博物学者の夢
多くの人にとって太平山の森林鉄道はトレイルの景観であり、林業発展の象徴だが、自然史研究者である呉永華にとっては、かつて多くの博物学者を夢の世界へと運んだ線路でもある。
1914年、日本当局は太平山の開発に着手し、これと同時に生物の採集や研究も始まった。呉永華によると、生物採集の難易度は交通手段の影響を受ける。初期の頃、太平山には足で登るしかなかったが、その未知の自然環境は多くの学者を惹きつけた。例えば、台湾の昆虫学研究の先駆けとなった素木得一は1923年に太平山を訪れた。この時は台北から草嶺古道を越えて列車で宜蘭へ出て、さらに採集装備を背負って蘭陽渓沿いを歩いて太平山に入った。長く苦しい道だったが、それでも多くの新品種を発見して成果をあげた。
1926年に太平山から羅東竹林駅までの列車が開通すると、太平山は学術研究と観光の人気スポットとなった。呉永華によると、著名な博物学者の鹿野忠雄も、この年に森林鉄道に乗って太平山を訪れ、台湾固有種のアケボノアゲハと出会った。当時まだ高校生だった鹿野にとって、台湾の山岳への扉を開くきっかけとなった。
「太平山倶楽部と神代谷の間の森の中で初めてアケボノアゲハを見た時は夢を見ているのかと錯覚した。緑の林の中から『桃色の夢』の影が飛び出してくる様は、まさに台湾の昆虫景観の中でも決して見逃すことのできない一幕だ」
鹿野忠雄は、その時の感動をこのように記し、アケボノアゲハの桃色の姿は、今も多くの登山愛好家の追い求める夢となっている。
貴重な黄金色の森
先人たちは太平山で数々の台湾固有種を発見し、彼らが残した貴重な記録は後の人々が追い求めるものとなった。例えば、台湾総督府中央研究所林業部の部長だった森林学者の金平亮三が『台湾樹木誌』に記載した、氷河期の遺物であるタイワンブナの分布については、その後、十数年にわたって多くの学者が探し求めてきた。
頼伯書によると、当時の文献に記載されたタイワンブナの位置には不正確なところがあり、ずっと見つけることができなかった。それが20数年前に林務局が定期的な林相の調査を行なっていた時、空撮で黄葉期のタイワンブナの林を発見したのである。それは太平山の翠緑湖に近い1100ヘクタールにわたる林だった。そこで林務局は継続的な調査を行ない、市民が観賞できるように台湾山毛櫸(タイワンブナ)歩道を整備した。
ブナは氷河期に緯度の高い地域から台湾へと広がった。後の気温上昇で氷河が溶けた後、ブナの生息地は標高300メートルから1800メートルの稜線まで移り、台湾固有種へと変化したのである。「台湾は世界的にブナの分布の南限に当たります」と話すのは羅東林管処育楽課の陳冠瑋だ。タイワンブナの結実率は低く、5年に一度ほどしか実を落とさない。また、生息地の地面はヤダケ林になっているため、苗の生長も難しい。このようにタイワンブナは長年にわたって不利な環境にあり、このまま温暖化が進めば他の優勢な植物が取って代わる可能性もある。こうした要因から、タイワンブナは文化資産保存法によって台湾希少植物4種の一つに指定されている。