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台湾をめぐる

世紀を跨ぎ、無縁仏を供養する

世紀を跨ぎ、無縁仏を供養する

――鶏籠中元祭170年

文・李雨莘  写真・林格立 翻訳・山口 雪菜

10月 2024

「3、2、1、開け!」旧暦の7月1日、基隆の張廖簡宗親会(張、廖、簡を姓とする宗族の組織)の主任委員が「老大公廟」の「龕門」(俗に言う「鬼門」)を開く。鬼門を開いて老大公(無縁仏。台湾の民間では「好兄弟」と呼ばれる)たちをこの世にお迎えし、供養するのである。こうして一ヶ月にわたる鶏籠中元祭が幕を開ける。

鶏籠中元祭は2001年に交通部観光局によって台湾12大民俗祭典の一つに選ばれ、2008年には行政院文化建設委員会(現在の文化部)が国家重要民俗に指定した。

これまで170年にわたって続いてきた鶏籠中元祭は、現在も完全な道教の儀式を守っている。これは基隆の人々の善良さと憐みの心を示しており、基隆の一大イベントであるだけでなく、毎年国内外からも多くの人が参加する。

一般に言う「鬼門」ではなく「龕門」という言葉を使うのは、老大公(無縁仏)に対する基隆の人々の優しさの表れだ。(張廖簡宗親会提供、張晋超撮影)

あの世とこの世の宴

中元祭は旧暦の7月、一般に言うところの「鬼月」に行なわれる。毎年この時期になると「鬼門」が開かれ、亡くなった人々の霊がこの世に「夏休み」にやってくるのである。この世の人々は、たくさんの供物と紙銭(冥銭)をお供えして彼らを供養する。

この中元祭は台湾各地で行なわれるが、基隆の中元祭が他と違うのは、供養する対象が他の地域より多様な点だ。

基隆は昔の地名を鶏籠と言い、昔から台湾北部では重要な天然の港だった。近くにある金鉱や銅鉱の産出量も豊富で、そのために台南とほぼ同時期に開発が始まった。台湾で俗に「北は社寮(今の基隆和平島)、南は安平(台南)」と言うのは、基隆と台南が最も早くから開発されたという重要な地位を表わす言葉だ。基隆は台湾の北の玄関口でもあり、昔から戦略的にも極めて重要な土地であるため、兵家必争の地だった。もともとこの土地に暮らしていたのはバサイ族(平埔族であるケタガラン族の支族)だったが、後にはフランス人、スペイン人、オランダ人、日本人、そして漢民族もここを拠点にした。

争いや戦争が起これば、人が亡くなる。基隆の清仏戦争記念公園には1884年の清仏戦争で亡くなったフランスの兵士が祀られており、1885年の乙未戦争で亡くなった日本兵を記念した軍人軍属火葬場之碑も基隆にある。このほかに、萬善祠、金環姨廟、港仔口五十人公祠、それにさまざまな民族や国籍の人々を祀った三姓公廟など、いずれも基隆という異郷で亡くなった外国人の魂を慰める場である。

このような無縁仏を供養する鶏籠中元祭はいつから始まったのだろう。基隆市無形文化資産審議会の游淑珺委員によると、学界では1853年の漳泉械闘(福建省の漳州出身者と泉州出身者の戦い)が関わっているとされる。

代々続く宗親会

台湾の開拓の時代、福建省の漳州の出身者と泉州の出身者の間では土地を巡る争いが絶えなかった。なかでも1853年に最も激しい戦いがあり、108人が死亡し、その時に亡くなった人々が「老大公廟」に祀られている。この戦いは基隆の社会に重大な変化をもたらした。「武器を持って戦うのではなく、陣頭(祭りで神輿とともに練り歩く演武)で競い合う」ことになったのである。この時から基隆の住民は姓氏ごとに宗親会を組織するようになり、11の姓の人々がそれぞれ組織した宗親会が、1855年から交代で鶏籠中元祭の祭司を務めることとなったのである。

後には他の姓氏の宗親会も加わり、現在は15の宗親会がある。基隆の年配の人に聞くと、彼らは宗親会の姓をつなげて読み上げる「宗親歌」を歌えるだけでなく、昔の「張で始まり許で終わる」から、現在の「張で始まり郭で終わる」に変わった時期まではっきり覚えており、ここからも基隆における宗親会の歴史の長さと結束力の強さがうかがえる。

