雲林は台湾最大の農業県だ。この地の文化は広大な農地を抱えて発祥し、広がった。今回も我々はペダルを踏みしめ、田畑から集落、また田畑へと戻り、川に沿って進んだ。都会の道を行くあわただしさもなく、地形の急な高低差もない。雲林の自転車の旅は、新鮮な緑や土の香りに満ち、100余りの文化資産との出会いがある。
台17号線を三條崙海清宮の方向に進む。海辺に屹立する風力発電の風車に沿って進むと、林の中を走る黒森林自転車道に到着する。ここが成龍湿地の起点だ。巨大な風車を動かす海風が雲林平原に吹き込み、潮の香りがする。木々から差し込む陽光で風車の影が路面に伸びており、時おり加速してその羽根を追ってみるのもおもしろい。
農地を湿地に
湿地の入り口に着き、「海螺(巻貝)」と名付けられたインスタレーションの脇に自転車を止め、湿地の木道を歩く。50ヘクタールに及ぶこの湿地の水面で夕日が風にさざめき、湿地に立つ芸術作品に光と影が美しく伸びる。魚やエビを食べに来たクロハラアジサシ、ダイサギ、ヒドリガモ、オバシギなどの水鳥が、黄昏の逆光の中で翼を広げたり、鳴いたりする様子を見ていると、ここからさほど遠くない所に、大都市をつなぐ幹線道路が走っていることを忘れそうになる。
この成龍湿地は土地再利用に成功した例だ。元は農地だったが、地下水の過剰な汲み上げで地盤沈下したところに台風で海水が流れ込み、農地として使えなくなっていた。それを住民の努力によって、魚やエビ、カニ、植物の生息する湿地として生まれ変わらせたのだ。また芸術家を招き、環境に馴染む作品を設置したりもしている。
日没後を選んで北港朝天宮を訪れた。300年以上の歴史を持つ荘厳な廟だ。廟の前には古式豊かな赤い提灯がずらりと吊るされ、廟内へと我々をいざなう。この廟は、「光のいたずらっ子」と呼ばれる照明アーティスト、周錬の設計によって300個の電球に照らされており、典雅な建物や壁画、神々の像が美しく浮かび上がっている。
地下水の過剰な汲み上げで地盤沈下が起きていた土地が、住民たちの努力のおかげで水鳥と植物が豊富な成龍湿地となった。
宗教で興り、農業で繁栄
昼間には、典雅な建物の北港文化センターを訪れた。宗教的文物が展示されており、朝天宮を中心に生まれた各種の儀式、習俗、建造物などの文化資産について知ることができる。2階へ上がると、中華龍鳳獅文化運動総会理事長で、龍鳳獅のヘッドコーチも務める呉登興が、祭祀に用いる古い「弔喪旗」の整理をしていた。これは最初に登録された所蔵品で、500点を超える廟関連の文物を保存する「集雅軒」から来たものだ。「この旗は地元の要人や紳士の葬式に掲げられたもので、ある種のステータスを表します」という。
呉登興はもう一つのコレクションを見せてくれた。手のひら大の北港朝天宮「籤詩解」(おみくじの文章の解説本)で、日本の日日新報社が明治44年(1911年)に発行したものだ。黄ばんだ薄い紙にびっしりと説明が書かれている。「100年前の人は朝天宮でおみくじを引いた後、この本で調べたのです」獅子舞の獅子頭制作や保存を手掛けたのがきっかけで、呉登興は10年以上にわたり北港の無形文化財保存のために奔走してきた。「行政区として雲林県ができるまで、ここの人はみな『台南人』でしたが、独立した県となってから『雲林人』は、自分たちには宗教関連の豊かな文献や文物があることに気づきました。それらの保存はまさしく雲林文化の保存なのだと」
午前中、我々は県道155号線から153号線に入り、元長や褒忠一帯のニンニク畑にやってきた。ニンニク農家3代目の張夏銘は、50年にわたり災害や害虫と闘い、近年の気候激変もしのいできた。「台湾のニンニクの味は輸入物とは全く異なります。収穫方法からして違うのですから」
張夏銘の息子、張谷榕は幼い頃より農業に親しみ、大学卒業後に故郷に戻って農業を継ぎ、すでに10年を超えた。収穫したばかりのニンニクの皮をむいて見せ「台湾のニンニクはとてもデリケートです。植付けから収穫まで、天候だけでなく温度の影響も受けやすいのです」条件を選ぶ作物だが、雲林は「条件がちょうど良い」のだという。そのため雲林のニンニクは台湾全体の生産高の7割以上を占め、独特な食感と香りを持ち、生で食べると辛みと爽やかさがある。乾燥させて作った黒ニンニクは、辛みがないうえに、栄養が凝縮されてドライフルーツのように甘い。
