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我々が味わう甘さは2種類ある。一つは口の中で味わうもの、もう一つは心で味わうものだ。正月や結婚のお祝いにも砂糖菓子を食べる。「甘い幸せを味わう」という祝福の意味が込められているからだ。砂糖の甘い味は、幸福や美しい人生を象徴している。
砂糖は19世紀半ばまで貴重なものだったが、今では簡単に手に入る。台湾は砂糖の生産で17世紀に世界史の舞台に登場し、日本統治時代には砂糖が台湾輸出品のトップとなって多くの外貨を稼いだ。今は輸入砂糖も増えたが、懐かしい飴菓子や今も残る砂糖工場は、台湾のかつての「砂糖黄金時代」を物語る。
人間は元来、甘いものが好きだ。イギリスのエリザベス1世も砂糖やスイーツをとても好んだことで知られている。アメリカの著名な人類学者シドニー・W・ミンツは、自著『甘さと権力』でこう述べている。人類が甘味を知ったのは果物や蜂蜜からで、砂糖が作られるようになったのは今からほんの500~600年前のことだ。熱帯地方でサトウキビから砂糖が作られ、それが世界各地に広まった。だが当時の砂糖は貴族だけが消費できる贅沢品に過ぎなかった。その後19世紀になり、温帯地方の作物である甜菜から砂糖を精製する技術を科学者が見出したことで、世界の砂糖産業の有り様は一変した。
台湾における砂糖生産は17世紀に記録が見られる。初期は漢人の移住者たちが小規模にサトウキビを育てていたが、オランダ人が台湾にやって来た後、1642年からの記録が残る。彼らはまた資金を提供し、開墾やサトウキビ栽培、製糖に従事する漢人を集めた。鄭成功の時代には、次第に産業としての形を整え、台湾はアジアにおける重要な砂糖生産地となっていた。台湾糖業公司の資料によれば、1652年に日本へ輸出した記録があり、さらに日本統治時代になると砂糖は台湾三大輸出品のトップを占めた。
台湾の砂糖摂取
中央研究院台湾史研究所の副研究員である曽品滄によれば、日本統治時代になって日本人が台湾の近代的製糖業を発展させた一方で、多くの台湾人地主も引き続いて製糖所を経営し、台湾人が食用に使う粗糖を生産していた。当時は砂糖の取引に制限はなく、お金さえあれば売買が可能だった。第二次世界大戦中には砂糖は配給品となって管理されていたものの、島内で砂糖が手に入りにくいということはなかった。大戦末期に食糧事情が悪化し、米の配給が充分に行えなくなった時期でも、バナナと砂糖に置き換えて配給したほどだった。当時、砂糖は島外への輸送に困難をきたし、島内に過剰にあったことがわかる。
『砂糖之島』の著作がある、国立陽明交通大学人文社会学科の黄紹恒教授は、台湾での砂糖生産は食生活に深く関わってきたと言う。例えば、昔懐かしい糖葱(ネギの形をした飴菓子)や龍鬚糖(龍のひげ飴)、麺茶(小麦粉などを溶かした甘い飲み物)、祭りの屋台でよく見る糖葫蘆(串刺しの飴がけ果物)、正月の餅や蒸し菓子、客家の碗仔粄(米粉に黒砂糖を入れた菓子)といった伝統スイーツから、現代のタピオカティーなどのドリンクもあるし、また台湾南部では料理に多めに砂糖を加える習慣がある。台湾では一年を通じて日常生活で砂糖が重要な地位を占めている。
黄紹恒は次のようにも指摘する。日本による統治が始まった1895年には、すでに多くの国で機械による製糖が行われて国際的に取引され、品質にもさほど差がなかった。差をつけるには生産コストを抑える必要がある。しかし当時の台湾は小作制で、地代が生産コストを上げ、それが砂糖の価格に影響していた。海外の製糖業が活気を呈する中、戦後の台湾は農業から工業への転換が進んだこともあり、製糖業は次第に衰退した。だが300年を超える歴史を持つこともあり、ほかの産業にはない独特の風景がある。
愛され続ける糖葱
