
「雲南反共救国軍(別名「雲南ビルマ国境地帯遊撃部隊」)」は、一般にはあまり知られていない特殊な部隊だった。国共内戦が終わって国民政府が台湾に移った後も、この部隊は現在のミャンマーと雲南省の国境辺りを彷徨しながら、最後に台湾に撤退するまで必死に戦いを続けたのである。
こうした勇敢な兵士たちがいたという歴史を皆の記憶に留めてほしいと、同部隊の隊員やその子孫は桃園市と国防部(国防省)に対し、「異域故事館」パークの建設を幾度も提案してきた。
「異域(外地)」で孤立しながらも勇敢に戦った同部隊の事績は、軍や政府の注目を集め、ついに支持を得られて桃園に記念館が建てられることになった。
10年余りの長きにわたる孤軍奮闘の歴史が、今、忠実に伝えられようとしている。
桃園龍岡の「忠貞新村」は、台湾に撤退してきた雲南反共救国軍のために作られた眷村(軍人とその家族が暮らす地区)だ。今では同眷村はリノベーションされ、雲南料理も味わえるスポットとしてにぎわっている。この成果はすべて、「魅力金三角地方特色産業発展協会」理事長である王根深によるものと言っていい。この部隊がかつて戦った地域はミャンマー、雲南、タイの国境地帯だったが、この辺りはケシの花の栽培に適しているので「ゴールデントライアングル(金三角)」と呼ばれている。「忠貞新村はちょうど桃園市の中壢、平鎮、八徳の境界にあるので、ここの人たちは面白がって、ここも「金三角」だねと言うのです」71歳ながら、すらりと背筋の伸びた王根深は、張りのある声で笑いながら語った。

古い文物が語りかける物語は、言葉より人の心を動かす力を持つ。
「忠貞」の意味するところ
「忠貞新村」という名は、雲南反共救国軍が自分たちでつけた。「この部隊は、雲南の漢人、雲南辺境の少数民族、当時のビルマやタイの華僑などの集まりでしたが、いずれも台湾に対して『忠貞(忠誠)』の心を持っていることから、眷村にこの名をつけました」と言う王根深は、最後に撤退してきた一団の一人であり、末期の遊撃戦でのわずかな生き残りの一人でもある。雲南反共救国軍の「光武部隊」に属していた。「命からがら引き上げてきましたが、我々のことを知っている人は少なく、この部隊が何をしていたのかも知られていないのです」歴史が兵士を忘れてしまう、それが王根深は残念でならない。
王根深はミャンマー華僑で、父親は戦時中に雲南から逃れてビルマに定住、ヒスイ鉱山を開いて成功した。1950年にビルマのミッチーナーで生まれた王根深はこうして裕福な家庭で育った。「幼い頃から自分は華人だと知っていました。当時はビルマにも華文小中学校が建てられ、先生は皆、撤退し切れなかった黄埔軍官学校の学生でした。それで私は小さい時から孫文の革命の物語を聞き、三民主義にあこがれて育ったのです」ビルマの身分証を持っていても、心の故郷は常に国民政府のある台湾だったという。それで、戦争中だった国民政府のために何かしたいと銃を持つことを選んだ。まだ15歳、背丈はまだ銃の高さにも及ばなかった。