300年以上の歴史を持つ国定古跡・北港朝天宮は、夜に入っても参拝客が絶えることはなく、堂々とした荘厳な廟建築が明かりに映える。
木陰の隠れ里
県道160号線で元長郷を通り抜け、145号線に入った後、分かれ道から「虎尾河堤道路」が始まるのに気づいた。地元の人以外にはあまり知られていない道だが、すばらしい風景が広がる。風も日差しも気持ち良く、陽光にきらめく虎尾渓を眺めながら自転車を走らせる。「建国眷村」まではさほど遠くなく、道もわかりやすい。虎尾砂糖工場の周辺にできた集落なので多くの家が虎尾渓に沿って建つからだ。途中で急に涼しくなったと思うと木陰を走っていた。雲林の厳しい日差しも木々に遮られ、わずかに木漏れ日が射すだけだ。名もなく、地図にもないこの林道は、眷村から外部に通じる主要な道で、両側には大樹が茂り、今回の旅における思わぬ発見となった。
林道を抜けたあと出現した建国眷村には思わず目を見張った。この農村型眷村はエリアごとに分けて修復が進行中だが、すでに修復されたエリアはオープンスペースとして活用され、多くの人がここで卓球したりコーヒーを飲んだり、展覧や書店をのぞいたりしている。文化保存に取り組む「文化保温瓶」の創設者であり、虎尾眷村の歴史文化を研究する李依倪が案内してくれた。「日本統治時代以前、ここには田畑と作業小屋があるだけでした。でも大樹が多く茂っているので物を隠しやすく、空から見ても農村にしか見えません。それで日本軍は近くに訓練用飛行場を作り、特攻隊の訓練基地をここに設置したのです」
空軍基地に属していたので広大な面積を持ち、典型的な日本式宿舎の縦長の棟をいくつも通り過ぎた。李依倪は、宿舎の脇に必ず作られているお椀を伏せた形の防空壕を指し、「台湾にやってきた国民政府は、飛行場に近いここを空軍家族の住まいとし、彼らの需要に応じて兵舎を拡張したため、ここは独特の『中日混合型』の眷村となりました」と笑って説明した。「全エリアの修復が終わったら眷村は美しくなります。またぜひ見に来てください」
北港朝天宮の100年前の籤詩解(おみくじ解説の本)の印刷版は非常に貴重なもので、今ではこの一冊しか残っていない。これは呉登興が思いがけず発見した貴重な宝物である。
百年の昔ばなし
建国眷村の近くには「雲林故事館」がある。前身は県指定文化財の虎尾郡守官邸だった。我々が雲林故事館に着くと、雲林県文化処長を2期務めた劉銓芝が、館長であり「故事人協会」創設者でもある唐麗芳と、お茶を飲んでいた。劉銓芝は「雲林故事館が『絵や文字で雲林の物語を残そう』と雲林の各世代に呼びかけ、それを絵本にしました。全国規模のイベントも行っています。唐先生の故事館は、雲林における建築物活性化の最も良い例です」と語った。
この15年間、雲林各地の建築物の保存申請が出され、元の建物の設計をできるだけ損なわずに再利用し、それを地元住民の暮らしに結びつける試みがなされている。「斜め向かいの合同庁舎は日本統治時代には役場や消防署、警察署が入った施設でしたが、今では書籍とコーヒーの香りに満ちています。これが、文化資産の保護と再利用が生み出す価値です」と劉銓芝は言う。当初は合同庁舎をどう保存するか悩んだが、当時誠品書店の董事長だった呉清友がスターバックスと共同で、元の建物の様子を変えないという前提の下、築80年の建物を書籍とコーヒーの場に作り変えた。おかげで毎日盛況だ。「虎尾には布袋戯(伝統人形劇)と日本統治時代からの台湾糖業鉄道があります。それらと付近の古い建物を結び付けて活性化させ、今では食堂や民宿、書店ができており、虎尾は雲林における文化スポットとなっています」と劉銓芝は満足げに説明した。
近くの路地に入ると、劉銓芝の言っていた書店「虎尾銓沙龍(サロン)」があった。和洋折衷の美しい「興亜帝冠式」建築だ。西洋建築の建物に東洋風の尖った屋根をかぶせるので、こう呼ばれる。廊下の書棚には、ここの主である王麗萍が選んだ書籍が並ぶ。ここで彼女は文化講座も催しており、オープンな場として知られる。
