神轎は、敬虔な信徒の思いと職人の献身が詰まった神の威厳の現れだ。
ご神体を乗せる神輿である「神轎」は、敬虔な信徒たちからの寄付を受け、職人たちが丹精を込めて作り上げた神の威厳の象徴だ。
神々の巡行中、各地で出会う神、神轎、担ぎ手、信徒が、感動的な宗教の旅の一章を紡いでいく。
媽祖の巡礼では何万人もの信徒が神々と共に練り歩く。大甲の媽祖の目的地は新港奉天宮で、白沙屯拱天宮の媽祖は北港朝天宮までだ。目的地に向かう道すがら、人々は神から授けられる幸運を願いながら、神轎の通り道にひれ伏し媽祖に自分の体の上を通ってもらう「稜轎脚」を行う。ある所では、涙を湛えた母親が経鼻胃管のついた赤ちゃんを抱きかかえ、子供が健康を取り戻せるよう、ひざまずき媽祖に加護を求めていた。民家の脇の角では、やつれた白髪の女性が、過ちを犯した我が子が再び社会に受け入れられるよう媽祖に懇願していた。媽祖は、救いを求める苦しみの声を聞き入れ、担ぎ手に足を止めるよう働きかける。そして神轎の担ぎ棒で信徒に軽く触れ、悲しみに暮れる心を癒してくれる。
白沙屯拱天宮の媽祖が朝天宮に入る前に、担ぎ手が神轎の前進・後退を交互に3回させる神様「三進三退」の儀式「犁轎」をし、朝天宮の媽祖に挨拶をする。信徒らの「入るぞ! 入るぞ! 入るぞ!」の歓声の中、担ぎ手が廟内に雪崩れ込む。溢れるほどの信仰の力に心打たれる場面だ。
白沙屯拱天宮管理委員会の陳弼宏さんは、32年に及ぶ神轎担ぎでできた「栄誉の」神轎ダコを見せてくれた。(撮影:郭美瑜)
神轎の使者と信仰の力
神の祭り「廟会」では、神が移動する際の乗り物として神轎が使われる。それは人間と神が最も近づく瞬間でもあり、その距離を縮めるのに一役買うのが担ぎ手たちなのだ。
「神々が繁栄するためには、崇めてくれる人達(信徒)がいるし、巡礼をするには運んでくれる人が必要です」と話す中央研究院民族学研究所の兼任研究員である林美容さんによると、神々は神通力と五営兵将という守護神の助けによって土地の平和を守っているという。特に、「移動する女神」である媽祖は、しばしば領内を巡行(巡境)したり、支援(賛境)したりする。媽祖には分身がおり、役割分担がある。例えば、祖媽(大媽ともいう。祖から始まり二~六まで存在する媽祖のうちの一人)が祖廟や関係のある廟の参拝(進香)をし、二媽が地域の見回り(遶境)をし、三媽が各地域の廟との交流(賛境)をするといった具合だ。信徒たちは轎班会や媽会という担ぎ手のチームを結成して、この世における神々の「足」となり、交替で祭祀や遶境の仕事を担う。
だが、4~8人で担ぐ神轎の重さは往々にして百キロを超える。担ぐには、屈強な肩と強い気持ちがなければならない。
姚伯勳さんによると、神輿には文轎と武轎の2種類があるという。
名誉の証「神轎ダコ」
「神轎担ぎでは体と意志の強さが試されます」と、神轎担ぎ歴32年の白沙屯拱天宮の管理委員会メンバー、陳弼宏さんは話す。白沙屯の媽祖の進香では、担ぎ手の交代は1時間ごとに、「急行軍」では30分ごとに行われる。肩は神轎の担ぎ棒で擦られ、足には神轎の重さで負荷がかかり、足の裏に水ぶくれができることもある。「前半の体の痛みはまだ耐えられますが、後半が苦しいですね。信仰と意志の力に頼るしかありません」と言い、神轎担ぎのために、担ぎ手たちの肩には、栄誉の「勲章」が付いていることが多いのだそうだ。陳さんは「これが神轎ダコです。媽祖から賜った栄誉の印なんです」と、肩の上の盛り上がったこぶを見せてくれた。
神轎の担ぎ手には強い信仰心がある。だが、そうなるまでの縁は人それぞれだ。
内装業の陳さんは30年以上前、仕事中に64ミリもの鉄針が心臓に突き刺さってしまうという事故に見舞われた。「すぐに白沙屯拱天宮の媽祖にお助けくださるよう祈りました。不思議なことに、その瞬間、痛みを感じなくなったんです。自分で5階から階段を下りて病院に連れて行ってほしいと助けを求め、一命を取り留めました。媽祖は私にとって再び命を与えてくれた親のようなものです」と話してくれた。
