軍人の足跡をたどって
「春朝に去り、花は乱れ飛ぶ。佳節が来ても帰らず。あれは楊柳の青い頃、長征の別離の時…」この歌「回憶」は、1970~80年代に台湾の合唱団などで必ず歌われた歌だ。花中の教師であり、「花蓮の音楽の父」と呼ばれた郭子究による作曲で、広く愛された。
この歌詞のように、かつて台湾に移り住んだ日本人も、第二次世界大戦で台湾から出陣し、敗戦で日本に撤退したまま台湾には戻ってくることはなかった。ただ建物だけが残され、その記憶を今に伝える。
1936年創立の花中は、日本統治時代には徹底した軍国主義教育が行われ、日本から高級将校が派遣され教壇に立った。「初期は士官学校に等しく、第3期卒業生までは毎月貯金して、卒業時に日本で行われる観兵式に自費で参加しました」と言うのは、花中卒業生であり、郭子究文化芸術基金会事務局長の鄭宏成さんだ。
当時は教職員宿舎も、台湾総督府官舎建築基準に照らして「判任官」クラスの規格で建てられ、中には等級が最高の甲級宿舎もあった。鄭宏成さんによれば「高級官舎には表玄関と内玄関があり、表玄関の柱と子供部屋の天井にある棕櫚の模様は、ここが日本人にとって南洋の植民地だったことを表します」という。もちろん、軍刀を帯びた教官の姿はもはやなく、教師宿舎も歳月を経て壁の下見板は別の色に塗り替えられている。ここは修復され、音楽家、郭子究を記念する文化館となっている。
詩人の陳黎さんは、彼の高校時代の音楽教師であった郭子究を「台湾の伝説的な作曲家」と形容する。「回憶」「'A来」といった、合唱団でよく歌われる曲のほかに、花中校歌や花蓮県歌なども作った。1946年から花中で教壇に立ち、「郭先生は家が貧しくて小学校しか卒業しておらず、教師をしながら中学、高校、専科学校の学歴をこつこつと取得しました。その姿にはとても励まされます」と鄭宏成さんは言う。
「窮すれば即ち変じ、変ずれば即ち通ず」が口癖だったという郭子究は、音楽教育においても楽器を改造したり、「電動視聴五線譜器」なるものまで作り出した。これは、彼自身が設計図を描く、電気機器職人に作ってもらったもので、五線譜のボードにランプをつけ、それをオルガンの鍵盤につなぎ、鍵盤でドを押せば、五線譜上のドのランプが光るようになっていた。聴覚と視覚を結びつけることで学習効果を高めたのだ。
復刻された「電動視聴五線譜器」と80年前のタイプライターのキーを試しに打ってから、我々は再び旅を続け、東部幹線である台9線を美崙渓へと向かった。
美崙渓の川沿いにも日本式の宿舎群があり、照りつける日差しを背の高いナンキンハゼの木が遮っていた。
そのうち将校の宿舎だった「将軍府」は、日本軍の花蓮・台東地区における最高指揮官だった中村三雄大佐が住んでいた建物で、美崙山ふもとにある松園は、彼が勤務して指揮を執っていた場所だ。
「将軍府」という名を持つが、将軍が住んでいたわけではない。中村大佐の階級をよく知らず、単にとても偉そうだと感じた当時の近隣住民が「将軍府」と呼ぶようになったのだという。
当時、台湾で日本人が建てた建物の多くは和洋折衷で、日本の伝統家屋とは設計が異なっていた。例えば屋根裏のトラス構造や煙突の設計、門の位置などに西洋の様式が取り入れられている。
この日、将軍府の案内役はボランティアの李永鎮さん、90歳で将軍府と同い年だ。
李永鎮さんは『湾生』とは日本統治時代に台湾で生まれた日本人を指しますが、私にも花中をいっしょに卒業した湾生の同級生がいました。そのうち一人は第二次世界大戦末期に特攻隊員となって出陣し、そのまま帰りませんでした」と言う。彼の『湾生』同級生たちは6年前の花中同窓会に参加するため日本から集まった。「まだ生きていたのか」と感動的な場面が繰り広げられたという。
郭子究音楽文化館には、サトウキビを圧縮した素材が天井に用いられている。上から白い漆喰が塗られ、シュロ葉の編み込み模様が刻まれている。