風景を宜蘭に移してみよう。国立伝統芸術センターの糖葱文化館では、飴菓子職人の卓創慶が飴生地を引っ張って、昔懐かしい「糖葱」を作っていた。珍しい菓子工芸の実演に、多くの人が足を止めて見入っている。琥珀色の飴生地を手際よく棒に巻き付け、リズムよく体を動かしながら生地を引っ張っては止めることを繰り返すので、生地が棒に当たってタッタッと音を立てる。ほんの1分ほどで琥珀色の生地が長く伸びて白い帯状になった。形がネギのように見えることから「糖葱」と呼ばれるこの飴菓子は、真珠のように白くとても上品だ。
最後に卓創清は糖葱を素早く木の棒に巻き付けて形を整え、それから奥に持って行き、息子の卓偉同と二人で素早く飴を数センチずつにカットし、湿気を避けるために袋に詰めていった。木の棒に固定されていた部分は歯ごたえのある飴になり、長く伸ばされた部分はサクサクとした食感で、好みは分かれる。試食してみて思わず「おかげで子供の頃の記憶がよみがえりましたよ」と言った年配の客がいた。
単なるお菓子として食べるだけではなく、昔の富裕層がよくした食べ方を卓創慶は紹介する。潤餅(生春巻き)の皮に糖葱を載せ、パクチーなども加えて巻いて食べる方法だ。アイスクリームを加えればしっとりとした食感になる。卓韋同も自信ありげに「潤餅皮の作り方はじいちゃんから伝わる秘伝で、黄金比率があるんです」と言う。現代人の食べ方は、コーヒーや紅茶に砂糖代わりに入れたり、豚足を煮込むのに入れてツヤを出したりする。
かつては麺類の店や衣類を売る店など小さな商いを営んでいた卓創慶だが、30年前に妻の実家で糖葱の技を継承する者がいなくなり、気は進まないものの仕方なく妻の父について学び始めた。1年後には独り立ちできるようになり、台湾じゅうの祭りや夜市を回るようになった。そんな飴引きの技術を買われ、17年前に宜蘭の伝統芸術センターに招かれ、長期駐在の糖芸師となった。
炉の火加減、砂糖や水の量など、糖葱作りやその材料は簡単なようで各工程で細かな技が要求される。まず砂糖水を作り、それをとろ火で煮詰めていくが、その間、絶えず撹拌しなければならない。温度や湿度、火加減をうまく調整しなければ、飴を焦がしてしまう。水分が蒸発して水飴状になったら、火からおろして鍋ごと水で冷やしながら、手で形を整えて飴生地にしていく。これで引っ張れば葱状になる生地がようやくできる。
また、これらの作業はつらい。夏は耐えきれないほど暑くなるし、170度にも達する飴生地をしきりに動かして、手で扱える70度ほどまでに温度を下げる。水飴や飴生地をうっかり手にこぼそうものなら貼りついてなかなか取れず、火傷をしてしまう。すべて手作業で行うので、技を学ぼうという人もまずこの高温に恐れをなしてしまう。現在、糖葱師は台湾全体でも指で数えられるほどしかいない。卓創慶の二人の息子は幼い頃から接してきたこの伝統芸を、三代目として立派に受け継ごうとしている。
卓創慶は輸入品の甜菜糖を使ってみたことがあるが、伸びが悪かった。台湾産の白糖の場合は手ごたえが異なり、伸ばすとほど良い強靭さが出る。だが味となると差はわかりにくい。「どちらもとても甘いですから」と言う。
我々も糖葱を試食させてもらう。口に入れると舌の上で甘さが広がった。卓創慶は、糖葱は十分に甘いからこそおいしく、甘党の若者がこれを食べると止まらなくなると言う。「糖葱はね、本当に甘くないとおいしくない。本当ですよ」
中央研究院の曽品滄によれば、清朝末期から日本統治時代初期の古い歌謡『識丁歌(識字歌)』に、糖葱が出てくるという。また卓創慶が年寄りたちから聞いたという話もある。台湾では戦後すぐに糖葱を作る人がどっと増えた。日本人が台湾を去り、倉庫に残された砂糖を管理する人がいなくなり、雨などの湿気で砂糖がペースト状になって流れ出てきたのを、人々が持ち帰って煮たのだという。「それをつまみ上げているうちに糖葱状になったと聞きました」
「糖の都」の発展
