
太魯閣(タロコ)峡谷は、海底に堆積した石灰岩が数千万年前にプレートの圧縮によって変質、そして600万年前に再び地殻が隆起し、そこを立霧渓が削り取って流れたことで、岩壁のそびえ立つ、変化にとんだ景観が作られた。
太魯閣峡谷のトレッキングルートは、標高数10メートルから1000メートル近くまで様々なコースがあり、体力や能力に合わせて選べる。今回、取材チームは標高60メートルの「砂卡礑歩道」と標高765メートルの「錐麓古道」を訪れ、それぞれの角度から大峡谷とカルスト地形の生態を観察した。また、台湾の公的機関で最も早くに組織された太魯閣国家公園(国立公園)登山道補修ボランティアチームとともに「大礼歩道」に入り、彼らが太魯閣の豊かな資源を利用して登山道補修を行なう様子を見せてもらった。

標高平均800メートルの山々が太平洋から垂直にそそり立つ清水断崖。
砂卡礑歩道 立霧渓の奔流
立霧渓沿いの砂卡礑歩道では、渓谷に響く立霧渓の水音を聞きながら、百万年前に起こった褶曲や亀裂が生んだ独特の景観を観察できる。ベテラン解説員の林茂耀が、この道は日本統治時代に作られたのだと教えてくれた。水力発電のために岩を爆破して工事用道路の支線を作ったのだ。
「砂卡礑」はタロコ語で「臼歯」を意味する。林茂耀によれば、命名の由来は2説ある。一つは、昔タロコ族が砂卡礑渓上流の河岸段丘に集落を作る際に、土から古い臼歯が出てきたというもの。もう一つは、上流の大同集落が臼歯の形をしているからというものだ。途中、ときおりタロコのお年寄りと出会ったが、林茂耀はそのたびに会釈をし、タロコ語で「バキ(おじいさん)」「パイ(おばあさん)」と呼び掛けていた。
太魯閣の空気の良さは、植物のおかげでもある。林茂耀が岩壁にカビのように生えた地衣類を指し、「これは空気が澄んで湿度の高いところにしか生えません」と説明してくれた。地衣類は藻類と菌類が共生して育つ。つまり藻類は光合成をして菌類に養分を与え、菌類は水分やミネラルを藻類に吸収させる。藻類と菌類の組み合わせで色も異なるため、太魯閣峡谷の登山道ではさまざまな地衣類を見かける。また、地衣類は酸性物質を分泌して石の風化を促すため、土となって植物が生えやすくなる。これも硬い岩場に豊かな生態が存在する原因となっている。
タロコ族の生活は植物と深く結びついており、彼らの文化が垣間見える。林茂耀は縁のギザギザしたカラムシ(苧麻)の葉を指差して言った。「これで原住民は服を作っていました」自然をよく知るタロコ族は、カラムシを煮て乾燥させ、織物にしていたのだ。登山道の中ほどにある「五間屋」は、彼らの農地があった場所で、かつては家が5軒あったのでこの名がある。彼らはここをタロコ語でガジュマルを意味する「スウィジ」と呼んでいた。これは砂卡礑一帯にガジュマルが多く生えているからで、ガジュマルの気根が岩の間を貫いて伸びる光景があちこちで見られる。

