物語あればこそ
次の善化牛墟(牛市)へと急ぐ。市場が閉まるまでに本場の牛肉スープを飲みたかったので、1時間ほど必死にペダルをこいだ。道の両側には、骨董や農具、果物などを売る屋台が並ぶ。またしばらく走ってやっと左側に飲食店が見えてきた。
屋台「258牛肉」の前には長い列ができており、あちこちの席から注文の声が上がる。我々は急いで席を見つけて牛肉スープを注文した。熱々のスープを匙ですくうと、たっぷり肉が入っている。これでたったの60元。かたわらでは処理場から直送された新鮮な牛肉が売られている
店名「258」の由来をおかみさんが説明してくれた。「毎月2日、5日、8日しか営業しないからです。開店前夜12時にはスープを仕込み始めます。翌朝5時半にはもう客が来て列を作っていますよ」3代目に当たるおかみさんによれば、台湾には北港、塩水、善化と三大牛市があって、そのうち善化が最大だったという。かつて田を耕していた牛も耕運機が登場して20年近く、市場で牛の売り買いはなくなったが、今でも新鮮な牛肉やその料理が売られ、多くのグルメが集まってくる。
お腹を満たした後は、市場の周囲を巡る道路から出て、県道178号線沿いに善化ビール工場へと向かう。左折して台1線に戻り、1時間ほど進んで171号線に入ると、最後には烏山頭ダムに着く。
烏山頭ダムは嘉南水圳(農業用水路)とともに日本統治時代の建設で、10年かけて完成した。このダムによって灌漑面積は5000ヘクタールから15万ヘクタールに激増し、嘉南平原は台湾の穀倉地帯となった。
烏山頭ダムのルートは今回最もきつい上りだった。パークに入ってすぐ、まずひとしきり坂道を上ってやっとダムの岸に着く。そのまま岸を走ると、片側に青い湖面、もう片側に緑の樹木という広々とした眺めが楽しめるが、強風も正面から吹き付ける。さらに進むと、ダムを建設した日本人——八田與一の銅像が見えてきた。妻の外代樹の墓もその後方にある。八田與一はフィリピンに向かう途中、乗っていた船が魚雷で沈められて亡くなった。外代樹は敗戦後、日本へ戻ろうとはせずダムに身を投げ、夫とともに台湾に眠る。ダム建設工事があまり身近な話ではない人間にとっても、それにまつわる物語には心動かされる。
最後のスポットは、台南市街地にある「聚珍台湾」書店だ。設立者の王子碩は、台湾人が自らの歴史に疎いと感じていた。歴史的英雄や優れた芸術家、産業発展の由来なども知らず、記憶の断絶が生じている。そこで、やるなら面白い方法で台湾史を広めようと考えたのだという。
店内には台湾の歴史に関する書籍が並んでいる。例えばおもしろいのは「台湾古写真上色(台湾の古い写真に色付け)」だろう。モノクロ写真に考証に基づいて彩色を施し、現代人にも馴染みやすくしたものだ。ネットで大反響を呼んだ。
台湾人がこれほど歴史に興味があるかと、王子碩には嬉しい驚きだった。少々の赤字は覚悟で始めた書店だったが、店で買う人もオンラインでの注文も多く、「聚珍台湾」の継続を支えている。
「身近なことを知らなければ、その価値も見出せず、大切さがわかりません」という王子碩の言葉は今回の台湾史訪問の旅にふさわしい。これら建造物や古い商店も、その歴史的な役割や働きを知らなければ、保存の大切さもわからない。
台湾の美を深く知るなら自転車の旅がいい。小さな町の路地に分け入り、見過ごされそうな店に立ち寄り、台湾史のひとコマにふれてみよう。
台南白河林初埤キワタ花道では毎年3〜4月上旬にかけて赤い花が満開になり、多くの人が訪れる。
創業70年になる瑞栄時計店オーナーの殷瑞祥さんは93歳。店内の古い時計は1時間ごとに一斉に鳴り響く。
新営製糖工場でかつてサトウキビを運んだトロッコは今は観光列車になっている。 傍らのスタンドでは台湾糖業特製のアイスを売っている。
劉啓祥美術館は、かつての台南一と呼ばれた劉家の邸宅とアトリエを開放したもので、劉啓祥の各時期の作品が展示されている。
上空から見た烏山頭ダム。その入り組んだ地形はまるで緑のサンゴ礁のように見えるので珊瑚潭とも呼ばれている。
善化牛墟は、かつて農耕に必要な牛の取引が行われた場所で、今も牛肉を扱う屋台が残っている。
明治末期に米の需要が高まり、日本は技師の八田与一を台湾に派遣して水利施設を建設させて米の増産を図った。
聚珍台湾書店は、現代の人々に祖先の歴史を理解させ、人々の記憶を断絶させないことを願っている。