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化粧落としをした「新陽春薬局」は、かつての華やぎを取り戻した。
「一府(台南)二鹿(鹿港)三艋舺(万華)」という言葉があるが、これは清の時代の台湾で南から北へと開拓が進み、政治経済の中心地が広がっていったことを指す。だが、台湾西部平野の中心に位置する嘉義では、実は台南より早くから町を囲む柵が設けられ、高雄より早くから工業都市として発展していたことをご存じだろうか。
かつては「桃城」や「諸羅」と呼ばれた現在の嘉義市では、早くも1704年に城壁として垣根が設けられた。ただ1906年の梅山大地震に見舞われ、300年にわたって発展してきた街のシステムが壊滅した。そこで日本当局が都市計画を立て直し、碁盤の目の通りが設けられたのである。当時の二通(今の中正路)は、台湾人が民生用品を取引する物産の集散地だった。
1912年には阿里山林業鉄道が開通し、1914年には「東洋一」とされる嘉義製材所が完成。欧米から最先端の設備が導入され、木材産業集落が形成され、「木都」と呼ばれるに至った。
嘉義は阿里山の林業資源によって発展した。
代々受け継がれてきた物語
台北の大稲埕からスタートし、文化や自然に触れる散策や旅行のコースとガイドを提供する「島内散歩」は、2022年に嘉義にも進出した。「環時好室」を拠点とし、散歩や散策を通して故郷を知ろうという活動で、彼らが最初に打ち出したのは「二通」の物語だった。
「島内散歩」の雲林・嘉義・台南地区のディレクターを務める陳怡秀さんによると、日本統治時代、大通(現在の中山路)は日本人エリアで、二通は「本島人街」と呼ばれていた。その名の通り、地元の人々の商取引が盛んな地域だった。「二通では、人が生まれてから棺桶に入るまで、必要なものはすべて買えると言われていました」と言う。現在でも、ここには多くの伝統産業が残っていて「山産行」もその中の一つだ。
「山産行」というのは台北の迪化街にあるような各地の物産や乾物などを扱う店のことを指す。中正路に面した「益昌山産行」を経営する謝文祥さんが簡単に説明してくれた。「山で採れたものはすべて山産と呼び、キクラゲ、蜂蜜、メンマ、シイタケ、愛玉籽、金針菜などの乾物があります」嘉義市は林業鉄道があるため、日本統治時代には陸路の要衝で、南部と北部の物産の取引も盛んだった。謝文祥さんは向かいの商店を指し、昔は旧正月前はお客が絶えることがなく、シャッターを下ろす時間さえなかったと言う。また、隣の店には銀行が会計担当を派遣して手伝っており、給与も銀行から支払われていた。店の収入を銀行に預けてもらいたいからで、こうしたことからも、当時この通りがいかににぎわっていたかがうかがえるというものだ。
中正路には他にも数々の老舗がある。ミシンを扱う「嘉義針車行」も5代目が経営する老舗だ。その歴史の長さは、入り口に書かれた4桁の電話番号からうかがうことができる。1944年の創業で、店内には自社で開発生産した東郷ブランドのミシンが並んでいた。かつてミシンは多くの女性たちの商売道具だったのである。店の外観は洗い出し仕上げだが、内部に入るとヒノキ造りであることに気付く。ヒノキの階段と、木に刻まれた商標がこの空間の物語を伝えている。
陳怡秀さんは私たちを隣りの「頼信成香業」に案内してくれた。線香を扱う店だ。4代目の経営者である頼隆毅さんは店頭に立ち、お客におまつりする対象を聞いている。神様かご先祖様か、無縁仏か、それによって準備する紙銭が違うからだ。無縁仏のための白銭を広げると、櫛や衣類の絵が印刷されていて、これらは無縁仏が必要としている日用品だと説明してくれる。これらの紙や紙銭の使い分けには深い知識が必要なのである。「頼信成香業」は自社の線香工場も持っている。線香の原料は生薬や檀香、沈香などなので、煙で健康が損なわれることは決してない。伝統的なお参り用の線香から現代的なお香まで、この百年近い歴史を持つ店ですべてそろう。
何世代にもわたって伝わってきたこれらの物語から、当日乗ったタクシーの運転手の話を思い出した。その運転手によると、30年前に嘉義で兵役に就いていた乗客が、30年後に再訪してみると通りの店は何も変わっていないじゃないか、と嘆いたというのである。それに対して運転手は「見方を変えれば、私たち嘉義人に悪い子供はおらず、どの子孫もきちんと家業を継いでいるということですよ」と答えたというのである。
ミシンを販売する「嘉義針車行」の店頭には今も4桁の電話番号が表示されており、ここからも店の歴史の長さがうかがえる。店内のミシンは、多くの家庭での裁縫の記憶をよみがえらせる。
