理想の国土を踏んで
1975年、この光武部隊も撤退することになった。妻と娘を連れ、ついに台湾の地を踏んだ王根深は、言葉にできないほど心が震えた。忠貞新村に入り、やっと安定した家が持てた。「眷村の軍人と家族はある種の移民のようなものでした。雲南省出身者だけでも10の少数民族がいて、タイとビルマの近くからはタイ族とチンポー族がいます」と言うのは、桃園市金三角文化基金会の副事務局長を務める徐宏錦だ。
民族の多様性と団結心で、忠貞新村は独自の文化を作り上げた。経済的な必要性と、故郷の味を求める思いから、王の妻や妻の母を含めた家族たちが次々と郷土料理店を開いたのだ。雲南・タイ料理がここに見事に再現されたのを見て、台湾に来てからも軍職に就いていた王根深は、忠貞新村の発展の道を感じた。
王根深は基金会と発展協会をいくつか立ち上げた。目的は、忠貞新村にある食文化、民族、伝統工芸など各種文化を、それぞれの会が発展させることだった。眷村は一度、取り壊しの危機に瀕したことがあったが、彼は古い建物を何軒か買い取って、建物の原形はとどめたまま、雲南ミャンマー料理店や服飾店などを開き、店内には旧国軍時代の古い写真や文物を展示した。ほかにも彼は舞踊団を作り、祝祭日には雲南・ミャンマーの伝統舞踊を披露した。各協会の力を合わせたこうした努力で、ついに人々は忠貞新村の独自の魅力に気づき始めたのである。
「桃園は広く、当時は人口も少なかったので、撤退してきた部隊と家族をこの地に集めたのです」桃園市金三角文化基金会の副董事長であり、国防部政戦局の元局長である聞振国はこう言う。「政戦局局長だったので雲南反共救国軍の歴史は知っており、退役軍人として心から彼らを尊敬します。後に、王理事長の計画を知り、迷うことなく加わりました」忠貞新村は新たな魅力で多くの人を引き付けるようになった。だが王根深には次の目標があった。老兵が次々と亡くなり、歴史が埋もれてしまいそうな今、文化館パークを作り、孤軍の物語を伝えようと決心したのだ。
ビルマでの少年時代から華文学校時代、そして結婚して子供が生まれるまで。壁にかけられた写真は、光武部隊の遊撃隊員だった王根深の生涯を伝えている。