台湾へ移住してきた人々がここに根を下ろすまでの歴史をとどめるものでもある。写真は台南市将軍郷にある十二勇士廟に祀られた位牌。廟には、かつて村を守った12人の勇ましい事績が記録されている。
願いが必ずかなうことの二面性
田舎町では、田畑の間や民家の横、路傍などに小さな祠があるのは一般的な景観の一部となっており、静かに人々の暮らしに寄り添っている。通りがかった人は、まるで友人に挨拶をするかのように手を合わせる。旧正月の大晦日や清明節、中元節などには温かい料理をお供えし、冥紙(あの世で使うお金)を燃やし、線香をあげて供養する。このような、人と霊魂が共存する信仰は、しだいに人々の心の中に浸透していき、睦まじく安定した社会を形成した。しかし、日本の植民地当局はこれを古臭い習わしと見做し、厳しく取り締まった。
日本統治時代の1896~1906年の間に「墓地および埋葬取締規則」や「墓地火葬場および埋火葬取締規則」が公布された。これは台湾の土葬の風習を火葬に変え、各地の祭厲や義塚の習わしをなくすためのものだった。日本当局は「万善爺」信仰を迷信として各地の廟を処理し、また新聞などを通して指導宣伝した。
許献平さんは著書『佳里鎮有応公廟採訪録』に次のように記している。台南の佳里地域では、蕭壠抗日衝突で多くの死傷者が出たため、たくさんの無縁仏の祠が建てられた。しかし、台南の南鯤鯓代天府千歳が1923年に南巡した際、これらの祠は邪神のリストに入っていたため排除され、寧安宮と樹王公が有応公廟に統括することとされた。このことは1940年に『台湾日日新報』に、「古臭い風習を排除する」行動として報じられ、当時の当局の態度が明確に示されている。
しかし、お上の政策に対して、民間には常に対策があるものだ。いつの頃からか、台湾人は各地の無祀祠の主神を「有応公」と呼ぶようになり、その廟の前には「有求必応(願いは必ずかなえられる)」と書いた赤い横断幕がかけられるようになったのである。
研究によると、この時期には台湾の有応公廟が減るどころかかえって増え、清の時代より増えたとされる。近代の学者は、台湾の有応公信仰はこの頃に初めて大きく転換したと考えている。まず廟の本体が大きく変わり、さらに人々の信仰の態度も変わった。かつては故郷に帰ることのできなかった無縁仏への同情心や、悪さをしないようにとの願いを込めて供養していたが、この頃から、願いがかなうということで根付いていき、「台湾神」となったのである。
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台湾の有応公信仰について20年以上研究してきた許献平さん。台湾各地を歩き、有応公となった人々の生前とその後の物語を記録している。
神と人、あなたと私
しかし台湾神とは言っても、媽祖や関聖帝君などといった「正神」と比べると、神としての格は低く、福徳神よりも下に置かれている。また、昔から年配の人々は子供たちに陰廟に近づかないよう言い聞かせ、社会的にも陰廟で願をかけない方がよいと言われている。願いがかなった後のお礼参りをおろそかにすると悪い報いがあるかも知れないからだ。
これについて、高雄市苓雅の有名な有応公廟である「聖公媽廟」の常務委員、呂建利さんは違う意見を持っており、「聖公媽様は慈悲深いのですよ」と言う。
許献平さんと民俗研究家の游淑珺さんは「お礼参り」は願いがかなった後の重要な行ないだという。游淑珺さんによると、廟では、信者からのお布施や奉納金などで立派な神像を造ったり、廟を建設することができ、最終的に神格化される。そのため、願をかなえてくれた有応公にお礼をしなければ、「努力して助けてあげたのに感謝もされないのであれば、いい気持ちがしないのは当然でしょう」ということになる。こうした感情は人と人との関係と何も違いはないのである。
ギャンブルが大流行していた1980年代、多くのギャンブラーが台湾各地の有応公廟で一攫千金の願をかけ、数々の不思議な出来事が起きたといわれる。しかし、願いがかなわなかった時、一部の信者はそれを受け入れられずに神を恨み、神像を壊したり、路傍に捨てる人まで現われた。
こうした行為に関する議論は別としても、台湾の民間信仰の特質を反映しているとも言える。多くの信者は、陰神を正神よりも庶民に近い存在と考えており、そのために世間的な報復やトラブルに巻き込まれやすいのである。
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宗教を越えた多様な発展
しかし、すべての有応公廟がこの時期に破壊されたわけではない。多くの信者の支持を得て美しい廟が建てられ、財源が絶えず、良い話が広く伝わっている有応公廟もあるのだ。
北部の港町、基隆の中元祭は今年(2025年)、第171回目を迎える。この行事を主催する廟は泉漳機闘(福建省の泉州と漳州の出身者同士が戦った紛争)の犠牲者を祀った大公廟だ。廟は外観も華やかで美しく、基隆住民と密接な関係にある。毎年交代で中元祭を取り仕切る宗親は、これを一年の豊作を決める重要な儀式と考えて盛大に執り行うため、地元の重要な文化イベントとなっているのだ。