激動の時代の孤軍
「1949年、国民政府の撤退に間に合わなかった部隊が、雲南を越えてビルマ国境へと逃れました。通信手段を失い、台湾の国民政府とも連絡がつかぬまま、自力で生きのびるしかありませんでした」と、王根深はこの孤軍の物語を感慨深げに語り始めた。「家族の元に帰りたいと願わない者はいません。でもそのためには、この乱世を生き延びねばならないのです。作戦経験の豊富な部隊でしたから、ゴールデントライアングルを行き来する商隊の護衛をすることにしました。収入を得ながら、兵士を集めたり、台湾へ情報を伝えたりする機会を窺っていました」
同地帯で商売する商隊は、ビルマやタイの政府にとって厄介な存在で、タイの「星暹日報」も商隊と護衛兵士の話を記事にした。それが、遠く台湾にいた国民政府の目に留まった。「李弥将軍はこの時初めて、自分の部隊の一部がまだビルマ国境であきらめずに奮闘していることを知ったのです。李将軍は命令を受けて全部隊を率いてやって来ました。折しも朝鮮半島で戦争が始まっていました」王根深が生まれたのがちょうどその頃だった。部隊は米軍を援護するために雲南で幾度か攻撃を仕掛けて後方を牽制し、朝鮮半島で国連軍にかかる圧力を和らげた。
朝鮮戦争後の1953年から1961年まで、部隊は2度にわたって将校や兵士とその家族1万人余りを撤退させ、彼らは桃園龍潭や屏東、高雄などの眷村に落ち着いた。そのうち最大数の7000人余りが定住したのが桃園の忠貞新村で、ほとんどが雲南省出身者だった。12年の漂泊の末、やっと祖国の胸に抱かれたのだった。だが、撤退を望まない兵士たちは、戦火の絶えないゴールデントライアングル(主にビルマ)に残った。王根深が入隊したのはまさにこの時期の「最後の孤軍」だったのである。

仲間が次々と
王根深が15歳の年、雲南反共救国軍の中に、情報伝達のための「光武部隊」が作られた。「当時私はまだ中学1年、こっそり家を出たのです。台湾のために何かをしたいという一心でした。光武部隊に入り、訓練を受けるため、丸1年かけてビルマのミッチーナーからタイ国境のドイアンカーン基地まで行きました」出発時に各人が着ていた純綿の軍服が、基地到着後には縫い目でつながった数切れのボロ布になっていた。「途中でマラリアにかかってしまい、仲間や先生が交替で背負ってくれてやっと到着しました」王根深の脳裏には数十年前の記憶が昨日のことのようによみがえる。「はっきりと覚えていますが、1966年10月の夜10時に基地に到着し、各自にカービン銃1丁とまっさらの軍服が1着支給されました」
1年余りの訓練を終えた時、王根深はまだ満17歳になったばかりだった。部隊は犠牲者を多く出したのと、2度の撤退を経て、残った隊員のうち中国語が理解できる者は多くなかった。華文学校で学んだ王根深は少尉としてビルマの国境に派遣され、6年にわたる部隊生活が始まった。「慣れないジャングルや渓谷での戦いで、ビルマ軍、タイ軍、解放軍に三方から攻められ、進退窮まり、通信も途絶え、まさに孤軍となりました。熱血の先陣部隊でありながら、時代が生んだ外地の孤軍だったのです」と語る。
戦争は残酷なものだ。ともに訓練を受けた68名のうち、生き残ったのは2割に満たなかった。「私も一度はビルマ軍につかまって牢に入れられました。妻が命の危険を冒して助け出してくれたのです」王根深の妻、李詩梅は雲南リス族の人で、当時は二人目を身ごもっていたが、果敢にも夫を助け出したのである。

