白粥と小皿料理の記憶
白粥に親しみを感じる理由は「家庭の味」だけではない。米を主食とする台湾人は、17世紀にはすでに粥を食べる習慣があった。そして、乳児が離乳食として最初に口にするのは、おもゆである。昔は子供に飲ませる母乳やミルクがなくて、おもゆで育てたという話があるほどだ。粥の味への愛着は私たちの生命に深く刻まれている。
農耕社会において、米は換金作物である。米を節約するため、サツマイモや雑穀と混ぜて粥にすることが、かつてはよく見られた。台湾の食文化に造詣の深い台湾師範大学台湾語文学科の陳玉箴教授によると、米とサツマイモの比率は家庭の経済状況によって違ったという。人数の多い時には水を加えて薄い粥にする。仕事のある日は昼に白飯を食べ、夜は粥にする。「米は主食ではあったが、粥の濃度や食事時間は、所属する社会階層や経済状況、職業と密接な関係がありました。」
「山に住めば山のものを食べ、海に住めば海のものを食べる」というように、白粥に添える副菜は、その土地で採れたものを材料にする。例えば、農家が自家栽培した野菜、収穫した野菜で作る醤油漬け、沿岸地域では魚介類の塩漬けや干し魚など、どれも米によく合う。こうした漬物、干物類に、卵や肉類を合わせて、「瓜仔肉」「蔭豉蚵」(カキと豆腐の豆豉炒め)「菜脯蛋」といった料理が作られた。保存食を活用した家庭料理である。
1960年代になって、こうした家庭料理がレストランで供されるようになった。これが「清粥小菜」の始まりだ。陳玉箴は著書『台湾料理の文化史:食物消費の中の国家体現』の中で「飲食業界の発展と社会の変遷の間には密接な関係がある」と述べている。1960年代、ナイトクラブが新たなビジネスの社交場となった。アルコールと脂っこい食事の後に、さっぱりとした夜食が求められたことから、清粥小菜店が人気を博す。台湾老舗の食品会社「青葉」は1964年に清粥小菜店として起業した後、肉醬(肉みそ)や麵筋(ソイミートの煮つけ)などの缶詰製品を開発し、徐々に事業を拡大した。
1970代に入ってナイトクラブは隆盛を極め、それにつれて清粥小菜の市場が拡大する。夜の経済が活発化し、接待や商談が増えた。二次会需要の高まりをみて、清粥小菜に限らず、多くの飲食店が商機を嗅ぎつけた。昼にステーキやスパゲティを売る店も、夜になると白粥の店に早変わりする。陳玉箴は「まるでシンデレラ」と評した。
陳玉箴は「時代の変遷によって、台湾家庭の外食頻度が高まり、家庭料理を提供する清粥小菜店が御馳走を食べる場へと変わっていった」と解説している。また経済成長に伴って、消費者の予算も増え、清粥小菜店はプライベートキッチンや技巧を凝らした料理を導入し、海鮮や高級食材を使い、宴席にも対応するようになった。結果として料理は洗練され、次第に現代台湾料理レストランの様式を備えはじめる。
家庭の食卓に由来する「清粥小菜」は、台湾人が慣れ親しんできた朝食であり夜食である。伝統市場では今でもその姿を探すことができる。写真は台北永楽市場横の白粥の店。朝だけの営業で、午後は別の店に入れ替わる。空間利用に創意工夫が見て取れる。