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台湾をめぐる

「悪地」の実り

「悪地」の実り

利吉泥岩悪地の物語

文・曾蘭淑  写真・林格立 翻訳・山口 雪菜

11月 2018

利吉悪地,台東。(林格立撮影)

台湾最大の谷地である花東縦谷は緑にあふれ、豊かな産物に恵まれている。花東縦谷へジオツーリズムに来れば、二つのプレートの境界に立ち、台湾の成り立ちを知ることができる。また池上断層や利吉泥岩悪地を訪ねれば、地球の壮大な営みが理解できることだろう。さらに台東特産のグアバやバンレイシ(釈迦頭)は悪地の特徴を利用して栽培されている。フランスの地質学者、Jean Auvouinが「台湾は地質学の宝石」と言った通りなのである。

花蓮の玉里駅から自転車に乗り、玉富サイクリングロードを行く。2.4キロの標識がある秀姑巒渓鉄道橋が今回のジオツーリズムの最初のスポットだ。

熱帯低気圧が近づいているせいか、鉄橋の上に立ち、ゆったりと流れる秀姑巒渓を見下ろすと、湿気を含んだ強風が吹き付ける。左に見える中央山脈は暗雲に覆われ、右の海岸山脈は晴れ渡っている。ここに政府観光局花東縦谷国家風景区管理処が断層帯休憩エリアに設けた二つの足跡がある。この足跡の上に立つと、片足はフィリピン海プレート上に、片足はユーラシアプレート上に立つことができる。プレートの境界に立ち、記念写真を撮ることができる。

玉富サイクリングロード上の秀姑巒渓鉄道橋では、片足でフィリピン海プレート、もう片方の足でユーラシアプレートを踏むことができる。

二つのプレートの境界

東華大学自然資源・環境学科の劉瑩三教授の説明を聞くと、花東縦谷が地理上の境界に位置していることの意味がよくわかる。今から1000万〜600万年前、フィリピン海プレートの西北の一端がユーラシアプレートに衝突した。花東縦谷の東側、つまり海岸山脈の西側は、まさにフィリピン海プレートとユーラシアプレートが接触する場所なのである。

それが顕著に分かるのは玉富サイクリングロードである。毎年1〜3センチ隆起を続けているため、しばしば亀裂が生じる。劉瑩三によると、これは施工が悪いためではなく、断層帯にあるためなのである。

花東縦谷には北は瑞穂から玉里、池上まで数々の断層がある。断層について詳しく知りたければ池上の地牛館と大坡小学校を訪ねるといい。工業研究院の専門家が科学的な測量を通して大坡小学校の擁壁に断層があることを証明している。これは地上で断層の動きが観察できる数少ない場所の一つで、そのために擁壁も崩れている。

大坡小学校の滑り台は池上断層のシンボルであり、世界の地質学界でも広く知られている。

地質学的証拠:利吉悪地

台湾が二つのプレートの境界に位置することを示すもう一つの重要な証拠は、500万年前のプレート運動によって生まれた利吉悪地だ。地質学上は「利吉メランジュ」と呼ばれる。世界的にも陸上で間近に「若い地質学的証拠」を観察できる場所はめずらしく、利吉悪地は研究上重要な位置を占めている。

「若い」というのは地質学上、百万年単位で見た表現で、誤差も百万年単位となる。劉瑩三によると、地球の45億5000万年の歴史から見ると、利吉メランジュの地質年代は非常に若いと言えるのである。

ジオパーク設立を推進するに当り、農業委員会林務局と縦谷国家風景区管理処は2010年から関連するリソースと景観の調査を開始し、地域の参加も得て解説のパネルを設置し、訪れる人が悪地をより深く理解できるようにした。

縦谷国家風景区管理処の林維玲処長によると、花東縦谷平野は文化も物産も豊富であることから、管理処では1〜3日の10余りの旅行コース打ち出している。稲刈りに触れたり、先住民集落を訪ねるなど、一味違う旅が楽しめる。

中でも「悪地の奇観探索」というコースは利吉と富源村を中心とした景観巡りだ。

★卑南渓から望む

台9乙線から車で利吉地域と利吉大橋に入る前、まず堤防横の北側から、あるいは卑南水圳公園から、遠くに荒涼たる悪地の景観を望むことができる。

卑南渓から西を見ると、小黄山が見える。これは数十万年前に生まれ、風化と浸食を受けて形成された「礫岩悪地」だ。

★利吉悪地景観台

利吉大橋を過ぎると、縦谷国家風景区管理処が設置した利吉悪地景観台がある。木の桟道を上っていくと、近距離で雨水の浸食を受けてできた悪地の溝や雨食谷が見られる。利吉コミュニティ生態ガイドの曾怡潔によると、大雨の後は小規模な崩落が発生し、新たな雨食溝ができるという。無数の雨食溝はこうしてできたのである。 

