心に刻む母の味
各国の料理を味わい尽くしたが、夜中に目覚めて思い起すのは母の味である。阿桐シェフが再現したいのは母の味であり、それがまた美食家たちの舌を魅了する。
バンコク生れの阿桐シェフは、幼いころから料理の神秘に惹きこまれていた。珍しくもない野菜や魚に肉などが、母が香料を用い、漬け込み、混ぜ込むと、たちまち夢幻のように新しい一皿となり、食欲をそそる香りが鼻を打つのである。
海軍士官の父には来客が多く、お客様のために母はテーブル一杯に料理を出した。お客様の感嘆の声を聴き、美味しい料理はこれほど喜ばれるのかと、幼いながら楽しかった。
父が家にいれば、母はおつまみに心を砕き、長年海にあり苦労している父を喜ばせた。杯を酌み交わす夫婦の和やかな語らいは、今も阿桐シェフの心に刻まれている。そして、その光景を思い出すたびに料理の種類は千変万化だが、そこにある愛が精髄であり、温かみがなければ、料理は幸福を伝えられないと悟るのである。
二十歳前にその両親は一年ほどの間に相次いで世を去った。両親を失った彼女は年齢以上に早熟となった。当時、まだタイの料理学校Saowapa Collegeに在学していたが、すでに働きながら学ぶ生活を送っていて、その混乱した環境の中でも、静かに忍耐強く訓練を続けていた。
レストランのバックヤードは細かく分業されていて、彼女は調理を専攻していたにもかかわらず、マンダリン・オリエンタルの有名なタイ料理レストランでの実習は、フルーツのカットだった。「毎日、頭も上げずに切り続けました」と言う彼女は、早くから厨房でてきぱきと自分の仕事を終わらせ、それからあたりを見回し手伝った。最初はシェフから邪魔だと叱られたが、暫くするとこの小娘が何でもできることに気づき、18歳で調理を任せてくれ、頭角を現すようになった。
美食家たちが絶賛するハタの素揚げのフルーツ ソースとトムヤムクン。絶妙な味付けに箸が止まらない。