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台湾をめぐる

竹の家と故郷の復興

竹の家と故郷の復興

台湾原住民族の竹と竹建築

文・李雨莘  写真・莊坤儒 翻訳・山口 雪菜

10月 2024

台湾の原住民族は衣食住のすべての面で「竹」と密接な関係にある。特に建築においては、数百年にわたる知恵が蓄積されており、そこには民族の精神や文化が込められている。

台東県の卑南遺跡公園の広い芝生の上に建つ少年会所(ttakuban)から、昔のプユマの人々が耕した農地を見下ろす。

「会所は集落共有の建築物で、男子の学校でした。私たちは成長の過程で必ずここで学習してきたのです」とプユマ集落の長老、鄭浩祥(Ahung Masikadd)さんは語る。鄭さんは、数年前に集落の若者たちと一緒に竹だけで建てた会所の前で、会所が持つ特殊な意義を語ってくれた。

プユマの国力の基礎

プユマは昔から強い民族で、研究によると、その緊密な階級制度が強さのカギだとされている。階級という尊卑の倫理は、少年会所の教育制度によって確立されていた。

鄭さんはこう話す。集落の男子は12~13歳になると長老の指導の下で、ケイチク(桂竹)やシチク(刺竹)を用いて少年会所を建て、それから4~5年はそこで生活する。そして先に会所に入っていた年上の男子から人との接し方やルール、階級、戦闘の技能などを学ぶのである。

「私たちが学ぶ内容は、外部の人から見ると奇妙な、道理がないものと思われがちです」と言うが、このような鍛錬はプユマの男子が大人になる重要な過程なのだと鄭さんは言う。

少年会所を出る前には彼らにとって重要な儀式である少年祭(mangamangayau)が行なわれる。これはプユマの言葉で「練習練習」という意味で、通常は12月下旬に行なわれる。

祭典の前の晩、少年は手に芭蕉の葉を持ち、集落の家々を回って「abakayta,abakayta!」と声を上げる。「私の袋を一杯にしてください」という意味で、魔除けのための行ないだ。翌日、少年たちは集落のトーテムを刻んだ矛を手に、彼らとともに半年余りにわたって一緒に過ごしてきた友人(ali)であるサルを刺す。家や集落を守る強い決意を示すためだ。

鄭さんは「少年祭を行なわなければ、その後の儀式はできません」と言う。その後の儀式というのは、3~5日をかけて男性たちが大勢で領地を見回り、狩猟や首狩りに出る大猟祭(mangayaw)や、その後に少年たちが喪に服している家のために行なう「開門」の儀式などだ。

「少年会所は兵士養成の基礎であり、国の柱、プユマの精神の象徴なのです」と鄭浩祥さんは厳粛な面持ちで語る。

この大切な少年会所が失われないよう、20数年前に彼は家族とともに集落に戻り、長老から学んだ竹を使った建築工法や文化を集落の若者に教えてきた。

建築図面を学んだことのない鄭浩祥さんだが、簡単な図で竹建築の工法を教えている。

建物であり文化でもある竹建築

建築士の林雅茵は、プユマの少年会所の竹建築と台湾のほかの竹建築を比較して、次のような特色を挙げる。少年会所の建物の中心部には「核心基礎架(libattubattu)」があり、また建物の8つの方向からは地面から屋根まで達する「大斜撐柱(panubayun)」が立てられている。

林雅茵は、建築にはその民族の精神や哲学が現われていると指摘する。大斜撐柱は、八方から一点に向かう形で立っており、それが構造を安定させている。プユマ語のpanubayunが「団結」を意味することとも呼応している。

さらに「少年会所は軽い構造で、耐震性はありますが、風には抗いません」と林雅茵は言う。しかし、建物中央の地面にある石を詰めた漏斗型の「核心基礎架」は建物に重心を与え、全体の重心を下げることで建物を安定させている。この「核心基礎架」は、台湾のランドマークである台北101を揺れから守るダンパーに似ていると指摘する学者もいて、「台湾の原住民は天性の科学者だ」と言われている。

一見シンプルな竹建築だが、このような構造から2016年の台風1号の風速50メートルの暴風にもびくともせず、人々を驚かせた。「さまざまな自然の素材に対する理解は、私たちの祖先の方がずっと優れていたのです」と林雅茵は言う。

鉄筋コンクリートが建築の主流となってから、人々は自然から得られる建材の知識を失ってしまい、台湾の伝統建築の継承にも深刻な断層が生じてしまったと林雅茵は嘆く。「台湾人として、台湾の伝統建築の知恵と文化と技術を学ぶ必要があります」と言う。

しかし、伝統の建築工法の大部分は徒弟制度の中で伝えられてきたため、文字による記録は少ない。建物の設計も建築工法も職人の勘や見解による違いがある。「私は20年以上にわたって何人もの職人に学びましたが、一人また一人と世を去り、それによって何世代にもわたって受け継がれてきたものも失われてしまいました」