游淑珺は、鶏籠中元祭が170年も続いてきたのは、宗親会の長年の努力の成果だと考えている。数々の宗親会がバランスを取り、互いに目を光らせてきたのである。「『この宗親会は気が利かない』とか『敬虔ではない』などと批判されないように努め、また中元祭が順調に執り行えなければ一年の運勢に影響すると言われるのを恐れるからです」という。

鶏籠中元祭では、開龕門(鬼門を開く)から、豎灯篙(灯籠を上げる)、主普壇開灯放彩(法要会場の点灯)、迎斗灯(斗灯を迎える)、水灯頭(灯籠流しの灯籠)のパレードと放流、中元普度(済度の法要)、関龕門(鬼門を閉じる)まで、十の儀式が行なわれるが、宗親会の努力のおかげで、伝統的な道教の儀式が世紀をまたいで完全に守られてきたのである。

明かりを灯した主普壇は旧暦7月の間中、基隆で最も明るいランドマークとなる。(張廖簡宗親会提供、張晋超撮影)

中元祭の陰気なイメージ

基隆の人々は、旧暦の7月14日には早退して家に帰り、家族とともに海岸広場に場所を取りに行く。夜になると行なわれる水灯頭(宗親会が作る灯籠流しの灯籠)のパレードを見るためで、これは昔から続く地元の人々の習慣である。各宗親会が水灯頭の美しさや見栄えを競い、また地域や学校の団体によるパフォーマンスも楽しめる。これらは他の地域の中元祭では見られないにぎやかなイベントだ。

このような中元のイベントは基隆だけで見られる。台湾では一般に「鬼月」には数々のタブーがあるとされてきた。鬼月の間は夜に外に洗濯物を干してはならず、引っ越しをしてはならず、人に肩をたたかれても振り向いてはならない、などの禁忌がある。これらは無縁仏に対する漢民族の畏れを示している。

しかし、中元祭の起源をさかのぼると、これほど陰気なものではなかったはずだ。宗教の面から言うと、道教における中元節(旧暦7月15日)は、「赦罪」を司る地官大帝の生誕日である。民間では多くの場合、この日の早朝に神紙を燃やして地官大帝の生誕日を祝い、合わせて地獄で苦しむ無縁仏を許してくださるよう祈る。無縁仏が「出獄」してこの世での供養と済度の法要に出られるようにするためだ。

仏教では、旧暦7月15日は先人に思いを馳せ、感謝する日とされる。「目連救母」の物語では、目連は地獄で苦しむ母を救うために、仏陀の指示に従って7月15日に大勢の僧侶のために盆に食べ物を盛ってお布施をした。そして、それらの僧侶たちの法力によって地獄で苦しむ魂の苦痛は軽減され、輪廻転生できたという言い伝えである。この物語から、7月15日は仏教では「盂蘭盆会」と呼ばれている。

道教と仏教は、台湾で長年をかけて互いに影響を及ぼし合い、上記の二つの伝説に出てくる地獄観が混合していった。そうして、倫理に反することをすれば地獄で苦しみ、贖罪しなければならないという恐れや警告、勧善懲悪の教えとして根付いていったのである。このほかに『春秋左氏伝』には「鬼有所帰、乃不為厲(霊に帰するところあれば、禍を為さず)」とあり、ここからも無縁仏は悪さをするというイメージがあったことが分かる。こうしたさまざまな要素が積み重なり、長い年月をかけて今日の中元節が形成されたのかもしれない。そして現在の台湾の民間では、死者の霊を盛大にもてなすことで平安を保つという文化が根付いている。

憐みの心

基隆では、好兄弟(無縁仏)は山盛りのご馳走を食べられるだけでなく、「気配りの効いた」もてなしも受けられる。

旧暦7月1日に鬼門が開いた後、7月11日には「豎灯篙」と言って竹竿を立てて灯籠が掲げられる。昼間にあげる「日灯」は神々をお招きするもので、夕方6時以降にあげる「夜灯」は海上や陸上にいる死者の霊に、主普壇での供養の法要に参加するようお招きするものである。旧暦の7月14日には、パレードを終えた水灯頭(昔の建物の形をした灯籠。宗親会がそれぞれ用意する)が望海巷に運ばれ、海にいる好兄弟のために放流される。これは海にいる無縁仏に向けて出される招待状でもある。