新北市の新荘には文武大衆爺を祀る地蔵庵があり、ここでは有応公廟でも珍しい夜間の巡行「暗訪」と昼間の巡行「遶境」の活動を今も行なっている。毎年の祭典は盛大に行なわれ、一帯は不夜城のようににぎわう。神輿の行列が練り歩く沿道には多くの人が集まって歓迎し、また神輿を守る「官将首」の首に下げられた縁起の良い「鹹光餅」を頂こうと人々が駆け寄る。
台南市安南区海尾寮にある鎮安堂では、戦闘機で戦死した日本の軍人を飛虎将軍として祀っており、日本から台南を訪れる観光客が必ず訪れるスポットとなっている。廟内には台湾と日本の国旗と「産経新聞」の記事が掲げられている。廟内に置かれた神輿は日本人が募金をして日本の職人が造ったものだ。東日本大震災の際に台湾から多数の支援が送られたことに対する感謝を示すもので、台日友好のシンボルとなっている。
高雄の聖公媽廟にも建立以来、全台湾から参拝客が訪れている。中山大学中文学科の羅景文教授の研究によると、日本統治時代の新聞は、この祭りには台湾全土から10万を超える人が集まり、布袋戯(人形劇)や歌仔戯(台湾オペラ)などの神楽が何キロも続くと報じている。
今日でもこの廟は苓雅区の信仰の中心だ。聖公媽は花がお好きということで、本殿は信者が奉納した花で溢れかえり、良い香りが漂っている。これは従来の有応公廟のイメージとは大きく異なるものだ。許献平さんによると、最近は廟が奉納金を近隣住民に積極的に還元しており、救急車や消防車、福祉バスなどの設備を寄贈している。
聖公媽廟の呂建利さんは、有応公廟も故意に陰廟という属性を消す必要はなく、その特色を残したまま積極的に慈善活動を行なうべきだと考えている。この廟では物語の募集活動を行なっており、信者と有応公との心温まる物語を通して、陰廟に対するイメージを変えようとしている。
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聖公媽廟では、聖公媽が新たな廟を建てることをお許しにならなかったため、「廟の中の廟」という珍しい形で祀られている。
陰と陽の相互補完
陰廟と陽廟との境界は曖昧になっており、それを見分けるのは難しくなっているかもしれない。
中央研究院のアカデミー会員である李亦園氏と李豊楙氏は、有応公の神格化に関する研究の中で、それぞれ10項目と12項目の見分け方を提示している。祀られているのが位牌か神像か、三方の塀と廟門があるかどうか、それに供物が調理されたものか生ものかなど、これらの事象によって見分けることができるという。また民間では、廟の屋根が燕尾のように反り返った設計であるかどうかで見分けられるとも言う。ただ、許献平さんによると、現在では廟の形式は大きく変化し、信者からの寄贈などもあって、見分けるのは難しくなっているという。
その長年の調査の経験から、許さんは廟に門があるかどうかが最も有効な識別基準になるのではないかと考えている。多くの有応公廟では霊魂の出入りを妨げないために門を設けていない。門を設けていても、両扉に描かれているのは門神の「神荼鬱塁」ではなく、宮女や「加冠進禄」であることが多いそうだ。
また「有応公廟には近寄らない方が良い」と言われることに対して、許献平さんは「陰廟は陰ならず」という考えを持っている。「これらの神は、かつては私たちと同じ、血も涙もある肉体でした。彼らがどのような形で人生を終えたにせよ、尊敬すべき先人であることに違いはありません」と言う。これらの廟は台湾のさまざまな時代の歴史を伝えるだけでなく、物語の宝庫でもあるのだから、先入観で陰廟を陰気で恐ろしいものと思うべきではないと許さんは言う。
二二八事件の犠牲者を祀る場や、エスニック間の紛争の記憶を残す虎尾三姓公廟、異国風の神像を祀る口湖荷蘭(オランダ)公廟、早逝した日本の女児を祀る新化海生万応祠、また原住民族と漢民族の信仰を融合した台南七股の万善堂、韓国からの移民と金運の神である金鶏母を祀る韓国井田三子小祠、さらには墾丁のビーチの端で神秘のベールをまとった八宝公主廟など、どの廟にもそれぞれの時代の物語と文化の足跡が残されており、訪ねてみる価値がある。
一般に陰廟が忌み嫌われることについて、游淑珺さんは、最も重要なのは敬意を持つことだという。挨拶をする気持ちで手を合わせ、尊重することが重要なのである。
游淑珺さんは、世界各地から訪れる旅行者の場合は、別の観点から見ることを提案する。有応公廟を一つの博物館として訪れ、祀られている神の物語や儀式、祭典などを知ることで、台湾の数百年にわたる歴史と文化に触れられるからだ。
では、これらの神は本当に存在するのだろうか。游淑珺さんは「信じれば存在し、信じなければ存在しません」と言う。今日の廟や神が存続しているのも、敬虔に供養する心があるからこそなのである。
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地域の信仰の中心となっている高雄の聖公媽廟では、李文振主任委員(右)と呂建利常務委員(左)らの努力によって、地域社会への貢献を続けており、それに感謝する数々の賞状や表彰盾が飾られている。