そこで、林雅茵と鄭浩祥は利仁基金会の竹構学苑において共同でカリキュラムを設け、さまざまな分野の人々に系統だった形で少年会所の建築方法を教え、また工法の記録を文字で残そうとしている。

『Puyuma少年会所 台湾普悠瑪部落伝統竹構造』という書籍はまだ出版されていないが、鄭浩祥さんの口述を基礎とし、少年会所の歴史から文化的意義、そして建築の特色、工法や構造、細部の工程や作業要領まで、写真と文章で説明する一冊である。

「これを文章として残さなければ、この世代の人々が世を去った時、これも一緒に失われてしまうのです」と林雅茵は言う。

少年会所の建設を学ぶ時、林雅茵さんは学生たち全員に民族の名前で呼ぶように求める。(利仁教育基金会提供、楊筱虹・蔡卓霖撮影)

集落と竹が離れていく時

タイヤル族の暮らしも竹なしでは語れない。「タイヤルの人々にとって、竹は身近な場所から得られる建材なのです」と話すのは銘伝大学建築学科助教の単世瑄だ。

地理と気候の関係で、台湾では平地から高山までどこでも竹が生育しており、台湾の住民にとって手に入れやすい素材である。タイヤルの文化ではケイチクのことをrumaと言い、タイヤルの男性は竹編み細工ができなければならず、女性が学ぶことはできない。現在、国内で使われている竹の食器や農業用の支柱や牡蠣棚、それに日本に輸出される剣道の竹刀などもタイヤル族が力を注いできたケイチク産業と密接に関わっている。

しかし時代は変わり、原住民族の文化における竹の存在感は薄れていき、タイヤル族においてもそれは例外ではない。「今はどの集落の建物も、平地にある一般の建物と同じ姿をしています」と単世瑄は嘆く。都市も地方も均質化して鉄筋コンクリートの建物ばかりになり、集落は彼らの文化のDNAを失い、竹産業も衰退してきた。

「家」の象徴である家屋から始め、鄭浩祥さんは一歩ずつプユマ文化を集落に取り戻している。

故郷を彼らの手に返す

タイヤル族の歴史を探索した台新ホールディングスの元総経理・林克孝の足跡を追い、単世瑄は学生を率いて北部のタイヤル集落を訪ね歩き、集落の失われた文化の復興に協力してきた。

2011年は宜蘭県南澳集落のタイヤル猟径集落イメージ、2013年は桃園市復興区の比亜外集落サンケイ保護展示センターおよび集落の客間、2017年は苗栗県大安渓の象鼻集落野桐工房竹屋整備計画、2019年は桃園市瑄奎輝小学校の読書コーナー、2020年は桃園市卡普集落の竹建築共同制作計画など、いずれもタイヤル族が親しんできたケイチクを建材として、集落に竹建築を建てた。

「私たちのコンセプトは、建築設計や町づくりを通して集落と協力し、そこに地域性と自主性を持たせることです」と単世瑄は語る。小さな広場であれ、一本の通りであれ、あるいは集落入り口のオブジェであれ、建築を通して集落にエスニック文化の可能性をもたらしたいのである。

この活動に参加した学生にとっても、これには深い教育的意義がある。「コンピュータに頼った図面作成を抜け出し、身体で建材や現場を感じることができます」と単世瑄は言う。集落で学生たちは長老から民族の文化や物語を聞き、自ら竹林に入って竹を切り出すことで、建材にふさわしい竹を見つけることもできるようになる。「肉体も精神も、この環境に啓発されるのです」。スマホを手放すことのない現代の学生たちが、集落の人々と直接対話をすることとなり、こうしたコミュニケーションも建築教育においては非常に重要な部分なのである。

「空間」は、住民の暮らしや祭祀、信仰などの文化に染まることで意義のある「家」となる。「私たちがやっているのは、まさに空間を集落の人々に返すことです。彼らが集落に帰った時、心身の安寧と、文化とのつながりを感じられるようにしたいのです」と単世瑄は言う。この時、竹建築はひとつの建物であるだけでなく、それは彼らの故郷であり、原住民にとって百年の文化の核心でもあるのだ。

鄭浩祥さんと息子の鄭元欽(Benglay Masikadd)さんが台東県南王プユマ花環実験小学校に竹の家を建てている様子。

学校に設けられた少年会所と校舎壁面に描かれた白黒のトーテムは、鄭浩祥さんが集落に戻ってからプユマ文化復興のために制作したものだ。

林雅茵さんと鄭浩祥さんが利仁基金会で開くプユマ竹構カリキュラムには多くの人が参加している。(利仁教育基金会提供、呉佳祐撮影)

少年会所の地面に接する部分は一本一本の竹で建物を支える構造となっており、全体を安定させるだけでなく、防御の機能も持つ。(利仁教育基金会提供、楊筱虹・蔡卓霖撮影)

銘伝大学建築学科の単世瑄助教(中央)は学生を率いて山林に入り、建築を通してタイヤルの失われた竹文化を取り戻している。(単世瑄提供)