奇跡体験と信仰心から陳さんは32年もの間、神轎を担ぎ続けてきた。最も印象深いのは2001年、白沙屯の媽祖の進香で濁水渓を通った時のことだ。
「川底にはべとついた泥や砂がありましたが、媽祖のお知恵で安全な水路が選ばれました。信徒たちも神への信頼を示し、200人以上もの見知らぬ者同士が支え合って媽祖に従いました。皆が全身全霊をかけて示した人と神、人と人との心の交流を思うと、今もぐっときてしまいますね」と、体験を語る陳さん。その目には、今もなお涙が滲んでいた。
一年の加護に感謝込め担ぐ神轎
旧暦1月15日の元宵節の前、私たちは新港の新港街を訪れた。そこでは、奉天宮「四街祖媽会」の総監督・謝瑞総さんと会のメンバーが、元宵節の遶境で四街の媽祖が乗る神轎を準備していた。
新港の地元住民である謝さんは、廟の前の広場で遊び育った。25歳になるまで神轎を担ごうとは考えたこともなかったが、年配の人たちが経験を語るのを聞いて、「自分の媽祖は自分でお守りしなければ」と思い、担ぎ手に加わったという。四街祖媽会は2011年に結成された。毎年元宵節に奉天宮で行われる大遶境の準備開催をし、会員が神轎を担ぐ。普段は繋がりのある宮との交流や賛境に参加している。当初30人余りだった会員数は今や200人余りを抱えるまでになった。
「媽会の参加者は皆、媽祖と通じるものがあるんです」と謝さんは話す。続けて「ユニフォームを着ると、私たちは媽祖の配下の将官代表ということになりますので、媽祖のため地域の人たちに奉仕します」と思いを聞かせてくれた。
奉天宮の元宵節の遶境、準備は朝7時に始まり、翌日未明に完了する。媽会のメンバーは交代で神轎を担ぎ、信徒たちの礼拝、神轎くぐり、金のプレート掛けなどの信仰行為の際の奉仕をする。「媽祖が一年間、私たちをご加護くださいました。この日は媽祖に恩返しをする日なんです。丸一日の務めを終え、神轎への別れの儀式の時、私たちは全員ひざまずいて神の祝福を祈るのですが、それが一番感動的で待ち遠しい瞬間なんですよ」と謝さんは言う。
北港朝天宮の初代・祖媽六角鳳輦は24師に囲まれており、媽祖の巡行に随行する多くの神々を象徴している。
爆竹を浴びる虎爺と担ぎ手の胆力
神轎の下に積まれた爆竹を激しく爆発させる儀式である「犁炮」「炸轎」は、北港の朝天宮で行われる媽祖遶境の風物詩のひとつだ。巡行する神の一人である「虎爺」は、閩南語で「好額(ホーギャー)」と発音され、「豊かな」とか「満ち足りた」という意味を持つ。非常に縁起が良く喜ばれる音であるため、虎爺神轎は遶境の中で浴びる爆竹の量が最も多い神轎だ。虎爺会のメンバーが神轎を持ち上げたり取り囲んだりする中、爆竹点火の瞬間には激しい爆発音が鳴り響き、燃えカスが四方八方に飛散する。だが誰も怯みはしない。
「仲間たちは皆、虎爺のご加護があると信じていますので、爆竹の数がどんなに増えようが、毅然とした気持ちで神轎を担ぐのみです」と語る北港朝天宮の虎爺会会長・林鴻儒さんは、鍛えられた意志の力だけでなく、虎爺の精神こそがこのイベントを多くの人にとり魅力的なものにしているとし、「手を取り合い、肩を組んで神轎を囲み、団結力と恐れ知らずの力が発揮された時は、温かい気持ちになりました」と話す。
この魅力は外国人も惹き付けてやまない。フランス人のエドゥアール・ロケットさんは、15年連続で朝天宮の虎爺の遶境で犁炮に参加している。虎爺が無事に朝天宮に戻された際には、勇気ある担ぎ手たちの集中力と献身に感銘を受けるという。
虎爺会館に安置されている日本式の三代目虎爺神轎は、大量の爆竹の洗礼を受け、爆発時の煙で真っ黒になってしまっている。彫刻には「傷跡」もあり、神轎の底にある鋼板には爆竹の灰が厚く付着している。林さんは、「神轎は1万箱以上の爆竹を“食らった”に違いない」と話す。神轎の「輝かしい戦功」が容易に想像できるというものだ。
大工は神輿に廟の建築様式を再現し、「神々の移動する城」という意味を持たせた。
