
王爺の巡行で賑わいを見せる東港。
王船を燃やす「焼王船」。これは王爺を天に送り返す儀式で、「屏東東港迎王平安祭典」のハイライトだ。王船は王爺が地方を巡行する際の乗り物であり、疫病を鎮める法器としても使われてきた。現代では重要な文化遺産となっている。
「焼王船」のイベント前に東隆宮の王船製造所に足を運ぶと、工芸の精巧さや美しさを間近で見ることができる。

「夯枷(ハンジャー)」:紙の首かせをつけて、温王爺に願掛けやお礼参りをする。(撮影:荘坤儒)
東港ならではの漁船工法
船首には海の神のシンボルである三叉の矛があり、地元では冗談めかして高級スポーツカーの「マセラティ」と呼ばれている。船体には9匹の龍が描かれ、長さ約46尺(1尺は約30センチ)、幅12尺、高さ16尺、重さ12トンの王船には、10門の移動式大砲と4基の固定砲台、牛・豚の囲いや厩舎、王爺が乗る6頭の馬、そして厨房、便所、テーブル・椅子といった手工芸品が一通りそろっている。船の縁には生き生きした佇まいの36人の船員が置かれている。
東隆宮王船の最高責任者・潘鳳得さんが、王船の歴史について話してくれたことによると、清の時代には王船は木造だったが、その後張り子製に変わり、戦後は再び木造に戻ったという。
台湾経済が発展した1960年代は、漁船が大型化していたため、「漁船工法」を用いた王船造りの船大工集団育成にうってつけの時期だったと話すのは木日水巷工作室の責任者・蘇煌文さんだ。
東港の王船技術は東港自身の王船建造だけにとどまらない。小琉球や他の廟の王船製造の受注も可能だという。
東隆宮の設計科科長である蔡文化さんは、木造の王船にとって最も重要な技術は水漏れしないことだと話す。13歳で見習いとなった蔡さんは、45年前から造船の手伝いを始め、これまでに数え切れないほどの王船を造ってきた。全盛期には町に少なくとも120人の親方がいて、それぞれ3時間交代で王船造りに精を出していたそうだ。だがそんな親方たちも今や年を重ね、平均年齢が70歳となった。皆、船造りの技術が失われることを心配しているとのことだ。
屏東県では、王船工芸を守ろうと県政府が王船の3Dモデリングを進めている。県では今年(2024年)、台湾初の「王船文化館」が開館する予定だ。実物と同じ比率で作った王船を展示する計画があるため、迎王祭を見逃してしまっても、迎王の儀式や王船の職人芸について理解できる。

温王爺の令旗を持ったチーム長が、信者のために邪気払いをして平和を祈る「改運」をする。
王船を天に送り、邪気払いと加護を
迎王祭のクライマックスは、8日目の夜に行われる「焼王船」、王船を燃やす儀式だ。担当者らが王船の周囲に額面1兆元以上の紙製のお金を積み上げる。そして王爺の令牌を船に乗せ、供物を捧げる三献礼の儀式をすると、いよいよ王船が燃やされる。
古くからの習慣に倣い、王船に火がつけられると担当チームの人たちは振り返ることなく沈黙したままそこを離れ、騒がしくならないように努める。疫病を引き起こす妖怪が家までついてこないようにするためだ。
中央研究院台湾史研究所所長の謝國興さんによると、こうして静かに儀式を終わらせることを「偃旗息鼓(軍旗を置き軍鼓をやめる)」というそうだ。だが現在では疫病を追い払う風習の多くが祭典としてその姿を変えている。
20年以上にわたって台湾の民間信仰を研究してきた謝さんによると、北は基隆から南は屏東まで台湾各地で定期的/不定期な王船儀式があるという。東港、小琉球、南洲を除く他の地域の迎王祭では、王船はほとんどが張り子で作られているそうだ。東港、小琉球、南洲では張り子職人がいなかったことで、木造船職人らが独自の王船製造技術を発展させてきたのだと謝さんは主張する。
東港ならではの特色として、王船が移動し町を練り歩く「遷船」とも呼ばれる巡行がある。その最大の意義は厄除けをして疫病を追い払うことだ。船が通る場所では、人々の身代わりとなる紙の人形を集めて王船に運んでもらう。こうして禍を除き、加護を祈るといわけだ。

朝早く出発し、夜遅くまで続く王爺の巡行。(提供:東隆宮)
民間の活力と社会の強靭性
謝さんは王船文化を記した著作『禮祝下鄉』で、台南、東港、中国大陸の漳州における疫病祓いの儀式を比較している。疫病を船で追い払う風習は中国福建省で生まれ、台湾、マレーシア、インドネシアなどに広がったが、土着化し、地元の民間信仰に入り込んでいったと謝さんは指摘する。
例えば、王爺信仰は台湾各地にあるが、全ての王爺信仰や式典に、「王醮」と呼ばれる儀式、「王船」、王爺の住まいとなる「王府」の3要素があるわけではない。王爺を迎える儀式は各地で定期的または不定期に行われ、主神も必ずしも王爺とは限らないのだ。
謝さんが挙げた例によると、台湾で王爺の分霊が最も多く最も信仰が篤い台南市の北門南鯤鯓代天府では、迎王や焼王船の行事が過去100年間近く行われていない。一方、台南市の関廟と帰仁では迎王祭が不定期で行われており、嘉義県の東石先天宮では4年に1度、「王醮」の儀式と「焼王船」が行われているが、「王府」はない。
また、謝さんが過去に行なった推計によると、中国大陸の漳州では少なくとも年間40~50艘の王船を燃やしていたが、台湾では年間10艘にも満たなかった。しかし1960年代に中国が関連儀式の実施を止めたことから、台湾は造船技術の精巧さ、儀式のこだわり、完全性という点で、世界で最も充実した豊かな王船の祭典を保持している。祭典には深い文化的意義があるというわけだ。
「西港刈香」と「東港迎王」は国の重要無形文化資産に指定されている。こうした祭典に参加すると、資金や努力を惜しまずに信仰と文化の継承を人生の一大事と考える地元の人たちの献身的な姿が目に入る。民間の自発的な活力と信仰を支える力があるからこその継承だと謝さんは考える。これこそが心打たれる社会の強靭性となるのだ。

屏東県政府は台湾初の「王船文化館」を開館準備だ。現在、造船職人が展示用王船の制作に取り組んでいる。

生き生きと鮮やかに作られた王船の船員たち。

王船に描かれた9匹の龍を数えてみてはいかが。

「108宴」は、王爺を天に送り返す前の別れの宴だ。(提供:東隆宮)

王爺とその従者が帰路で使う物資を積み込む準備をする人たち。

「焼王船」の儀式は、王爺を天に送り返すためのものだ。王爺が去った後、寺や廟、参加者は静かに儀式を終わらせそれぞれ持ち場を離れる。