王麗萍は書籍を愛し、雲林の文化発展に心を寄せる。人々の主体的な思考を願う彼女は、最近の印象深い文化講座として次を挙げた。「張素玢の新作『濁水渓三百年』の出版発表会をここで行ったのですが、濁水渓に思い入れのある様々な人が一堂に会する集まりとなりました。2018年の世界本の日には若者に文学を愛してもらおうと、『作家の朝食を読む』というテーマを企画しました。作家を招き、作家の思い出の朝食を会場で作って参加者に食べてもらう、まさに味覚で文学を味わってもらう催しでした」
建国眷村は、もとは日本軍の特攻隊の訓練基地だった。日本の宿舎らしい四角い建物が並ぶが、国民政府が台湾に移ってきてから空軍がここを眷村に改築し、特殊な「中日混合」の外観となった。
愛するゆえに
週末の夕方、県道145号線を走っていると、平坦な農地の向こうに銀色に輝く温室が見えたので、訪れてみることにした。愛想よく迎えてくれたのは、温室栽培を行う「華興有機農場」の主、廖瑞生で、西螺の野菜生産販売チーム47班の代表でもある。有機栽培がまだ今ほど行われていなかった頃、廖瑞生は早くもチームを率いて有機栽培の研究を続け、しかも自宅の倉庫の上に農薬検査所を作り、収穫のたびに残留農薬を測定して、結果を政府に提出した。なぜそこまでするのかと問うと、廖瑞生は「私は雲林人で、雲林のすべてを愛しています。毒のある農薬を使えば、土壌はどうなります。水源は? 私の故郷は?と考えたのです」
彼の努力は報われ、彼と47班の有機農場は、指定6都市の小中学校での給食食材サプライヤーとして選ばれた。「私は毎日畑に行って菜っ葉たちに話かけ、彼らの生長に気を配り、日差しがきついと天井に遮光ネットをかけてやります。愛を込めて育てた野菜です。食べた人が健康になりますようにと」と語る。
再び自転車を走らせ、今回の旅の最終スポット、西螺に来た。ここは「醤油の故郷」と呼ばれる。西螺の人は帰省したらお土産に必ず醤油を買って来るものと周りから期待されていて、買って来ないと叱られるらしいが、それを西螺の人は誇りに思っている。西螺の醤油は、本当に最高だからだ。
我々の目的地は、祖父の代から薪をくべて手造りを続ける醤油の老舗「御鼎興」だ。コクのある醤油作りに没頭してきた父親は数年前に、3代目になる謝宜澂と謝宜哲兄弟に家業を任せた。二人は醤油への愛を元手に、新たに道を切り開いている。ブランド「御鼎興」を国際的にも広めようとニューヨークにも進出した。また「御鼎興」醤油を異なる食材と組み合わせて多様な味を生み出し、創作料理を作ってシェアしている。
我々が自転車を止めると、庭で兄弟が醤油甕のふたを開けたところだった。香りに引き寄せられたミツバチが甕の周りを飛んでいる。謝宜哲が「ふたを開けるといつもこうです」と笑った。庭じゅうに並ぶ甕は、水を加えない「乾式熟成」と塩水を加える「半水熟成」の2種類に分かれており、それらをどういう比率でどう混ぜるかは、家伝の秘訣だ。謝宜澂が釜に薪をくべる。温度調整は経験による判断だ。そのあと、人の背丈ほどもある長い鉄杓子を両手で持ち、ゆっくりと醤油をかき混ぜ始めた。次第に温まってきた醤油から、ふくよかな香りが漂う。
御鼎興を出た後もしばらく醤油の香りに伴われ、雲林の旅にふさわしい締めくくりとなった。今回は、農地や文化の道をたどり、まるで自転車という筆で線を引くように、雲林の平原に美しい地図を描くことができた。その地図上には、農業の里としての素朴さ、文化や歴史、人情や滋味が集められている。
町役場と警察局、消防局が集まった「合同庁舎」。高くそびえる消防隊観察塔は、かつては一帯で最も高い建物で、虎尾鎮全体を見渡すことができた。
虎尾厝サロンは台湾人が建てた洋館で日本の伝統的な屋根を載せてあり、当時は前衛的とされた「帝冠式」の建築スタイルとなっている。
劉銓芝(左)は、唐麗芳(右)が故事館による文化交流の方式で日本統治時代の古い建築物に新しい命を吹き込む方法には大きな意義があると考えている。
雲林を愛するからこそ有機農業にこだわる廖瑞生は、今も毎日温室に足を運んで野菜を愛で、大切に育てている。
黒豆醤油を作る老舗「御鼎興」三代目の謝家の兄弟は、創意とマーケティングとシェアリングの概念によって「醤油美学」を打ち出し、老舗のイメージを変えつつある。