暮らしの風景
「嘉義は小さいですが、すべてが揃った都市です」と、故郷を離れて5年、戻ってきて半年の陳怡秀さんはこの町を形容する。帰省して働こうと決意した陳怡秀さんは、嘉義はゆったりと暮らせる町だと考えている。ある本に「台北人が歩くスピードが90だとすると、嘉義の人のそれは20だろう」とあり、その言葉に同感だと言う。
嘉義の最大の見どころと言えば阿里山だろう。しかし近年は、このゆったりとした街そのものが魅力を発揮し始めており、「ここは理想を抱く人をこころよく迎え入れる町です」と陳怡秀さんは言う。確かに多くの若者が嘉義に戻ってきて自分の好きな仕事で起業し、夢をかなえている。「静かな湖面に石を投げ入れると、たくさんのさざ波がたつのに似ています」と言う。
地方誌『本地:嘉義市』には多くの統計が掲載されていて、その意外な数字に驚かされる。嘉義市の面積はわずか60平方キロほどだが、鶏肉飯が24時間にわたって食べられ、シェイク飲料の店の密度は台湾で最も高く、カフェの密度は2位、コンビニの密度は3位、公園の密度は台湾で最も高いのである。これらを見ると、上位に入っているのは科学技術でも経済力でもなく、暮らしそのものである。冷麺にはマヨネーズをかけ、豆花には豆乳をかけるなど、嘉義の人々は独自の主張を持ち、自分たちのペースで暮らしている。
ほどよい大きさの町は、観光にも生活にも適している。例えば「環時好室」から近い中央噴水池のロータリーを訪れると、車が多く、観光客でにぎわっているが、一本路地に入ると静かに時間が流れ、のんびりと過ごすことができる。
「環時好室」での取材を終えると、陳怡秀さんは二通を東に行けばヒノキ造りの東市場があると教えてくれた。ここは嘉義の台所であり大食堂でもある。また、地元住民の信仰の中心である城煌廟もある。陳怡秀さんは、正殿の藻井(飾り天井)をぜひ見てほしいと言う。天井に飾られている人形には弥勒仏や武将のほかに、背広に山高帽を被った西洋の紳士や、翼のある神像などもあり、これらは渓底派の名人である王錦木の作品ということだ。廟のボランティアは、壁にかけられた日本の和歌の対聯へ案内してくれた。これは日本統治時代後期の皇民化運動の中で、台湾の民間信仰を守るために、日本当局と良い関係を築こうと作られたものだという。
生活感あふれるこの通りには、衣食住の日常と多くの物語があり、ゆっくりと散歩をすることでこの街のおもしろさに気付くことだろう。
嘉義は理想を抱く人々をおおらかに受け入れる町だと語る陳怡秀さん。
木都のDNA
生活のほかに、もう一つ見逃せない嘉義の特色は木材産業である。南華大学建築・景観学科の陳正哲准教授の調査によると、嘉義市には現在少なくとも6000棟以上の木造家屋があり、台湾では木造家屋の密度が最も高い都市である。
嘉義の木材産業の歴史を振り返ってみよう。1912年に阿里山鉄道が開通し、これによって嘉義の発展が始まった。「阿里山の森林をひとつの母体とすれば、嘉義市はその子供のようなものです。阿里山鉄道が臍の緒のように嘉義に養分を送り、この町がしだいに成長していったのです」と陳正哲准教授は言う。そして後の1963年、阿里山の樹木の伐採が禁じられたことで、かつて繫栄した木材の町の衰退が始まったのである。
2014年、陳正哲さんの研究チームは、放置されていた嘉義旧監獄宿舎群の木造家屋の修復を開始した。そして、これらの建物を通して町を復興できないかと考え、「木都2.0」という構想を打ち出した。1912年から1963年まで、木材産業は嘉義を「木都1.0」として発展させた。その後、世界的に脱炭素化が大きな課題となる中、木造家屋が再び注目されるようになり、木材産業の技術も改革が重ねられてきた。陳正哲准教授によると、樹木が木材として使えるまでに生長するには、昔は数十年かかっていたが、現在は間伐した木材を接着剤で張り合わせることで構造部分にも使用できるようになった。これは「集成材」と呼ばれ、テストの結果、強度は同じ寸法の原木より強いことがわかり、今では重要な建材となっている。
世界の流れと新しい技術によって「木都2.0」にも機会が訪れている。そこで陳正哲さんは「修繕をもって賃貸に代える」というプランを打ち出した。公的部門が所有する放置されていた監獄宿舎に民間の小規模資本を導入し、プロのチームの指導の下で修繕してもらう。そして、そこに入居する業者の事業が木材産業と関係するものに限れば、木材産業を中心とするクラスターが形成されるのである。