太魯閣国家公園の登山道補修ボランティア、方瑞凱(左)と林国文(右)は12年にわたって手作業での補修に取り組んできた。
錐麓古道 崖から望む峡谷
崖に沿って歩く錐麓古道は太魯閣峡谷で最も険しいルートだ。だが同時に絶景が楽しめる。向かい側の塔山山頂には雲が漂い、遥か700メートル下の立霧渓と道路も俯瞰できる。植物の種類もますます増えてきた。林茂耀は「ここには氷河期に台湾へ南下してきた生物が多く、やがて氷河期の終了と台湾海峡の出現によって、生物の命運は二つに分かれました。つまり絶滅と、台湾固有種への進化です。とりわけ太魯閣国家公園の植物は、隔絶された峡谷の地形のせいで太魯閣固有種へと進化しました」と言う。
「太魯閣櫟(タロコガシ)、太魯閣薔薇(タツタカイバラ)、南湖杜鵑(アカボシシャクナゲ)、奇莱紅蘭(ウチョウランの仲間)など、太魯閣国家公園内の地名を冠した植物が70種あり、そのうち56種が台湾固有種であることがわかっています」と言う。
錐麓古道の途中の巴達岡駐在所周辺は乾燥した岩石地帯で、葉先のとがったタロコガシが見られる。さらに登ると林茂耀が珍しいタロコシデとタロコヘビノボラズを指差した。「世界の熱帯‧亜熱帯植物の保護を推進する辜厳倬雲植物保護センターも、タロコシデには注目しています」錐麓古道の辺りは亜熱帯の標高1000メートル弱にあるが北東からの季節風に吹かれて低温なので、寒冷地特有のニイタカビャクシンも生えている。
生態豊かな錐麓古道だが、日本統治時代には山に暮らすタロコ族の巡視と、警察に生活物資を運ぶための道だった。1914年、「山道開通専門家」と呼ばれた梅沢柾警部が日本から作業員を率いてやってきたが、彼らは断崖絶壁を見るや引き返してしまったため、梅沢は仕方なく原住民の若者を雇い、岩壁を爆破しながら道を作った。
7カ月後、錐麓古道は貫通したが、工事で37名が命を落とした。古道研究家の楊南郡と徐如林の調べによれば、この道の開通後には立霧渓上流域に入って調査を行う日本人研究者が増えたことが史料からわかるという。例えばタイワンマスの発見者である大島正満博士は、警察に護送されてこの道を塔比多駐在所(現在の天祥)まで行き、ミカドキジを高値で買うとタロコ族に宣言して15対のミカドキジを日本に持ち帰っている。
登山者がボランティアに
起伏の少ない砂卡礑歩道も、高低差の大きい錐麓古道も、どちらもボランティアが手仕事で作ったり補修したりしたものだ。だが登山道は自然に溶け込むことが求められるので、登山客がそれに気づくことはほとんどない。この陰の功労者たちはボランティアになって12年、生態保護やガイドのボランティアを兼ねる人も多い。林国文はチームの中で最も経験豊富、メンバー間の調整に長け、作業の順調な進行に貢献している。江曽為真は、登山道補修の話をガイドの解説に盛り込み、補修が生態系保護を考えたものであることを皆に知ってもらおうと心がける。陽明山国家公園の生態保護ボランティアでもある方瑞凱は、太魯閣の美しさに魅了され、この地を離れられなくなった。難度の高い登山道に挑戦するのが好きな張朝能は、客に褒められて達成感を得ている。
なぜボランティアをするのかと問うと、4人とも「恩返し」だと言う。「山登りが好きで、登山道のヘビーユーザーですから」江曽為真は以前、台東の嘉明湖に行く途中、大きな石に足を取られて捻挫した。それでボランティアになってから、仲間とともに嘉明湖の山道にある大きな石を除去した。太魯閣の屏風山で登山者が滑ってケガをしたと聞いた張朝能も、太魯閣国家公園での新ルート調査に加わった。
手仕事での補修は時間がかかるが、環境にやさしく、生態を守れると、林国文は言う。「手作りとは、現地で材料を調達し、生態系に影響を与えないことです。しかも登山者の目で修復するので快適に歩けるようになります」

砂卡礑歩道の中ほどには、日本統治時代に砂卡礑渓の水を送った巨大な水道施設がある。
現地調達の登山道
実際に彼らと大礼歩道に赴き、仕事を見学した。林国文が「登山道補修は季節に応じ、夏は高山で、冬は標高の低い地域で行います。長時間の作業には快適な環境が必要ですから」と言ってから、ペンキの塗られた石を指し、説明した。「先に現地調査して、まず作業エリアや地点に印をつけます。調査は雨天にやった方がよく、それは雨水の流れる方向を見定めて、排水を考えた補修ができるからです。最後に、各自の得意なことや体力に応じて仕事を分担します」。
それぞれが主体的に自分に合った仕事を見つける。20~30キロもある石を協力して運ぶ人もいれば、土や砂、小石を集めて路面に敷く人もいる。大きな石を運ぶ人が「通るよ!」と声をかければ、周りは直ちに手を止めて通してあげなければならない。「何かで仲間に摩擦が生じた時は、夜コーヒーに誘って話し合います」ただ、もう長年いっしょにやっているので言わなくてもわかり合えていることは多い、と林国文は笑った。
林国文と方瑞凱の二人で、路面をしばらく観察した後、大きな石を探しに行く。「道の傾斜に影響を与えないよう、資材は道から20メートル以上離れた所から調達します。また水の流れに沿った溝を作って排水しないと、ぬかるんで登山が困難になります」運んできた石も、地形に応じた置き方を考え、しっかりと土に埋め込み、最後に2人が交代で石を叩いて路面をならし、隙間を砂利で埋めていく。「これで歩きやすくなり、泥もできにくくなります」と林国文は言った。
大礼歩道の補修は0.7キロの地点まで進んでいる。これらの登山道を歩き、手作業での修復の快適さや生態保護の精神を感じながら、豊かな地質資源や自然景観に触れてみてはいかがだろう。

砂卡礑歩道からは透き通った砂卡礑渓の流れと褶曲のある岩壁が見下ろせる。

砂卡礑歩道は、日本統治時代に水力発電所を建てるために岩を爆破して開かれたルートだ。


自然資源が豊富な太魯閣国家公園では、登山道補修ボランティアは周辺で補修資材を見つけることができる。

これら経験豊富なボランティアのおかげで、旅行者は安全かつ快適にトレッキングコースを歩くことができる。