★富源景観台から望む

ここから県道197号線を上っていくと遠くに台東平野が見え、天気が良ければ太平洋に浮かぶ緑島や蘭嶼、それに卑南渓も望むことができる。

★秘境から俯瞰

狭く曲がりくねった産業道路を上っていくと悪地の高みに出て、斜面を刻む深い溝や谷を足もとに見下ろせる。ここはタイワンオオタカや野ウサギ、センザンコウの生息地で、明け方にはタイワンカモシカが尾根を歩く姿も見られる。地元に住む林龍清はここに登山道を開いたが、地元の達人の案内がなければ道を見つけるのは難しい。

富源村の産業道路を行くと悪地の高みに到達し、その景観を俯瞰することができる。

悪地という名称

地元の達人の一人、利吉村の元村長・曾金仁は30年前に卑南郷役場に協力して農作物調査を行なった時、あらゆる村を歩き回った。「悪地」という名称は彼がつけたものだ。

「この険峻で人を寄せ付けず、作物も育たない不毛の地を地元の人々は以前、摩天嶺と呼んでいました。命名会議で、地質調査所の徐鉄良は『利吉混合層(メランジュ)』を提案しましたが、ちょっと複雑で学術的すぎます。そこで私が『利吉悪地』というのが力強くて良いではないかと提案したのです」

曾金仁の名前を台湾語で読むと「驚き」と同じ発音になるが、彼が思いついた「悪地」という名称も人々を驚かせた。「それまで農家はグアバに燕巣という名を冠していたんですが、私が説得して悪地グアバに変えたところ、よく売れるようになったんです」

だが「悪地」という名称は縁起が良くないと反対する人もいて、十数年前には改名の投票運動も行なわれた。しかし、それに反対したのは当初「悪地」という名に強く抵抗した人々だった。というのも、「悪地」はすでに利吉村のトレードマークとなっており、農産物の知名度も上がっていたからだ。

東華大学の劉瑩三教授

悪地の実り

曾金仁は、悪地は不毛の地で、台風や豪雨が来ると土壌は流れ落ちてしまうという。悪地のなだらかな斜面を開墾した人がいたが、肥料をやっても水とともに流れてしまった。

「ところが、農家には分からないものです。ここの土は粘り気があり、雨が降らなければ硬くて何も植えられません。それが、サトウキビを植えると糖度が非常に高く、香りのよい黒砂糖ができるのです。研究機関が土壌を分析した結果、悪地の土壌はマグネシウムや鉄分などを豊富に含んでいて、それが独特な風味の要因になっていることが分かったのです」

悪地には、土地に合った作物を植えることが重要だ。農政機関に講義を依頼して悪地の泥岩地にふさわしい作物を探していった。その結果、グアバやバンレイシ、マンゴー、ミカンなどがよいことが分かった。

三陽工業を退職して帰郷した蔡鴻謨は、環境にやさしい農法で作物を育てている。除草剤を使わず、有機肥料をやったグアバは歯ごたえが良くて肌理が細かく、さっぱりした甘さがある。以前の同僚の間だけで売り切れてしまった。

柯炳煌は富源景観平台で「悪地スターアップル」などの果物を栽培しており、その箱には「富源悪地のスターアップル、乾燥地は天の恵み」と印刷してあり、非常によく売れている。

一昨年は台風の被害に遭ったが、今年は売れ行きが良く、特に台湾に30万人いる東南アジアからの移住者に人気があるという。中でもベトナムから来た人々に特に愛さており、一人で30キロ注文する人もいる。

2010年に林務局が利吉悪地を、住民が推進するジオパークのモデル地区に選んだ。曾金仁は、ジオパークと地域産業を結びつけるという目標に賛同している。特に利吉村は他の僻遠地域と同様、人口の高齢化と流出に直面しており、若者は仕事を得るために村を出ていかざるを得ない。地域の産業が復興すれば誰もが収入を得られるようになり、ジオパークをめぐるジオツーリズムや大地保全といった成果も得られる。

コミュニティ協会の努力のおかげで、まず退職した警察官や住民が帰省して田畑を耕すようになり、農繁期には付近の先住民族に手伝ってもらっている。また、悪地で栽培する果物がしだいに売上を伸ばし、以前はアルバイトをしていた先住民も農業の列に加わり、休耕していた水田を耕すようになった。

曾金仁によると、利吉村の人々は、以前は余所の町へ働きに行っていたが、現在、農繁期には他の村から働きに来てもらうようになったという。

ジオパークのネットワークを通して地域産業が興隆し、「悪地」が実りをもたらした。この悪地での農業とエコツーリズムこそ、地域住民と大地との共存の道なのである。

東華大学の劉瑩三教授は、利吉泥岩悪地の地層の中からリンを含む光る欠片を取り、プレート運動によって形成された大地であることの証明だと説明する。

利吉村元村長の曾金仁は、悪地こそ利吉村の宝だと考える。

悪地で育つグアバは甘く肌理が細かい。

悪地で育つスターアップルは特にベトナムからの移住者に愛されている。

悪地で育つスターアップルは特にベトナムからの移住者に愛されている。

悪地の釈迦頭(バンレイシ)は大旺という品種で、大きいものでは重さ1キロにもなり、果肉が詰まっている。

数々の果物を栽培する利吉村卑南郷の野菜果物第40生産販売班は「悪地」生産班である。

地域産業と大地保全が共存することで、利吉は悪地ではなく宝の地となった。