理想の国土を踏んで
1975年、この光武部隊も撤退することになった。妻と娘を連れ、ついに台湾の地を踏んだ王根深は、言葉にできないほど心が震えた。忠貞新村に入り、やっと安定した家が持てた。「眷村の軍人と家族はある種の移民のようなものでした。雲南省出身者だけでも10の少数民族がいて、タイとビルマの近くからはタイ族とチンポー族がいます」と言うのは、桃園市金三角文化基金会の副事務局長を務める徐宏錦だ。
民族の多様性と団結心で、忠貞新村は独自の文化を作り上げた。経済的な必要性と、故郷の味を求める思いから、王の妻や妻の母を含めた家族たちが次々と郷土料理店を開いたのだ。雲南・タイ料理がここに見事に再現されたのを見て、台湾に来てからも軍職に就いていた王根深は、忠貞新村の発展の道を感じた。
王根深は基金会と発展協会をいくつか立ち上げた。目的は、忠貞新村にある食文化、民族、伝統工芸など各種文化を、それぞれの会が発展させることだった。眷村は一度、取り壊しの危機に瀕したことがあったが、彼は古い建物を何軒か買い取って、建物の原形はとどめたまま、雲南ミャンマー料理店や服飾店などを開き、店内には旧国軍時代の古い写真や文物を展示した。ほかにも彼は舞踊団を作り、祝祭日には雲南・ミャンマーの伝統舞踊を披露した。各協会の力を合わせたこうした努力で、ついに人々は忠貞新村の独自の魅力に気づき始めたのである。
「桃園は広く、当時は人口も少なかったので、撤退してきた部隊と家族をこの地に集めたのです」桃園市金三角文化基金会の副董事長であり、国防部政戦局の元局長である聞振国はこう言う。「政戦局局長だったので雲南反共救国軍の歴史は知っており、退役軍人として心から彼らを尊敬します。後に、王理事長の計画を知り、迷うことなく加わりました」忠貞新村は新たな魅力で多くの人を引き付けるようになった。だが王根深には次の目標があった。老兵が次々と亡くなり、歴史が埋もれてしまいそうな今、文化館パークを作り、孤軍の物語を伝えようと決心したのだ。

ビルマでの少年時代から華文学校時代、そして結婚して子供が生まれるまで。壁にかけられた写真は、光武部隊の遊撃隊員だった王根深の生涯を伝えている。
異域故事館に向けて
「ここは台湾で雲南人が最も多く、桃園は急速に発展しているので子や孫の世代もここに集まってきて、人口も数千人から一気に数万人に増えました」と自らも雲南人を祖先に持つ、魅力金三角地方特色産業発展協会総幹事の周秉中は言う。
人口の増加とともに、公共施設へのニーズも高まり、眷村には幼稚園、教会、市場などができた。建物の老朽化で取壊しの話が出た時も、王根深は10数軒の家屋や教会を買い取り、イギリスで設計を学んだ長女の王璐菲に改築の設計を任せた。眷村の元の姿を残しながら現代感覚をプラスし、目を見張るような新たな姿に生まれ変わったのである。次女の王恩寧が忠貞新村の運営長を務め、文化と飲食を融合させ、店の前でも食品を売ったりイベントを企画したりして、忠貞新村に多くの商機をもたらしている。「伝統の雲南の味、新鮮なタイ・ミャンマーの味」は、異域故事館にとっても基調となるだろう。
王根深が昔の幼稚園跡に案内してくれた。忠貞新村の歩みを見てきた老樹が何本か立つ。残された赤レンガの壁はやがて故事館の外観となる。「ここが異域故事館になります。私はそのために、すでに機密解除された文書や写真、文物をあちこち集めて回り、借りた大きな倉庫に保存して修復もしています。すばらしいビデオ映像も作ったのですよ」地面に映る王根深の影が、揺るぎない大樹のように真っ直ぐに伸びていた。
「私には重責があります。老兵を気にかけ、かつての孤軍の思いを伝えることです。私は何でも覚えているので、台湾人にも覚えていてほしい。かつてはるか遠くの外地で命を顧みず、戦火を潜り抜け、砲弾の中を生き残った人々のことを。『雲南反共救国軍』と呼ばれた彼らのことを」「異域故事館」は、知られずにいた彼らの物語、名前、戦績、魂を伝えていくだろう。

王根深は、廃棄された幼稚園の赤レンガの壁の残骸を保存しており、将来はこれを異域故事館の外壁として蘇らせたいと考えている。

本格的な雲南・ミャンマー料理や雲南省少数民族の手芸などは、文化を保存するためだけでなく、忠貞新村の新しい収入源にもなっている。


旧教会がリノベーションによってレストラン「癮食聖堂」に生まれ変わり、新旧が入り混じる魅力的な空間となった。

鮮やかな色彩の図案が古い眷村に新たな命を吹き込む。忠貞新村が芸術と結びつき、異域の孤軍の物語を語り継いでいく。