台湾のサトウキビは主に中南部で栽培されるが、砂糖作りがサトウキビ栽培と製糖工程を結び付けた。文化部文化資産局の調査によれば、清朝による台湾統治以後、台湾各地でサトウキビ農家による砂糖精製所が次々と作られた。そして日本人による統治後、製糖業の近代化が進む。それまでの砂糖精製所を改良して砂糖工場が作られ、資本も導入されて製糖株式会社が設立されていく。日本統治時代末期には台湾全土に43の近代的製糖工場があり、資本も明治製糖株式会社を含む日本の大手4社によって占められ、それらが戦後は台湾糖業公司に接収された。
多くの農業労働者を必要とする製糖産業は、地域の発展を促した。雲林虎尾鎮では、虎尾製糖工場ができて多くの労働者が集まるようになり、やがて虎尾鎮は「糖の都」と呼ばれるほど発展した。1950~1965年に台湾の製糖業は最盛期を迎えたが、その後は国際的な砂糖価格の急激な変動や、国内産業構造の変化に伴い、農業が「工業を下支えする」ものとして役割を変えたことで、製糖業も次第に衰退していった。
日本統治時代に43あった製糖工場のうち、今はわずかに雲林の虎尾糖廠と台南の善化糖廠だけが製糖を続けている。工場が稼働する毎年12月から翌年3月までは甘い砂糖の香りが敷地内に漂う。この二つの工場が生産する砂糖は、国内消費用の年約5万トン、だが台湾人の砂糖の年間消費量は61万トンを超えるため、台湾糖業公司は高雄の小港に工場を設立、輸入粗糖を白砂糖に精製し、国内に供給している。残りは民間業者によって輸入される砂糖だ。
生産を停止した工場も、養豚、胡蝶蘭栽培、ホテル、レジャー、バイオテクノロジーといった多角経営に乗り出している。
台湾糖業公司によれば、現在サトウキビから作る砂糖は地元(自営農家及び契約農家)栽培のサトウキビを用いたもので、褐色の砂糖を精製しており、ふくよかな甘い香りや味、食感は輸入品にはない良さがある。現在、同社が栽培するサトウキビと生産する砂糖はすべて農業委員会による生産販売履歴認証を取得しており、消費者は生産、加工、包装の履歴をチェックしたうえで、国産サトウキビによる甘い味を楽しめる。
サトウキビ運送に使われた軽便鉄道の五分車(トロッコ)がまだ残るのは、雲林虎尾糖廠、彰化渓湖糖廠、嘉義蒜頭糖廠、台南の新営糖廠と柳営区烏樹林糖廠、高雄橋頭糖廠の6カ所で、虎尾糖廠で今もサトウキビ運送に使われているほかは、観光用として走っている。
糖葱を生春巻きの皮に載せ、ピーナッツの粉とすりゴマ、パクチーを一緒に包むというのが、昔懐かしい食べ方だ。
往時を偲んで
台湾の精糖業発展史を残すため、国家発展委員会は既存の糖業鉄道や五分車をサイクリングロードと結び付けて観光用のルート「糖鉄国家緑道」を、まず彰化と台南に作った。彰化では、渓洲糖廠から渓湖糖廠までを、台南では岸内糖廠と新営及び烏樹林糖廠をつなぐもので、現在は自転車道の改善工事を進行中だ。
百年の歴史がある工場には文化・観光資産としての価値がある。橋頭糖廠は台湾初の近代的製糖工場で、緑豊かな敷地には台湾唯一の糖業博物館もある。1906年に建てられた蒜頭糖廠は日本統治時代の台湾三大工場の一つで、趣のある木造建築が残る。敷地内から高速鉄道嘉義駅まで五分車も走り、さらに故宮南院までの路線が2023年に開通予定で、五分車に揺られながら製糖業が盛んだった往年を偲べる。またほかの多くの糖廠もリノベが進み、昔懐かしい台糖アイスなども売られている。
砂糖生産によって台湾は世界史の舞台に登場し、砂糖で稼いだ外貨で経済や工業の発展を支えた。今日、砂糖は手軽に買える日用品になったとはいえ、昔懐かしい糖葱、百年の歴史を持つ糖廠に漂う糖の香り、のんびりと行く五分車の旅などによって、我々はサトウキビが作り出した百年前の台湾の栄華をしみじみと偲ぶことができる。
卓家では春巻きの皮も自家製である。小麦粉と水を「黄金比率」で練って焼いた春巻きの皮は歯ごたえがあっておいしい。
日本統治時代には43の新式製糖工場があったが、今は虎尾と善化だけとなり、ここでは今も砂糖が作られている。
卓創慶が義父から学んだ糖葱作りを今は息子や嫁が引き継いでいる。一家は心を一つにして古き良き時代の「甘い記憶」を伝え続ける。
サトウキビを運ぶトロッコ(五分車)は、今は観光用としても走っている。