陳准教授は私たちを「矯正塾1921」へ案内してくれた。ここは旧監獄宿舎エリアで最初に修復された木造家屋である。彼らは増築した空間を開放し、緑と余白の空間にしている。内部は床を下げて天井を高くし、広々とした生活空間となった。彼らは歴史資料に基づいて本来の姿に修復するのではなく、新たな技術を用いて新旧の木材を用い、また最新の技法で建物の安全性を高めた。木造家屋もモダンに建てられる現在、省エネの快適なものとなる。「ここは私たちのモデルハウスです」と話す通り、多くの人に木造家屋の快適さに触れてほしいと考えている。
修繕と景観整備を行なった宿舎群は、今では産業を育成する場となり、週末にはマーケットが開かれ、夜間は散歩に適した快適な空間である。人々はあらためて木造家屋の暮らしに触れられ、木材が嘉義の暮らしに戻ってきた。
散策や旅行のコースとガイドを提供する「島内散歩」は2022年に嘉義に進出してから「二通」散策のコースを打ち出した。(環時好室提供)
素顔の街並み
木材産業に関連する戦略として、陳正哲准教授は市街地の木造家屋に対して「古い民家の化粧落とし」というプロジェクトを打ち出し、これにより、一般の住宅地で木造家屋に関する議論を呼び起こしたいと考えている。最初に手掛けたのは、通りに面した木造家屋の立面の修繕だ。「通りに面した部分は公共財ですから」と言う。古い家屋の通りに面した窓の多くは封じられ、トタン板を貼られたり、ベランダが改造されていたりしたのを、引き算の方法で当初の姿へと修復し、ライティングでその姿を見せると、多くの人が昔の建物の美しさに気付いたのである。
こうした引き算の方法で化粧を落とし、素顔に戻った家屋を、陳正哲准教授はいくつか見せてくれた。蘭井街にある「新陽春薬局」は、隣の家とつながった2階建ての日本式町屋建築で、現在は通りに面した立面が修復され、2階の丸窓やアーチ型のベランダや雨除けも修復され、見る者に過ぎ去った日々を思い起こさせる。80歳の店主は、この家を見に多くの人が訪れるのに慣れていて「この建物に比べれば、私など若いものですよ」と話してくれた。
続いて中正路にある菓子屋の「大益糖果店」を訪れた。この店はかつて著名な画家である陳澄波の絵の中に描かれたことがあり、屋内に入ると、店主は壁に掛けた陳澄波の作品を指さし「これが、この建物ですよ」と話してくれる。陳正哲准教授は「この建物で最も美しいのは、ペディメント(破風)です。それが、これまでは醜いトタン板で覆われていたのです」と言う。陳正哲さんは、古い家屋の化粧を落とし、その下から本来の姿が現われるのを見るのは実に楽しいことだと語る。例えば、多くの家屋は外観は洗い出し仕上げの壁面になっていて、一見すると鉄筋コンクリート構造のように見えるが、それをはがしてみると木の構造が現われる。陳正哲准教授はこうした状態を「仮面」と呼ぶ。それらを取り去ることで、かつての嘉義の木造建築の黄金時代を目にすることができるのである。
さらに、家屋を修繕することで家族関係が修復されることもある。棟続きの木造家屋の中には、すでに分家しているところもある。兄弟なのに互いに連絡を取らず、付き合いもなくなっていた棟続きの二つの家があり、陳正哲さんが修繕のために両家の間に立って連絡を取っていたところ、家の修繕が終わると、兄弟の関係も改善したということもあったそうだ。
古い家屋の化粧落としをしていくと、周辺住民も注目し始め、かつての家の様子などを思い出して話し合う人も出てくる。多くの人の目に触れ、話題となることで、古い家屋の将来に希望が見えてくる。
こうして一つひとつ掘り起こされてきた古い木造家屋の物語に耳を傾けていくと、そこから台湾の木材産業の歴史が見えてくる。次に嘉義を訪れる時、これらのスポットが、きっと訪ねてみたい場所のリストに入っていることだろう。
線香などを扱う「頼信成香業」の4代目経営者の頼隆毅さん。神様やご先祖様のおまつりに関する知識は極めて豊富だ。
城隍廟の拝殿の一角、龍側のお供え台の下にはタイルに描かれた富士山の絵があり、もう一方の虎側には日本統治時代に新高山と呼ばれた玉山の絵が飾られている。
城隍廟の華麗な飾り天井には、背広に山高帽をかぶり、ステッキを持った西洋の紳士像もあり、外国から訪れた人々の興味を引く。
中正路にある菓子屋の「大益糖果店」。外壁は洗い出し仕上げになっていたが、店内に入れば木造であることがわかる。嘉義にはこのような古い家屋がたくさんある。
陳正哲准教授は「木都2.0」というコンセプトを打ち出し、木材産業が盛んだった頃の姿を再現している。
嘉義の魅力はじっくりと味わう価値がある。