有応公信仰における女性
無縁仏を祀る「有応公廟」を訪れると、男性の神像とともに女性の神像が祀られていることがあり、これらの女神は「有応媽」と呼ばれる。一部の地域には、専ら女性を祭る有応公廟があり、それらの多くは「姑娘廟」や「夫人廟」と呼ばれている。
昔の台湾社会では、女性は生まれた家ではなく、嫁ぎ先で子孫によって供養されるものとされてきた。そのため幼くして、あるいは未婚のまま亡くなった女性の位牌は生家に安置することができず、帰属先のない「厲鬼」とされてきたのである。女性がこのような扱いを受けてきた理由について民俗研究家の游淑珺さんは、「女性が本家の金運や運気の一部を持っていってしまうと考えられていたからです」と言う。
そこで、こうした問題を解決し、亡くなった女性が帰属する場所を持てるように、冥婚(生者と死者が結婚する風習)や、姑娘廟や尼寺で供養してもらうといった方法が採られるようになった。そうした中で、一部の死者は個別に供養される機会を得ることとなる。
新北市石碇にある姑娘廟にはこんな伝説がある。魏扁という名前の女性が未婚のまま早逝したが、彼女が地域の人の夢枕に立つというので、廟を建てて供養することになったというのである。後にこの廟は地域の未婚女性の魂を祀る場所となった。心優しい信者たちは化粧品やアクセサリーなどをお供えしており、一般の有応公廟とは異なる一面が見られ、伝統社会における女性の辛い境遇もうかがえる。
また、このような言い伝えがある。台南の孔子廟の節孝祠に祀られている陳守娘は、夫の死後に身を売られそうになり、それを拒んだために虐待されて亡くなった。彼女の死後、台南の各地で夜中に鳴き声が聞こえるとか、物売りのお金が紙銭(冥土で使うお金)に変わってしまったとか、役所の物品が動いたなどといった話が頻発した。幸い、観音菩薩が間に入り、陳守娘は貞節を証明し、雪辱を果たすことができたのである。
游淑珺さんは、この物語は「善悪ともに報いがある」ことを示しており、女性に対する当時の社会の厳しい基準を表わしているという。陳守娘が死後に多くの努力をして自ら無実を証明し、賛美されるまでになったように、「女性は男性より努力して、求めるものを自分で勝ち取っていかなければならないのです」と言う。
こうした歴史から考えると、台湾各地に姑娘廟や夫人廟があるのは、女性の置かれた境遇に対する憐憫の情からかもしれない。長年にわたって社会体系の中で弱い立場に置かれてきた女性は、信仰を通して男性の神と平等の地位を得る機会を得たのである。
時代が変わるにつれ、陳守娘の物語は怪談の色彩を濃くしていき、現代人の多くは恐ろしいイメージを抱いている。さらには「台南最強の女鬼(幽霊)散歩ガイド」といったものまで出て、毎年多くの旅行者がこうしたツアーに参加している。これに対して游淑珺さんは「人は幽霊を恐れるものですが、特に女の幽霊を怖がるのは男性でしょうか、それとも女性でしょうか」とユーモラスに問いかけるのである。
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日本の軍人・杉浦茂峰を祀る台南の飛虎将軍廟。最近では多くの日本人観光客が訪れるスポットとなっている。
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雲林県口湖郷の埔南村、樹齢百年のプルメリアの木の下に、オランダ人を祀る「荷蘭公廟」がある。この木は、この土地の開墾に来たオランダ人が植えたものだと言われており、後の人々が逝去したオランダ人を「荷蘭公」として供養するようになった。神像は西洋の服を着ており異国情緒を感じさせる。(荘坤儒撮影)
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有応公は長年にわたって都市の発展を見守ってきたが、それと同時に都市計画などの要因で伝統と開発の板挟みになっていると語る游淑珺さん。(荘坤儒撮影)
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信仰の関係で線香を手に出来ない人は、合掌するだけでも有応公に誠意を伝えることができる。
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新北市石碇区を流れる永定渓の近くにある姑娘廟。ここに祀られる魏扁仙姑は生前は厳格な人だったと伝わっているため、敬虔な心持で参拝しなければ願いに応えてはくれないとされている。
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未婚の女性ばかりをお祀りしている廟では、参拝者の多くが化粧品やアクセサリー、髪飾りなどをお供えする。廟の中には、これらの供物を参拝者に提供または販売しているところもあり、身につければ無病息災がかなうとされる。