建築・職人技・芸術が融合した神轎
神轎は神の威厳の象徴であり、多くの信徒の寄付により作られる。廟によっては、その廟の建築様式を模してさらに精巧に作られた神轎もあり、敬虔な信徒の献身が込められている。
神轎工芸の研究者である姚伯勳さんによると、神轎は官吏が乗る輿に端を発しており、担ぎ手が2~4人の輦轎、4~8人の文轎と武轎に分けられ、媽祖が乗るのは通常、文官や女神用の文轎であるという。例えば、白沙屯の媽祖が北港朝天宮に進香に行く時は、担ぎ手は神の啓示によるランダムな道筋に従い、長く苦しい道のりを移動しなければならないため、神轎は担ぎ手が4人の軽く機動性の高い籐製の文轎が使われる。そして北港朝天宮に入る前に担ぎ手が8人の豪華な神轎に変わる。進香をする神轎の上部にはピンク色のカバーがかけられており、信徒からは「ピンクのスーパーカー」という愛称で呼ばれている。
姚さんによると、時代の発展とともに豊かになっていった信徒が、神々の加護に感謝しようと神轎作りの寄付を行い、神轎は豪華さをどんどん増していった。一部の宮や廟の神轎には、建物の構造までもが模倣されており、門や窓、屋根を支える組物、屋根などの建築要素や工芸技術、美観が反映されたものまである。神轎は「神々の移動する廟」という意味合いを持つようになり、北港の朝天宮の初代および二代目の神轎は宗教のレベルを超えて、芸術作品にまで昇華されている。
奉天寺四街祖媽会のメンバーは、神轎への別れの儀式の際にひざまずき、媽祖の加護を祈る。(提供:新港奉天宮四街祖媽会)
北港朝天宮 神業と見まごうほどの初代神轎
北港朝天宮の祭祀チーム長である紀仁智さんが、現在、宮の事務棟にある「初代・祖媽六角鳳輦」を見せてくれた。1909年、祖媽金順盛轎班会会長の許致さんが12社から寄付を集め、朝天宮の修築を行った名工・陳應彬に依頼し、陳應彬の指揮のもと設計と制作が行われ、3年の歳月をかけて完成したものだ。
文化部の資料によると、陳應彬は己れの全ての技を作品に注ぎ込み、創意工夫を凝らし、最もよく知られた「二層になった透かし彫り」と「角のない竜の装飾が施された壁」の技法を取り入れて、神業とも思えるような祖媽神轎を作り上げた。この神轎は1915年(大正4年)に、台湾南部物産共進会を代表して台南の農業博覧会に出品され、晴れて日本の共進会の技術賞を受賞した。
この六角形の神轎は、入口の所が四海を治める四人の竜王像で守られ、周囲は24師に囲まれている。これは、媽祖の巡行に随行する多くの神々を象徴しており、媽祖の地位の尊さの表れとなっている。神轎の屋根瓦、竜柱、屋根を支える組物、窓枠飾り、扁額などには、細部まで精巧な彫刻が施されている。特に、神轎を支える柱は透かし彫りが施され、内外に重ねられている。また、媽祖が座る位置の後部に嵌め込まれた壁には、「北港朝天宮」の文字が竜の模様に巧みにあしらわれており、人間業とは思えないほどの精巧な技術は、他に類を見ないものだ。
目を凝らして初代の祖媽神轎を見てみると、木彫りの人物がさまざまな表情をしているのがわかる。縁起の良い神獣たちの四肢や細部にも妥協がない。例えば鹿はうつむき加減で何やら含みのある表情をしており、麒麟は鱗の模様がくっきりと見える。神轎の左上45度の角度から見ると、廟の建築装飾と相似しており、まるで廟建築の縮図のようだと神轎工芸研究者・姚伯勳さんは言う。
「車で言うと、神轎界のロールス・ロイスです」 と紀さんは例える。日本統治時代には、4つの団体が初代祖媽神轎の絵葉書を発行していたことから、その芸術的価値がうかがえる。「これは台湾の神轎の最高峰です」と語るのは、媽祖文化を研究する国立空中大学の蔡相煇教授だ。
神轎工芸研究者の姚さんによれば、初代神轎の素晴らしさは、構造とフォルムが重視され、職人が透かし彫りの技法を多用して神轎を軽量化したことや、六角形の開口部にいずれも趣向が凝らされ、信徒がどの方向から見ても内部に鎮座する荘厳な神が見えるようになっている点にあるという。陳應彬がこらした斬新な工夫に気づかされる。