水灯頭は、竹の骨組みに紙を貼って作ってあり、内部は3部屋や5部屋に分けられた「海上ホテル」のような造りとなっている。この中に銀紙(無縁仏のための冥銭)を入れ、また身づくろいのための洗面道具や衣服、日用品などの絵を描いた「経衣」(「巾衣」「更衣」とも呼ぶ)を納める。これらは、海にいる好兄弟がさっぱりと身なりを整えて陸に上がり、法要に来られるようにするためである。

ここで燃やされる細長い冥銭は、中元普度(中元の済度の法要)に用いるもので、法要の前にそれを燃やすのは、無縁仏への招待の意味がある。この時に燃やす冥銭の数はお供えの品や料理の数と合っていなければならない。大勢の好兄弟が来てくれたのに、それに足りる十分な食べ物やお供えがなければ失礼になるからだ。しかし、宗親会では水灯頭が海上を遠くへ流れていけばいくほど、その宗族の一年の運勢が良くなると信じられている。「人のお世話になったら、お返しをしなければという心理があるからでしょう」と游淑珺は説明する。

旧暦7月15日になると、主普壇(供養の会場)には長いテーブルが5列に並べられ、当年の祭司ではない宗親会がスポンサーとなってお供えの料理や品物を用意してテーブルに並べる。当年の祭司を担当する宗親会の「主普」の席もあり、肉や魚を使った料理と精進料理、それに西洋料理のテーブルに分けられ、料理の盛り付けや並べ方も豪華で美しい。

テーブルの端には、洗面器やタオルなどといった洗面用具が置かれ、法要にやってきた好兄弟が食事の前に顔や手を洗って身なりを整えられるようにしている。続いて五果(5種類の果物)、十二菜椀(12種類の精進料理)、五牲彫(5種類の動物の彫刻)、漢食椀卓(中華料理)などのテーブルがあり、好兄弟に好きなだけ食事を楽しんでいただく。満腹になった後は「看生」と言って、さまざまな食べ物を使った彫刻品が並んでいる。どれも生きているかのように見事に彫られており、まるで芝居を見ているようだ。最後に夜も更けてくると、夜食の「九龍碟」やフルーツの「水果籠」が並ぶ。料理が置かれるのはテーブルの上だけではない。テーブルの下には、かつて難産のために亡くなった妊婦の霊のために、昔から産後の肥立ちに良いとされる麻油鶏湯(ゴマ油とショウガのチキンスープ)が置かれている。

これら台湾の料理を食べ慣れない異国の「好兄弟」のためには「西洋料理」のテーブルもある。ステーキやワイン、コーヒー、ケーキ、刺身、味噌汁、軍艦巻きの寿司などもあり、西洋出身の「好兄弟」が食べやすいようにナイフとフォークも用意されている。食後には淋浴亭(シャワールーム)で身を清めることもできるし、翰林院(昔の役所、学者や官僚、紳士が集う場)や同帰所(軍人や兵士が集う場)などで休むこともできる。また、これらの儀式の合間には「経衣」が焼かれ、法要に来た「好兄弟」たちの暮らしに提供される。

「本国の霊も外国の霊も、子供の霊、老人の霊も、この法要に来てくださったら、すべて同じように供養し、おもてなしをするのです」と游淑珺は言う。これこそが鶏籠中元祭の最も重要な価値--憐みの心なのである。

水灯頭のパレードは鶏籠中元祭の見どころの一つだ。

各宗親会が用意した水灯頭を流す前には、大量の銀紙(冥銭)を入れ、焼香や扉の封印といった儀式を行なう。

水灯頭はかつては旧暦7月24日に放流していたが、財政支出削減のために7月14日に変更された。

「金松宴」とも呼ばれる基隆主普壇での済度の法要は、非常に大規模かつ盛大に行なわれる。

李雨莘撮影

清仏戦争で亡くなった兵士を供養するため、清国とフランスの軍服を着た人々が、フランス人墓地(法国公墓)で来賓を出迎えるというのが、この済度の活動の特色だ。写真は2022年の法要の様子。(右の写真:張廖簡宗親会提供、張晋超撮影/左の写真:李雨莘撮影)