初代の祖媽神轎は1960年代にその役目を終えた。二代目の神轎はオガタマノキ製で、初代神轎をモデルにしている。二代目は、鹿港の名工・李煥美率いる職人たちの手によるもので、李煥美が得意とする西洋の草花の彫刻により、古典的な上品さが醸し出されている。
神轎には、廟建築で屋根を支える部材である組物が取り入れられている。
「全島第一」嘉義市の城隍神轎
神轎の職人技で朝天宮の祖媽と肩を並べるのは、嘉義市にある嘉義城隍廟の城隍神轎だろう。
この「城隍使司神輿(八獅座武轎)」は、地方の有力者が資金を調達し、名工の黃順財率いる20人余りの職人によって建造された。1926年に完成し、1996年に役目を終えたが、2018年に文化部が「重要古物」に登録し、現在は廟の宝として城隍廟後殿の2階回廊に展示されている。廟の担当者が、温度・防湿管理がされたボックスの扉を開けて木製の神輿を見せてくれた。生き生きとした精緻な彫刻の素晴らしさは息を呑むほどだ。
廟が、国立台南芸術大学大学院博物館学・古物保護研究科・兼任助理教授の林仁政さんと文物修復師の荘竣傑さんに研究を依頼したところ、嘉義城隍の神轎の主要構造部には硬くて丈夫なイチイガシが、彫刻にはきめの細かいシロミミズが主に使われ、重さは約300キロもあることがわかった。
神轎に掲げられた扁額には「勅封綏靖侯(勅命により綏靖侯の称号を賜る)」(綏靖侯は清時代の州の城隍神のこと)と刻まれている。神轎の接合部には「ほぞ組み工法」が用いられ、堅牢性が実現されている。神轎の最も大切な構造である竜柱と花鳥柱は内層と外層に分解でき、軒瓦の部分にはヤコウガイの装飾が施されている。担ぎ棒を通す穴は神轎の下部にあるが、担ぐのに支障はない。神轎の左右には洋風の回廊が設けられ、それ以前の木工様式とは一線を画している。
文化部は城隍神轎を重要古物として登録し、「アジア太平洋地域における神轎文化において、台湾の神轎の歴史と工芸が体現されているという代表的価値も有しており、極めて希少性がある」と評した。日本統治時代の新聞『台湾日日新報』はこの神轎を「模倣不可能」であるとして、「全島第一」と称している。
神轎は廟会における神の乗り物というだけでなく、芸術的、文化的、工芸的価値を含み、信徒と神の間の信仰と感情の結びつきでもある。神轎を実際に目の当たりにすれば、台湾の人々と神々との間で交わされる思いが、きっと深く理解できることだろう。
嘉義の城隍神轎の竜柱と花鳥柱には、美しい彫刻が施され、内層と外層に分解できる。
嘉義城隍廟の最も重要な宝である城隍神轎。
獅子があしらわれた神轎の脚。
虎爺は閩南語で「好額(ホーギャー)」と発音され、「豊かな」「満ち足りた」などの意味があるため、遶境の際は多くの店で歓迎される。
北港朝天宮の虎爺の遶境で爆竹の儀式を体験するフランス人のエドゥアール・ロケットさん。前列右は虎爺会の現会長・林鴻儒さん。(提供:林鴻儒)
北港朝天宮の遶境の特色のひとつ、神轎の下に積まれた爆竹を激しく爆発させる儀式「犁炮」「炸轎」。(提供:北港朝天宮)
北港朝天宮の虎爺神轎と勇気ある担ぎ手たち。(提供:北港朝天宮)
担ぎ手チームである媽会のメンバーは、媽祖のために献身的に働き、地元の人たちの礼拝の際の奉仕をする。(提供:新港奉天宮四街祖媽会)
白沙屯の媽祖が乗る神轎は籐製で、長く苦しい道のりを移動できるように、軽量で機動性が高い。
嘉義城隍の神轎には「勅封綏靖侯(勅命により綏靖侯の称号を賜る)」と書かれた扁額があり、土地の守護神である城隍神に称号が与えられたことを示す。
神轎の彫刻には吉祥の意匠が用いられている。写真は八仙が女仙・西王母の誕生日を祝う様子を表現した嘉義の城隍神轎。
名工の陳應彬は、文字の形に躍る「角のない竜」の装飾が施された壁を神轎にあしらった。陳應彬お得意の技法で、「北港朝天宮」の文字が見て取れる。